蒼(4)
テルアキとアオの関係は、いよいよ村の中では公然のものと化していた。テルアキは相変わらず、日中の間は何をするでもなくぶらぶらとしている。それでもどこからともなく稼ぎを持ってきて、アオとの生活は見るからに豊かなものに変わっていた。実はあの男はどこかの金持ちであって、アオのことを嫁にするに違いない。そんな噂が、まことしやかに囁かれ始めていた。
一方で当のテルアキとアオには、結婚の意志はまるでなかった。二人はここで、共に支え合いながら生きているというだけだった。アオはこの場所にしかいられないし、テルアキには他にいくあてがない。相互の利害が一致しているので、持っているものを融通しあって生活していくと決めているにすぎなかった。
ただ、二人は敢えて口にすることはなかったが――少しずつ、お互いに対する愛情のようなものが芽生え始めているのも確かだった。
たった一人で、無言で海を眺めるばかりだったアオは、テルアキと並んで立つようになった。その表情も実に朗らかで、明るく健康的なものになってきていた。仕事も以前より精力的にこなすし、会話の回数自体が多くなった。まるで亭主が生きていた頃みたいだと、アオの周辺はその変化を大いに喜んだ。
テルアキという男は口数も少ないし、無愛想で人当たりも良くない。しかしアオにとっては誰よりも必要な、大切な男性だった。村人たちはテルアキの存在を、暗黙の内に認めた。このままここで暮らすにしても、アオを連れて出ていくにしても。テルアキになら、アオのことを任せられる。そういった空気が、村人たちの間では醸造されつつあった。
アオが休みの日には、二人はそろっってヒデじいのトラックに乗って街に出かけた。アオが積極的に村の外に向かうなど、相当に珍しいことだった。車を運転するヒデじいは驚くのと同時に、楽しそうに言葉を交わす二人を微笑ましく見守った。
これでやっと、何かが変われる。止まり続けていた時間が流れることによって、この村はまた一つ滅びへと歩を進めてしまうかもしれない。だが、凍り付いてしまったみたいなアオの姿を見せつけられるよりは、それはよっぽどましな状態であるといえた。
街に来ると、テルアキは決まって図書館にあるフリースペースのパソコンを操作した。それがテルアキの仕事であるとは、アオもしばらくの間は気が付かなかった。手元の携帯を用いても、ある程度のところまでは作業を進めることは出来る。ただパソコンの方が扱いが慣れているし、何よりもテルアキの気分が落ち着いた。
「今回も大きなトラブルはありません。一部の銘柄が落ちてますが、トータルではプラスです。税理士さんも気を利かせて色々とやってくれてるし、何も問題はないでしょう」
正直テルアキに何を説明されても、アオにはチンプンカンプンだった。キーボードを叩く指の動きが、タコみたいな頭足類の動きを連想させて若干気持ちが悪いだけだ。とりあえずお金に困ることがないと判れば、アオにはそれで充分だった。「ふーん」と気のない返事をして、アオはチカチカと明滅するモニターから目を離した。
「俺はもう少し調べ物をしていきますから、アオさんは自由にしていてください」
退屈そうなアオの様子を察して、テルアキはそう声をかけてくれた。とはいえ、この辺りにはそんな気の利いた場所なんてそうそうない。ほとんど人のいない図書館の中を、ぐるりと見て回るくらいが関の山だった。
がらんとした館内の隅っこには、児童向けの図書が置かれているコーナーがあった。職員がイラストや折り紙を飾っているが、そもそも子供たちの数自体がそう多くはない。読む者がいない絵本の書架は、見ているだけで物悲しさが込み上げてきた。
もし亭主が生きていれば、アオにも子供がいただろうか。この場所に連れてきて、本を読んでやったかもしれない。アオは一冊の本を手に取った。『泣いた赤鬼』だ。子供向けの話には、暗い物語が多い。もっと明るくて、楽しい気分にさせてあげれば良いのに。
アオもテルアキも、充分に悲しんだし、苦しんだのだと思う。この上辛いことなんて、もう沢山だった。アオは最近、テルアキに抱かれていると胸が締め付けられるような想いをした。亭主ではない男性。代理ではなくて、内藤テルアキという男。それがアオを、優しく愛してくれている。
