蒼(2)
ざ、ざ。
音と共に世界が揺れていた。ゆらゆら。ぐらぐら。自分が横になっていることに、テルアキはしばらく気が付かなかった。潮の香りが漂っている。柔らかい布団の感触。うっすらと眼を開けると、染みの浮いた木製の天井が見えた。
「ああ、起きなさった」
先程から頬に当たるそよそよという風の正体を、テルアキはようやく悟った。和装の、黒髪の美人だ。それが横座りにテルアキの近くに腰を下ろして、団扇であおいでいた。開け放たれた障子の向こうには、海がある。蝉の声の代わりに、波頭の砕ける音ばかりが響いていた。
ざ、ざ。
「この辺りは診療所も駐在所も近くにないので、苦労したんですよ」
知っていた。だからこそ、魔が差したとでもいうべきか。ふっつりと、心の中の糸が切れてしまった。
生きるというのは、それだけで苦しみだ。
テルアキには、明日どころか今日を乗り越えていく目標ですらなかった。借金に追い詰められている訳でも、病魔に侵されている訳でもない。ただ無為に毎日を過ごすという、空虚な現実だけが存在していた。
そしてその空っぽの時間そのものが――テルアキにとっては、何よりも耐え難い拷問に等しい行為だった。
「でも良かったです。少しでも、助かろうという気持ちがあってくれて」
ちらり、とテルアキは女性の方に視線を送った。線が細くて、なかなかの美人だった。見るからに、たった一人でテルアキを運んでくることなど出来そうにない。誰かの手を借りたのか。あるいは女性の言葉通り、テルアキ自身が助かろうとしたのだろうか。
よく覚えてはいないが、誰かの手を掴んで、すがろうとした記憶はあった。ならば、テルアキは自分の力で岸に上がって、自分の足でこの女性の家にまでやってきたのだろう。
他に人の気配はないのか。テルアキは首を巡らせて、辺りの様子を探ろうとした。それを見て取ると、女性はきゅうっと目を細めた。
「ここには私しかおりませんよ。貴方様を運ぶ際には何人かの手を借りましたが、私はここで一人暮らしです」
なるほど。小さな集落ではあるが、目につかないだけで住民は存在しているのか。ふぅ、とテルアキは息を吐いて枕に頭を沈めた。テルアキが落ち着いたのを察すると、女性は静かに立ち上がって部屋の隅の方に歩を進めた。
「濡れてしまった服は、只今洗濯しております。その、無理に着替えさせてしまったのは申し訳ありませんでした」
女性に言われてから初めて、テルアキは自分が和装であることに気が付いた。温泉旅館などによくある、簡単な白い浴衣だ。長い間使われていなかったためか、やや古めかしい臭いがする。ふむ、と襟元をつまんでまじまじと眺めてみた。悪くはない。人知れぬ土地に湯治にきた、と言っても違和感のない様相だ。
「それから、身元を知るためにお荷物を確認させてもらいました。こちらもごめんなさい」
ちん、と鈴の音が部屋の空気を引き締めた。遅れて、線香の匂いが鼻腔をくすぐる。カバンの中には、テルアキの家族たちが揃っていたはずだった。部屋の隅には、どうやら仏壇がしつらえてあるらしい。テルアキの家族は、全員がそこに行儀よく並べられていた。
「いや、丁寧に扱っていただいているみたいで恐縮だ。こちらこそ、申し訳ない」
テルアキが声を発すると、女性はさもびっくりしたと言わんばかりの表情でテルアキの方を向いてきた。しゃちほこばった話し方をするので、外見よりも年上かと思っていたのだが。テルアキの当初の予想を覆して、女性はもっと若いのかも知れなかった。二十代の、前半辺りか。取り澄ましている時よりも、ずっと愛嬌があって可愛らしかった。
「父と母、それに弟だ。俺の大切な――家族です」
この世界に残されたのは、テルアキたった一人だった。テルアキはじっと天井を見つめた。結局、まだこうして生きている。不思議なものだ。この女性の手を握ったということは、テルアキはまだ死にたくはなかったのだろうか。
そこまでして生きて、何を望むのか。
「この村には、死ににいらしたのですか?」
ぞっとするような、冷徹な声だった。テルアキは女性の顔を視界に入れないようにした。見なくても判る。どんなに寂れているとはいえ、この土地に根付いて毎日を暮らしている者だっている。そこにわざわざ死ぬために訪れてくる輩など、住民たちにしてみればお呼びではない、ということだ。
