欠片(1)
――生きた心地がしないというのは、こういうことか。
そもそも電車の座席の段階で、長時間のイチャイチャを見せつけられた段階でもうギブアップ寸前だった。これなら一人で別行動していた方がまだマシだ。判り難い場所であるとか、無人駅とか。そういった事情に流されてしまった過去の自分を、張り倒してやりたい気分だった。大丈夫、携帯の電波が繋がるなら、大概のことは解決出来る。
「ほらね、何もないんですよ、駅前通りなのに。嫌になっちゃう」
嫌になっているのはこっちだ。ユミコの能天気な声に、ヨリは胃の中がむかむかとしてきた。気が付かない振りをしているだけなのか、それとも本気で空気が読めないのか。後部座席でユミコの隣に座っているテルアキの方が、まだ人としての感性は保持している様子だった。
「はぁ、まぁ、ええっと……」
ルームミラーにちらりと視線を向けて、テルアキは曖昧な返事でお茶を濁した。重い。何もかもが重い。ごく普通の乗用車のはずなのに、その内部には通常の百倍くらいの重力《G》が発生している気がする。ヨリは恐る恐る運転席の方に目をやった。
そこには、無言でハンドルを握るヒロキの姿があった。駅まで迎えに来てから、ほとんど言葉らしい言葉を発していない。その理由は明確だ。ヒロキは最初にユミコの隣に立つテルアキを目にした時、前衛芸術のパフォーマンスみたいに硬直してしまっていた。
一応、ユミコからは「年上の彼氏」を連れていくと伝えてあったのだそうだ。年上、オーケー。テルアキは間違いなく、ユミコよりも年長者ではある。元許嫁のヒロキが送迎の運転手を買って出たのも、それなりの覚悟があってのことだろう。
だがしかし――これはいくら何でも酷すぎる仕打ちと言うべきものではなかろうか。
「どうも、内藤テルアキです」
ヒロキの自我は大気圏を超えて、木星の衛星軌道上ぐらいにまではトリップしていた。モノリスの大群が押し寄せて、眩い輝きと共に第二の太陽が誕生する。その瞬間が脳裏に浮かんだくらいになって、ようやくヒロキは現実に帰ってきた。偉い。良く戻ってこれた。ヨリはそれだけのことでヒロキを褒めてあげたかった。
「西浦ヒロキです。あの、ユミコの――」
「元婚約者の方ですよね。存じ上げております。ユミコさんを大切にしてくれて、ありがとう」
これは必殺ブローだった。恐らくはテルアキの方には、悪気なんて微塵もなかっただろう。そしてそれが、破壊力を更に倍増させていた。見えないパンチを浴びて、ヒロキはイメージ的に地球を一周する程度のダメージは負ったはずだった。その場に膝をつかなかっただけでも、大したものだ。ヨリは顔を明後日の方向に背けながら、「もういい、もういいんだ」と小さく独りごちた。
その後、ヒロキから言葉という概念は消えた。「ああ」とか「うん」とか。生返事というよりも、野生動物の呻きみたいな音しか発していない。ヨリが「久しぶり」と声をかけても、「うあ」としか応えないのだから失礼極まりなかった。ただその心中は察して余りあるので、仕方なくノーカウントとしてはやるが。普段ならブチ切れて、一発ぶちかましてはやるくらいの態度だった。
「テルアキさん、退屈じゃないですか? 無理に三日も滞在しなくてもいいんですよ?」
「いえ。ユミコさんのご家族にはきちんとご挨拶したいですし、これでも楽しんでいますよ」
イチャつくとはいっても、それなりに節度を守った状態ではある。距離感が近くて、常に話に花を咲かせている、という感じか。まあでも、ヨリをイラつかせて、ヒロキから言語を奪うくらいには強烈だった。悪路のせいで車が揺れると、後部座席にいる二人がぶつかりそうになる。そのたびにヒロキの眉がピクリ、と動くのがヨリにはたまらなく恐ろしかった。
「ええっと、ヒロキくん、元気してた? 私のことは覚えてるよね?」
何でこんな太鼓持ちみたいなことをしなければならないのか。ヨリは助手席に座って、一生懸命ヒロキに話しかけ続けた。少しでもこの微妙な雰囲気を何とかしたい。そうでなければ、このド田舎で全員そろって無理心中の道連れだ。
「ええ、はあ、まあ」
ヒロキの方も、徹底的に言語中枢がやられていた。いや、下手をすればそこにヨリがいることすら認識出来ていないかもしれない。目線が後部座席のテルアキにロックオンされたままだ。前、前を見て運転してほしい。
