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愛人契約はじめました  作者: NES
第XI章 蒼
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蒼(5)

 『翡翠の羽』は、丁度ランチの営業が一段落したところだった。ドアベルの音に反応して、エプロン姿のチカがくるり、と振り返る。コーヒーのかぐわしい香りに包まれて、ユミコは思わず胸いっぱいに空気を吸い込んでいた。


「いらっしゃいませ、ユミコさんと、あと変態オーナー」


 チカの言葉には、相変わらず情け容赦がなかった。テルアキがむっとして眉根を寄せる。残念ながら「ユミコの生活全般の面倒をみる代わりに関係を持っている」という状況に関しては、何ら否定出来る要素が存在していない。女子大生を愛人にしている、変態の中年男性。その悪辣あくらつなレッテルからは、当分の間は逃れられそうになかった。


「正月には挨拶にいくんだろ? そこで話をつけてくれば良いんだって」


 カウンターにいるケンキチが、慌ててフォローを入れてきた。ユミコからの提案で、次の年末年始には二人はユミコの実家を訪れる予定になっていた。隠し事をしながらのお付き合いは、今の状態が状態だけにあまり好ましくはない。ユミコとテルアキの口から直接きちんと説明をして、月緒家の人々には真面目な交際であることを判ってもらうつもりだった。


「いやぁ『話せば判ってもらえる』って、そんなお気楽な内容でもないでしょうに。オーナーはちょん切られて、畑の肥やしにでもされちゃうんじゃない?」


 一番隅っこのテーブル席にいたフミカが、顔を上げて「イキキ」と意地悪な笑みを浮かべてみせた。その可能性だってなくはないだろうと、テルアキだって恐れているところだった。ユミコの実家である月緒家にまつわる怖い話は、ユミコからもことあるごとに色々と聞かされていた。

 特にユミコの父親である月緒エイジは、どうやら末娘のユミコを溺愛できあいしている様子だった。その愛娘まなむすめが、二十二歳も年上のおじさんと同棲していると知れば、その怒りはどれ程のものとなるのか。ユミコパンチをはるかに超える必殺技が、月緒家にはまだまだ存在しているに違いなかった。


「大丈夫ですよ。私が選んで、私が認めた男性ひとなんですから。ちゃんと納得させます」


 ユミコが、ぎゅうっとテルアキの腕を抱いてきた。そもそも二人のこの不実な関係性を一番気にしているのは、当のテルアキだった。そのことを良く理解してるからこそ、ユミコはこの里帰りの計画を提案したのだ。

 ユミコの実家がテルアキとの交際を認めて、生活の援助についても何らかの合意を得られさえすれば。二人はとりあえずは普通の『年の差カップル』、くらいの間柄には落ち着ける。『愛人』の関係は、それはそれでちょっと面白いと感じ始めてきたところではあるが。ヨリに言わせればそれは、「ハマっている」という非常にまずい心理状態なのだそうだ。


「でも不健全なんでしょ?」

「そりゃもう。お子様にはお見せ出来ません」


 半年もお預けを喰らわせられた二人が、毎晩同じ屋根の下にいる。それが好き合っている男女なら尚更、そうなってしまうのは年齢に関係なく当たり前のことだった。ユミコはほとんど毎日欠かさずに、テルアキに愛してもらっていた。最近では、それがないと物足りないとすら感じてしまう程だ。ヨリには悪いが、これはもう完全に「ハマっている」のではなかろうか。


「ユミコさんが大学を卒業したら、ちゃんと籍も入れます。そういう意思であることをお伝えするつもりなんですが――」

「命はないな」


 ケンキチまでもが、ポロっとそう口にして軽く笑った。親元に挨拶にいくのは、相手が誰であれやりにくいものだ。ケンキチもフミカの実家に挨拶にいった際は大変だった。「結婚を前提にお付き合いさせてもらっています」の返しが、「マジで、これで良いの?」である。その後壮絶な親子喧嘩に巻き込まれて、ケンキチは生きた心地がしなかった。

 フミカが所謂いわゆる『女性』でいるのは、本当にケンキチと二人の時だけだった。両親までもが、娘のことを狂犬扱いしている。フミカがキッチンに立って、いつもケンキチに振舞ってくれる料理を作っている姿を見て。フミカの両親は「奇跡だ」と、涙を流して感激していた。フミカはもう少し親孝行をした方が良い。まあ、結婚が最大の孝行にはなったのだろうが。


「テルアキさんには家族が必要なんです。両親には、それを判ってもらいます」


 ユミコはテルアキと目を合わせると、にっこりと笑ってみせた。それは確かに、その通りだった。たった一人のテルアキがここまで回復出来たのは、ユミコがテルアキに対して『家族』として接してくれたからだ。同じ屋根の下で、自分の全てをさらけ出して接してくれること。ユミコのその一途(いちず)健気けなげな愛情が、テルアキの塞ぎ込んだ心を開いて元の姿に戻したのだ。