「すまない。そういう訳ではなかったんです」
実際に、この村に足を踏み入れた時には、テルアキの中には死への願望は微塵も存在していなかった。生きる希望もないが、それを絶つ程の活力もない。そう表現すれば、判りが良いだろうか。テルアキは各地を転々として彷徨い、ここにはただ静かな場所を求めてやってきたに過ぎなかった。
「人が少なくて、あまり煩くなくて。後は、海が見たかった。それだけですよ」
テルアキに、深い考えなんて何もなかった。正直に、理由は今口にした通りだった。海水浴場や砂浜ではなくて、もっと雄大で、荒れ狂う大海原を眺めてみたかった。観光のコースから外れて、なるべく人が来ない方へと分け入って進んでいく。そして行き着いた先が、この何もない小さな村だった。
「では、海に呼ばれたのですかね?」
「かもしれません。ご迷惑をおかけしました」
いっそ死んでしまったとしても、問題は何もなかったかもしれなかった。ともあれ、命があるとなればここに長居をすることは出来ない。若い女性の一人住まいに、余所者の男が一人。狭い村の中では、噂はあっという間に広まるだろう。迷惑は充分にかけたのだし、これ以上テルアキのせいでこの女性に不名誉な想いをさせるつもりはなかった。
「まだ服の洗濯が終わっておりません。この辺りは宿もありませんし、遠慮せずにゆっくりとしていってください」
起き上がろうとしたテルアキを、女性はやや強めに押し留めてきた。溺れかけたせいなのか、テルアキは身体に上手く力が入らなかった。宿なんかなくても、適当に夜を明かすことぐらいはテルアキにとっては手慣れたものだ。ただ、この家の雰囲気が何処か懐かしくて気に入ったのも確かだった。女性にされるがままに、テルアキは再び布団の上に横になった。
「しかし、迷惑ではないですか?」
「いいえ。そこは心配なさらないでください」
ふるふる、と女性は首を横に振った。おくれ毛が微かに揺れる。綺麗だ。死にかけた後なので、生存本能が昂っているのかもしれない。テルアキは自分の生理的反応に呆れながら、ぼんやりと女性の姿に見惚れていた。
「もう少しで陽が落ちます。今夜はここにお泊りください」
女性はテルアキから離れて、別な部屋へと姿を消そうとした。遠くで、風鈴が鳴った。その背中を見送るテルアキに、女性は思い出したかのように振り返ってみせた。
「ごめんなさい。申し遅れました。私、上代アオ、と申します」
ざ、ざ。
アオの家は、村の中でも一番海の近くにあった。動けるようになると、テルアキは縁側から海側の景色を眺めてみた。少しいったところに朽ちかけた波止場があって、かろうじて浮いている程度のボロ船が係留されている。この辺りは入り江になっているので、波は思っていたよりも穏やかだ。昔は漁場としてそれなりに栄えていたと推測される痕跡が、そこかしこに残されていた。
家族の位牌を確認しようと仏壇に近寄ると、他にもう一基置かれていることに気が付いた。はがきサイズの写真立てに、若い男の遺影が飾られている。そういうことか。テルアキは何も言わず、新しく線香を一本供えて鈴を鳴らした。
「はい。そこにいるのは私の良人です」
アオと二人で食卓を囲んだ際に訊いてみると、アオはあっさりとそう応えた。アオの夫はこの村では珍しい若い漁師だったが、数年前に船が転覆して死亡してしまったのだという。元々この近辺では、漁を続けている者自体が数少ない。救助活動すらもほとんど覚束ないままに、アオの夫は暗い海に飲み込まれてしまった。
「テルアキさんが、ご家族や私の夫の前で粗相を働くような人でなくて助かりました」
「命の恩人に対して、そんな失礼は働きませんよ」
笑うと、アオはころころと耳触りの良い声を発した。年は二十六ということだった。見た目よりも、ちょっと幼く感じる。子供の頃からこの海の近くで育って、夫と共にこの地の最後の漁師になろうと心に誓っていたのだそうだ。
「それなのに、あの人はあっさりと死んでしまった。私一人を残してね」
村人たちは、アオに色々と気を遣ってくれていた。アオには収入らしい収入はほとんどなかったが、周りからのお裾分けで食べていくだけなら取り立てて生活には困らなかった。それでも、ここに居続けたところでこの先には何も残されてはいない。機会があるのならば、この村から去っていくことを勧められたりもしていた。