ヨリにとってはどんな絶叫マシンよりも最悪な、恐怖のドライブの幕開けだった。
年末年始には、ユミコはテルアキを連れて里帰りをする。
それ自体は良いことであると、ヨリもそう思った。いつまでもヨリの家に居候しているという嘘を吐くのにも、嫌気がさしていたところだ。二人はお互いに納得して同棲しているのだし、いい加減両親にも認めてもらうというのが筋だろう。
問題はユミコがその帰省に、ヨリも一緒にどうかと誘ってきたことだった。
ヨリは東京で実家暮らしだ。両親の生家には毎年お盆の時期に帰っていて、年末年始は主にこちらで過ごしている。もしヨリさえ良ければ、旅行がてらにユミコの実家まで遊びにこないか、ということだった。
正直、話を聞いた時点ではヨリは気乗りしなかった。何が悲しくて、ラブラブカップルに女一人でくっついていかねばならないのか。ヨリの家では毎年お正月には、コタツに潜ってテレビを点けっぱなしにしておくのが習わしだった。彼氏なんて、都合の良い幻想だ。今年も例に漏れず、そんな自堕落な生活を送る気満々でいた。
しかしヨリは二人がこっちで同棲生活を送る上で、月緒家を騙して誤魔化し続けていた一味でもあった。テルアキが自分のことを伝えにいくならば、ヨリも自らの罪を告白して頭を下げなければ具合が悪いだろう。嘘は、バレたなら素直に認めて速やかに清算するべき。これはヨリの中では大事なルールだった。
都会で一人暮らししている娘が、四十を超えたオッサンと同棲しているとか。その行為に加担していたのだと考えてみると、ヨリは急に自分が極悪人になってしまったような気がしてきた。これでも一応、意見も反対もした。ユミコはそれでも自らオオカミの巣の中に飛び込んで、ぺろりと美味しく平らげられてしまったのだ。今ではどこからどう見ても、立派な愛人カップルと化している。まったく、どうしてこうなった。
唯一の良心が、まさかのそのオッサンの方だというのが更に問題だった。テルアキはユミコと外を歩く時には、かなり気を遣っている様子だった。二人が正式に愛人になった後、直接報告を受けた際もそうだ。適度な距離感を保とうとしたり、話し言葉も以前にも増して丁寧になっている。テルアキはユミコといることが悪目立ちしないようにと、相当に苦心しているのが感じられた。
「褒められた関係でないことは確かなので、なるべくユミコさんの名誉を傷つけないようにしたいんです」
その意見だけは、実にご立派だった。流石、一度は無理にユミコと別れようとしただけのことはある。だが肝心のユミコの方は、すっかり浮かれモードでダメダメだった。
こちらの気持ちも、ヨリには判らないでもなかった。この半年間、その意味合いはあれこれと変遷しつつも、ずっと「テルアキさん」だったのだ。気になっていた人から、好きな人に見事にジャンプアップして。紆余曲折を経て、今では毎日可愛がってもらっている。そりゃあ頭の中だってピンク一色に染まるだろう。
「やっぱり、ちゃんと認めてもらって、胸を張ってお付き合いしたいかな、って」
あんまり堂々としていたら、それはそれで問題だ。テルアキが心労で倒れてしまうかもしれない。ユミコはちょっとばかり、無邪気に自分の感情をストレートに晒しすぎだった。べたべたとまではいかなくても、雰囲気だけで二人の関係性は何となく察せられるくらいではある。
そのせいで、ヒロキの運転する車の中でヨリの寿命は十年は縮んでしまった。
判ってやっているのか何なのか。ヒロキはかつてのユミコの許嫁で、つい最近までユミコへの想いを引きずっていた男だ。そんなヒロキのすぐ後ろで、ユミコはテルアキと楽しそうに談笑している。ヒロキの方もこうなる予想はついていただろうに、どうしてのこのこと運転手などをしているのか。
大方、どんな野郎かといの一番に確認してみたかった、といったところか。そこに思わぬカウンターを喰らった、という感じか。そりゃあユミコと同い年のヒロキが、こんなオッサンに負けたとかは考えたくはないだろうし。
何より二人は今現在、愛人として同棲しているのだ。死にたくなる気持ちは理解出来るので、頼むから無理心中だけは勘弁してほしかった。
――お前ら、本当にいい加減にしろよ。
そう怒鳴りたくなるのを、ヨリはぐっと堪えて飲み込んだ。ああ、胃が痛い。この後はユミコの実家で、これまでに吐いた嘘についての謝罪だってしなければならないのに。前哨戦にしては、少々厳しすぎじゃないですかね。