「でも、私は私でやりたいことが沢山あるんで。テルアキさんには、まだまだご迷惑をおかけしてしまうとは思いますけど」

「構いませんよ。まずは、ユミコさんの夢をかなえていきましょう。お手伝いします」


 家の中でずっとじっとしている生活なんて、ユミコには耐えられるはずがなかった。テルアキも当然、そう考えていた。女子大生の二十歳はたちの女の子に対して、即座に家庭に入れだなんて無茶な要求でしか有り得ないだろう。いくら将来を約束しあった関係であっても、譲れるものとそうでないものがある。愛人関係でいちゃいちゃするのはアリでも、それ以上の束縛はユミコにはノーサンキューだった。


「いーなー、お金持ちのパトロンいーなー」

「なんだよ、チカちゃん。テルアキみたいなオジサンはナシだって言ってたじゃん」

「オーナーはナシだけど、もっと若くてイケメンのお金持ちなら断然アリ。永久就職させてほしいなぁ」

「そうね。お金はあるに越したことはないわよね。突然『会社辞めて喫茶店やる』とか言われたら、奥さんは泡食っちゃうからね」


 げふん、とケンキチはわざとらしく咳払いをした。そういえばこの『翡翠の羽』が出来た当時は、フミカはまだ乳飲み子を抱いている状態ではなかったのだろうか。テルアキという出資者がいたにしても、かなりの大冒険だったはずだ。それを認められる度量というのは、かなりのものだと思われる。帳簿の資料をカバンから取り出すと、フミカはそれをテーブルの上にざっと広げた。


「はい、じゃあお仕事しましょう。オーナー、今年度の3Qの経営方針についてです。主にハロウィンフェア」

「ユミコさんはこっち。トウヤが一緒に英検受けようなんて言い出すからさぁ」


 その勉強も一緒にすれば良いのに、とユミコは思ったが。ある程度のレベルぐらいは出来るようになっていないと、机を並べるのが恥ずかしいのだそうだ。チカは教えればすぐに覚えるタイプなので、そこは苦労しない。これならすぐに図書館デートにまでもっていけるだろう。


「あいつ最近、調子に乗ってるんだよね。『チカちゃん、勉強だって必要なんですよ』とか言って。生意気だよ」

「ああ、名前呼びになったんだ」


 ユミコに指摘されて、チカは頬を真っ赤に染めた。すっかり油断していた様子だ。上手くいっているようで何より。余程恥ずかしかったのか、チカは意味もなく参考書をばらばらとめくりだした。この場にトウヤがやってくれば、もっと面白いことになったのに。残念ながら、トウヤにはラブコメの神様の加護はもたらされていないみたいだった。



『お元気ですか、アオさん』


 フミカと『翡翠の羽』の経営について話し合う。ケンキチからこの話を持ち掛けられた時は、ほんのたわむれのつもりだった。お金の使い道については、特に何かを考えていた訳ではない。昔のよしみで、軽い気持ちで承諾しただけのことだった。


『俺はここで、自分の幸せを見付けました』


 カウンター席では、ユミコがチカと英語の勉強を進めていた。ユミコは何度見ても、綺麗で素敵な女性ひとだ。最初に会った時から運命を感じて、今ではいてくれないと落ち着かないくらいになってしまった。若くて、美しくて。才能にあふれて、いつも活力がみなぎっている。

 そんなユミコを――愛人にしてしまっているとか。いけないことをしているという背徳感もあって、テルアキは背筋がぞくぞくとしてくる思いだった。


『もう何もないとあきらめていたここに、俺は、俺だけの居場所を見つけることが出来ました』


 窓の外を見ると、空が高かった。季節は知らない間に、秋に移り変わっていた。

 テルアキがアオと過ごしたのも、夏だった。あれから一度も、あの村を訪れようとしたことはない。ここに戻ってくる前なのだから、二年か、三年程前になるのか。


『アオさんにも、アオさんの幸せがあることを、遠く東京の地から願っています』


 ケンキチがコーヒーをれてくれた。ここには、色々な安らぎがある。テルアキはそれを一口(すす)ると、ほうっと溜息をいた。フミカが何やら小難しい内容をまくし立てているが、半分は聞き流していて問題はなかった。

 大事なのはこの雰囲気、この空気だ。ケンキチがいて、フミカがいて、チカがいて。


 そして――ユミコがいる。いてくれる。


『アオさん、どうか、幸せになってください』


 アオから便りが届いたことなど、一度もなかった。それで良かった。


 テルアキの脳裏には、海の見える縁側に一人で腰掛けるアオの幻影が浮かんでいた。




 ざ、ざ。


 波が騒がしい。夏が終わって、秋が来たからだろうか。この時期になると、胸のうちも自然と騒々しくなってくる。それは仕方のないことだろう。アオは絵葉書を畳の上に置くと、海の方に視線を向けた。