愛されている――のだと思う。テルアキといる時間が、アオには何よりも大事なものとなっていた。テルアキは言葉数は少ないが、いつだってアオのことを気にかけてくれた。ただ自分自身が無為に過ごせるだけの場所として、アオを利用しているのではない。それが判るくらいには、アオを一人の女性として認めてくれていた。
――ならいつかは、そんな日も訪れるのかもしれない。
絵本を戻すと、アオは小さく溜め息を吐いた。海に消えていった男と、海から引き戻した男。いなくなった男のことを、忘れた訳ではない。
アオはただ……独りで生きていくには、弱すぎたのだ。
「アオさん」
知らない間に、テルアキがすぐ近くに立っていた。アオは、はっとして振り返った。いつもと同じ、いや――
「お待たせしました。帰りましょう」
アオにしか判らないぐらいに、深く沈んだテルアキの表情がそこにはあった。
夕食を終え、風呂を済ませれば毎夜やることは決まっていた。義務とか、約束を交わしているとかではない。二人は自然と同じ布団に入り、お互いに導かれるままに求め合った。そうするのが至って自然で、当たり前のことだった。アオはテルアキの顔を真っ直ぐに見つめて――その全てを受け入れた。
そうだ。ここにいるのはテルアキだ。他の誰でもない。アオが海の中から拾ってきた、遠い世界にいた男。テルアキの首の後ろに手を回すと、アオはぎゅうっと抱き寄せた。このままもっと、奥にまで誘いたい。アオの中心、テルアキを欲してやまない、耐え難い程に熱いその場所に。
「テルアキさん、何を悩んでおられるのですか?」
アオに問われると、テルアキはびくんと身体を震わせた。気が付かないとでも思っていたのか。時折テルアキはどうしようもないくらいに無邪気で、幼稚な一面を見せることがあった。それはテルアキの本質に、未だ子供のまま成長していない部分が残されているからなのだろう。
テルアキは無言のままアオから離れると、海の方を向いて胡坐をかいた。そろそろ風が冷たくなってきていた。秋が来て冬になれば、この辺りは厳しい寒さに覆われる。こうやって海を眺めていられるのは、今しばらくの間だけだった。
もしその時が訪れたのなら……アオはここにまた、一人でいるのだろうか。
「図書館で調べ物をしている際に、ふと自分の故郷の辺りがどうなっているのか気になったんですよ」
以前聞いた話では、テルアキは東京の生まれだということだった。東京なんて、アオにとっては夢のような場所だ。ヒデじいの車に乗って駅までいって、そこから電車で何時間も揺られて。着いた場所には、おびただしい数の人に、聳え立つビルディング。テルアキの故郷はそこまででもないらしいが、この漁村に比べれば何処であれ都会には間違いがなかった。
「俺の生家が……競売に出されていました」
ああ。
アオは身体中から何かが抜け落ちていくのを感じた。そうか。テルアキには、帰る場所があったのだ。諦めと、絶望。放浪の日々の果てに、テルアキは遂に『そこ』のことを思い出してしまった。よりによってアオとの間に絆が出来つつある、この時になって。
「借家になっていたのは知っていたんですが、二人も人死にが出ている事故物件です。とっくに取り壊されているものだとばかり思っていました」
その家でテルアキの父親は首を吊り、母親は大量の睡眠薬を服用した。弟を連れて、テルアキは違う場所へと去っていかなければならなかった。二度とそこには戻らない。戻れない。そう思ったまま、二十年近くの月日が流れていた。
「ならば、買い戻されるのでしょう?」
アオの言葉に、テルアキは首を横に振った。それは否定を意味するものではない。アオはテルアキを凝視し続けた。テルアキは、迷っている。自分がどうするべきなのか。どうあるべきなのか。ちりん。風鈴の音が、部屋の中を通り過ぎていった。
「判りません。今更あの場所に戻って、そこに何があるのか。俺に、何が出来るのか」
テルアキの背中に、アオはそっと寄りかかった。同じだ。アオもまた、この場所に貼り付いたまま、たった一人で動けないでいた。大切な人との思い出に縛られて、海に魅せられて。
きっとこの後何年経ったって、アオはこのまんまだ。
「貴方はいくべきです、テルアキさん」
アオは残る。残ることしか出来ない。だが、テルアキは違った。海がテルアキを呼んで、アオがテルアキを拾った。その答えは既に、アオの中には存在していた。