「……ほら、この辺りから民家すらなくなるんですよ」
ユミコの声につられて、ヨリは窓の外に目を向けた。そして思わず、ぽかんと口を開けて放心してしまった。
「すごい」
銀世界、なんて言葉があるが――そんな生易しいものではなかった。どこまでも続く、白一色。多分、車の周囲は普段は畑か田んぼなのだろう。そこに積もった雪が、なだらかな平面を無限に作り出している。色彩どころか、遠近感までおかしくなってしまいそうだ。陽光を浴びてキラキラと光る雪原は、正しく銀色の大海原だった。
「地元民にとっては、大して珍しい風景でもないんだがな。他所からきた人間は大体これを見て驚く」
「えー、実際すごいじゃないですか。こんなに綺麗なの、初めて」
十秒ほど雪景色に見惚れて、それからヨリはようやくその事実に思い至った。恐る恐るヒロキの方を振り返る。ハンドルを握ったヒロキが、いぶかしげな表情を浮かべてみせた。
「何?」
「いや、やっと普通に話してくれたなって」
「ああ……悪かった」
ぶすっと口を尖らせると、ヒロキは視線を正面に戻した。やっとのことでここまで回復出来たらしい。良かった。これで交通事故死の確率はぐんと下がったはずだ。後は後部座席で相変わらずきゃっきゃうふふしている、年の差バカップルが大人しくなってくれさえすれば良いのだが。
「テルアキさん、スキー滑れるんですか?」
「昔やったきりなので、身体が覚えているかどうかですね。運動不足でもありますし」
「そんなこと言って、結構逞しいじゃないですか。大丈夫ですよ」
うん、こいつらは死んだ方が良い。道連れだけは勘弁だ。ヨリは深く溜め息を吐いた。幸せの団体夜逃げツアー。ヨリの幸福なんて、もう諦めた方が良いのではなかろうか。カップルなんてみんな死ねば良いのに。
「こいつら、いつもこうなのか?」
突然話しかけられて、ヨリはびっくりして眼を見開いた。ヒロキの視線は、前に向けられたままだ。でも今の問いかけは、間違いなくヨリに対してのものだった。ごくりと唾を飲み込んで、それからヨリは口を開いた。
「大体こんなんですね。二人の世界に入っちゃうというか、ちょっと子供っぽいというか」
ユミコにもテルアキにも、その自覚が少々足りていないのがヨリの悩みどころだった。高校生くらいの、初めてのお付き合いのカップルを彷彿とさせる。一緒にいるのが楽し過ぎて、周りのものが全部視界から消え失せてしまうのだ。仲がよろしくて大変結構。大体途中でテルアキが我に返って、急ブレーキをかけることになる。ユミコの方が食い足りないという顔をするところまでが、一連のルーチンだった。
「そうか。ユミコが幸せなら、何よりだ」
ヒロキの口許に、うっすらと笑みが浮かんだ。ヨリはそれをじっと見届けて、それから声を潜めて話しかけた。
「本気で、そう思ってます?」
ちらり、とヒロキはヨリを一瞥した。その仕草だけで、ヨリはヒロキの気持ちを悟った。そりゃあ、そうだ。人間、そう簡単に自分の感情を割り切ったりなんかは出来ない。特にこういうのは、男性の方が引きずるものだとヨリも知っていた。ヒロキはヨリの言外の意思を察すると、軽く肩をすくめてみせた。
「そう思えるようになるために、今日はこうやって迎えにきたんだ」
わざわざ苦しんでまで、自分自身に止めを刺しにきた訳だ。ならユミコのあの態度は、それを判った上でのことなのかもしれなかった。変に希望を持たせるよりは、しっかりと絶望を与えておく。ユミコとヒロキの関係は、終わった。ユミコの未来は、テルアキと共にある。残酷にも思えるが、これもまたこの場にいる人間たちにとっては必要な儀式の一つなのかもしれなかった。
「良い人、見つかりますよ。きっと」
「どうかな。ぶっちゃけ自信がない。それだけ本気だったからさ」
掛け値なしに、ヨリはヒロキを褒めたつもりだった。一途で、思いやりがあって。きちんとけじめをつけて行動が出来る人だ。見た目も悪くないし、お買い得物件だといえる。ただ一点、致命的な瑕疵があるとすれば……
過去にとらわれ過ぎているところか。
――それは私も、同じか。
ヨリは自分の掌を見下ろした。指先で、派手なネイルが煌めている。ヨリがずっと、引きずり続けているもの。これももう、何のために着けているのか判らなくなり始めていた。