 忘れた頃に、こうして連絡を寄越してくるなんて。それも、とてつもなく残酷な内容だ。永遠の別れを告げられたに等しい。テルアキはもう、ここには帰ってこない。帰るべき場所を、見つけてしまったのだから。


 教えなければ良かっただろうか。

 引き留めれば良かっただろうか。


 アオは首を横に振った。いや、アオがしたことに後悔はない。アオは自身のやるべき行為をして、得られるべき結果を得た。テルアキは幸せになったと書いている。それはアオにとっても、嬉しい報せに他ならなかった。


 それにアオだって、特段に不幸という訳ではなかった。テルアキの残してくれたお金は、アオがこの土地で死んでいくまでには充分な額だった。更には、口座にはいまだに定期的な振り込みがある。ひょっとしたら、テルアキには判っているのかもしれなかった。アオは最後まで、何も告げなかったというのに。だとすれば、相当に食えない男だとも思った。


 アオはくすり、と口元をゆるませた。いやいや、それぐらいであってくれた方が良いのか。海から折角拾い上げて、アオが愛した男性ひとなのだ。したたかで、狡猾こうかつでいてくれた方がむしろ嬉しい。そんな人を相手にしたのだから、アオは今ここでこうして暮らしていられる。


 テルアキとアオはここで、溶ける程に愛し合って――そして、お互いにだまし合ったのだ。


「そうでしょう、あなた?」


 仏壇の方に、アオは声をかけた。かつての主人の遺影は、何も応えなかった。顔は写真を見れば、なんとか思い出せる。しかし、声や匂いは、もうどうしようもない。日増しに記憶は薄れて、より鮮烈なものによって上書きされてしまう。


 その帰結として得られたものが……これだ。


「うう、ん」


 かけてあるタオルケットを、小さな男の子がけた。まだまだ暑いとはいっても、海風に当たっていては風邪を引いてしまう。やれやれ、寝ていてもやんちゃな子だ。

 アオはタオルケットをかけなおしてやった。明日はヒデじいに頼んで、図書館に連れていく約束になっていた。絵本が大好きで、何冊読んで聞かせてやっても満足しない。夜も寝かせてくれないなんて、そんなところばかり似てしまってちょいと憎らしい。


 出産を機に、村を出ていくべきだとの声をアオは無視した。アオがいるべき場所はここだ。子供が成長して、この家を去るというのならば止めはしない。しかしアオ自身は、この村に骨をうずめる覚悟であることに変化はなかった。

 父親にしらせるべきだとの意見もまた、アオは黙殺した。教えたとして、何になるのか。テルアキには、テルアキのいるべき場所と、背負うべき運命がある。それを放ってまでここに来てほしいなんて願わないし、お金だってこれ以上は必要ない。


 この子はアオが欲して、アオがこの手に掴んだかけがえのない幸せだ。アオはたった一人で子供を育てる決意をした。


 村人たちはこれまでにも増して、アオの生活を支えてくれるようになった。アオもまた、気丈に振舞った。子供は周囲の心配をよそに、すくすくと育っていった。

 今は村人たちが代わる代わる面倒を見てくれているが、問題は小学校に上がった後だった。アオも昔は、山を越えて遠くの学校にまで通ったものだ。その苦労を我が子にまで強いるのは少々気が引けたが、こんな土地に生まれた者のさがとしてあきらめてもらうしかないだろう。


 葉書をもう一度拾い上げて、アオは表書きを確認した。内藤テルアキ。この子が大きくなってこの手紙を見たら、何を考えて、どう思うのか。その時アオは、何を伝えるべきなのか。仏壇にある遺影とは、違う人。どちらもアオが心の底から愛して、受け入れて。お腹を痛めて産んだこの子の――まぎれもない父親だった。


 この子は、アオの希望だ。たった一人この村に残されたアオが、全てをあきらめた後にさずかることが出来た大切な子供。



「テルヒコ」



 すやすやと眠る我が子の頬を、アオは優しく撫でた。そうだ、これをずっと望んでいた。好きな人の子供と一緒に、ここで静かに暮らしていきたかった。


 テルヒコと生きる、何度目かの秋がやってくる。もう少ししたらテルヒコを連れて、赤とんぼを見にいこう。アオは仏壇に葉書をしまうと、テルヒコの隣に戻った。今は二人で並んで、しばらくの間微睡(まどろ)んでいたい。


 海だけが、じっとそのさまを見つめていた。


第XI章 蒼 -了-

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