テルアキを、無事に送り出すこと。海はテルアキを、アオの慰みものとして与えたのではない。テルアキが、アオみたいになってしまわないようにと寄越したのだ。
「貴方の幸せは、そこにしかないんです。私がここにしかいられないのと同じ。貴方は貴方の場所で、貴方にしか見つけられない幸せを掴んでくださいませ」
言葉とは裏腹に、アオはテルアキを強く抱き締めた。いかないでほしい。ずっとここで、アオと一緒に暮らしてほしい。アオが手に入れられなかった幾つもの幸せを、テルアキなら与えてくれる予感がする。
「でも、アオさんはどうするんですか。俺には、貴女を置いていくことなんて……」
ああ、やっぱりそうなのか。アオは自分の中が、幸福で満たされていくのを感じた。テルアキには、アオに対する確かな愛情が存在している。何もない、空っぽなはずの人間だったのに。それを呼び起こさせたのが自分だという事実に、アオは喜びを覚えた。
「私はここを動けません。海と……あの人がいるから。テルアキさんの場所には、テルアキさんが一人で向かうべきです」
ついていきたかった。海のない土地、見も知らない東京という大都会。そこでの生活は、今までのものなど全て塗り替えてしまうだろう。そこにテルアキがいてくれるなら、アオは他に何もいらなかった。
「テルアキさん、どうかご家族を元居た家に戻してあげてくださいな。まずはそこから。後はまた、新しい何かが始まることでしょう」
アオがテルアキと出会ったように。テルアキの下にも、きっと青い鳥は舞い降りる。アオには予感があった。テルアキは故郷の町で、何か大きな運命に出会う。そして――
アオのところには、二度と戻ってこない。
「愛してくださいませ、テルアキさん。私たちが共にいられる、最後のその時まで」
内心とは真逆なまま、アオはテルアキの背中を押した。それでも、身体だけは正直だ。片時も離れたくないとばかりに、テルアキを引き留めてしまう。アオはそれで構わなかった。これで何もかもがお終いであるなどとは、考えたくもないことだった。
夜が明けると、テルアキはすぐに自身の生家に入札した。競売は特に問題もなく無事に終了し、土地家屋はテルアキのものとなった。手続きのために一度街に出て、それからテルアキは本格的に東京に戻る準備を始めた。
アオは何も言わずに、いつもと変わらずに仕事をして過ごした。東京の話は、何もしなかった。食事の時も、語らいの時も。褥を共にしている時も。二人はお互いのことだけを見て、お互いのことだけを口にした。
やがて、別れの時はやってきた。テルアキは銀行にアオの口座を作った。そこには、定期的にお金が振り込まれるようになっている。一度に振り込まれる金額は、それ程の額ではない。普段は貯めておいて、いざという時に使えば良い。アオがそうして欲しいと言うので、テルアキはその要望に従った。
アオは携帯を持っていないので、メールアドレスやその類の連絡手段は持っていなかった。使えるのは電話と、後は手紙と電報だ。テルアキがここに滞在している間、アオの家にある電話は一度も鳴らなかった。
調べてみると、どうも電話機自体が故障している様子だった。治してもうるさいだけだと、アオは電話の修理や交換に関しては頑として聞き入れなかった。最終的には、電話については諦めてそのままとしておくことになった。
「何かあった場合は口座を解約してください。そうしたら、何かがあったと知れるので」
遠回しな手段だが、とにかくテルアキが異変が起きたことに気が付ければそれで良かった。テルアキの申し出に、アオは曖昧な表情でうなずいてみせた。恐らくは、通帳のお金にはほとんど手は付けられないだろう。それならそれで、仕方がない。アオはもう、テルアキとは違う世界の住民となる。テルアキには、その事実を受け入れるしかなかった。
「さようなら、アオさん」
「さようなら、テルアキさん」
小さな駅の改札で、二人は手を振って別れた。たったそれだけだった。名残も、未練も。感傷に浸る暇すらない。出会って、そして離れていく。テルアキは一度も後ろを見なかった。アオはテルアキの背中が消えていくのを見届けると、無言のままその場を立ち去った。
一人きりに戻った家の中で、アオは亭主の遺影を元通りに飾った。ひと夏の間、夢を視ていた。楽しい夢だった。新婚生活が帰ってきたみたいだ。アオは海の方を向くと、晴れ晴れとした表情で大きく深呼吸をした。