「ですから、テルアキさんが私の家に泊ることについては――誰も何も言いません。私が認めたのであれば、それで良いのです」
それが切欠になれば、ということか。テルアキは複雑な気持ちになった。食卓に並べられた夕食は、とても潰れかけた漁村のものとは思えない豪勢さだった。これはアオのことを想い、アオの境遇をどうにかしてほしいという、村人たちの願いが形になったものだ。そう考えると、テルアキには刺身の一切れだって無駄に味わう訳にはいかなかった。
「テルアキさんは、何をされている方なんですか?」
「俺は……なんでしょうね。少なくとも、アオさんが変わるための何かになれるような、立派な人間でないことだけは確かです」
目の前に若い女性がいて、その気もある。せっかくの据え膳なのだから、食わぬ手はないだろう。
普通の男なら、間違いなくそうする。だがテルアキには、そんな意志は毛頭なかった。
家族全てを失って、金だけ持ってふらふらとあちこちをうろつくだけの毎日。今日みたいに、突発的に自分の命を絶とうとすることだって初めてではない。
裏社会や薬に手を出していないだけマシ、という体たらくだ。こんな男に女房を手籠めにされてしまっては、アオの旦那もそうそう浮かばれないだろう。
それに、テルアキ自身もそこまで屑に成り下がるつもりはさらさらなかった。さっきアオも言っていた通りだ。家族のいる前で、そこまで愚かな醜態を晒すことは出来ない。
美人に命を助けられて、こうして美味い飯と酒にありつけた。テルアキはそれで満足だった。
「一宿一飯の礼はさせてもらいます。でも、それが俺の限界だ。アオさんを背負う覚悟なんて持ってない。申し訳ないね」
夜が明けたら、またどこかに流れていこう。テルアキの目に、アオの姿は少し眩しすぎた。久しぶりに人の多い街に出て、繁華街で遊ぶのも良いかもしれない。商売女と一晩寝れば、こんな気分はすぐに晴れる。女なんて、テルアキにとってはそんな程度のものだった。テルアキはグラスに注がれた冷酒をぐいっと呷ると、茶碗に残った白飯をがつがつとかき込んだ。
「……お風呂の用意をしてきますね」
テルアキが食事をする姿をしばらく見つめてから、アオはそう言って席を外した。一人残されると、部屋の中は不気味なくらいに静まり返った。波の音だけが、絶え間なく響いている。家の外は真っ暗で、波頭の白がノイズのように走る様が僅かに見て取れる程度だった。
アオに頼んで、寝床は仏壇のある部屋に敷いてもらった。これが強い抑止力になってくれることを期待して、だ。蚊帳が吊るされて、月の光がうっすらとそこから透けて見える。海風のお陰か、涼しくて心地よかった。うつらうつらと眠気が増してきた頃に、しずしずとした足音が近付いてくる気配が察せられた。
「アオさん」
髪をほどいたアオが、何も言わずにテルアキの布団に入ってきた。この部屋にはアオの夫と、テルアキの家族もいるというのに。驚いて目を見開くテルアキに向かって、アオは悪戯っぽく微笑んでみせた。
「別にテルアキさんに何かを期待しているのではなくて――これは単純に、私の感情です」
それでも充分に拙いだろう。そう反論しようとしたテルアキの口は、あっさりと塞がれてしまった。ぞわり、と後頭部に鳥肌が立つ。テルアキは初めて味わった感覚に、後頭部を力いっぱいに殴られたような衝撃を受けた。
「不思議ですね。私は今、無性に貴方が欲しい。満たされない貴方の中を、私の全てでいっぱいにしてしまいたい」
――溺れる。
テルアキの脳裏に浮かんできたのは、まずはその言葉だった。このままアオという海の中に飛び込んでしまえば、テルアキは間違いなく溺れてしまうだろう。今までに感じたことのない快楽と、耐え切れない程の多幸感。何度となく繰り返してきたはずの行為が、まるで違った意味を持っている。
「愛してくださいませ、テルアキさん」
これが、愛するということなのだろうか。テルアキには良く判らなかった。ただ、夢中になった。何も考えられなかった。ひたすらに、むさぼった。
月と、波と、風と。
後は、静寂だけが辺りを埋め尽くしていた。




