蒼(1)
波が、揺れている。水色とはよくいったものだ。淡い青の中に、ゆらゆらといくつかの気泡が浮かんでいく。その向こう側には、眩しい光があった。手を伸ばそうにも、気怠くて持ち上げることすら適わなかった。指一本動かすのも、億劫でたまらない。
耳の奥では、じーんという鈍い音が響いて、ずっと鳴り止まなかった。続けて、がぼっ、という口から大量の空気が溢れ出す音がする。後は、たまらない程に静かだった。頭の中に靄がかかってくる。ああ、ところで。どうしてここで、こうしているんだっけか?
誰かの顔が、ふと脳裏をよぎった。笑っている。すごく楽しそうだった。はしゃぎながら、広い芝生の上を駆けていく。そこは何処だろうか。知ってるはずの、とても懐かしい場所。それなのに、言葉が何も出てこなかった。
『よし、あっちまで競争だ』
思い出した。父親だ。これは小学校高学年の頃、近所を流れている大きな川の河川敷の公園に遊びにいった時の記憶だった。先行する父親を追いかけて、確かすぐ後ろには弟がついてきているはずだ。少し離れたベンチでは、母親が腰掛けて見守ってくれていた。
『兄ちゃん、待って!』
『ヨチコは遅いな、ははは』
青臭い、草の香り。夏の空気。じわり、と汗がシャツを濡らしていく。父親の背中には、後ちょっとで手が届きそうだった。父親はいつだって毅然としていて、立派だった。本気で尊敬していた。父親のようになりたかった。
弟のことも、大好きだった。生意気ばかり言って、面白くない出来事だってなかった訳ではない。しかしそれでも、かけがえのない兄弟であり、家族だった。父親や母親の誕生日には、二人でプレゼントを作って送ったりした。普段はあれこれと悪口ばかり言い合う関係だったが、大切なたった一人の弟だった。
『ちょっと、転ばないでよ!』
母親はいつだって優しかった。友達が家に遊びに来れば、お菓子やジュースを出して笑顔でもてなしてくれた。誰に対しても自慢出来る、素敵な母親だった。夕食のメニューが好物のオムライスだと、それだけで嬉しかった。父親と並んで、常に幸せそうに寄り添っているイメージがあった。
将来は、自分もこんな温かい家庭を作りたい。
――そう考えていたのは、果たして何歳くらいまでのことだっただろうか。
急に、身体が重くなった。肺の中が水で満たされたのか。意識もぼんやりとしてくる。夏の太陽が、急速に遠ざかっていった。
『いかないで』
父親の背中が、ぐんぐんと離れていく。嫌だ。もっと、そこにいたい。温かくて、柔らかくて。眩しくて、心地よくて。
苦しいことも、悲しいことも……何もなかった世界。
最後の力を振り絞って、真上へと手を伸ばす。父と、母と、弟。大事な、家族。失われつつある全身の感覚が、一気に右掌へと集中され、研ぎ澄まされた。
「大丈夫? しっかりしなさい!」
うら若い女性の声と共に、テルアキは現実の世界へと引き戻された。
目を覚ますと、白い天井が見えた。暑さも、寒さも感じない。ほんのりと、左腕の辺りだけが温かい。首を横に向けると、心配そうに覗き込んでくるユミコの顔があった。
「うなされてましたよ、テルアキさん」
そうか、とテルアキは安堵の息を漏らした。夢、だった。それはそうだろう。テルアキは今、こうして生きている。ここは都心に仕事場として借りているマンションの寝室で、隣には愛人のユミコがいた。
枕元に手をやって、目覚まし時計を掴んで持ってきた。午前二時を回ったぐらいだ。こんな時間に起こしてしまって、ユミコには悪いことをしてしまった。テルアキはそっとユミコの身体を抱き寄せた。
「すいません。起こしてしまいましたか?」
ユミコは誘われるままに、テルアキの胸元に潜り込んできた。二人はつい先月、正式に愛人関係となることをお互いに認めたばかりだった。ユミコの生活に関する一切合切は、テルアキが支援する。その代わり、ユミコはテルアキの指示には何でも従わなければならない。目下のところの最上位命令は――人生をかけて愛し合うこと。ユミコが大学を卒業したら、二人はすぐにでも籍を入れる予定となっていた。
「抱いてくれないと眠れません」
愛人になってすぐに、ユミコはそういう『おねだり』を口にするようになってしまった。元からそういう素質でもあったのか、あるいは隠れた性癖なのか。テルアキはユミコの髪をひと撫ですると、優しく口づけした。
ここ最近は、ユミコの方から求めてくるペースが矢鱈と加速してきていた。二十二という年の差があると、テルアキの側にはやはり色々と厳しいものがある。シーツの影に見え隠れするユミコの肢体に、テルアキはそれでもちょっとばかり魅せられてしまった。
常にそこまで激しくする必要はない。ゆるゆると愛し合っているだけで、お互いにそれなりの満足感は得ることが出来た。テルアキにとってユミコは、若いというだけではなくて最高の女性だった。こうやって触れ合っていられるのが、何よりも幸せであると感じられる。一緒に生きていられるという事実そのものに、たまらない程の喜びを得られる相手だった。
「テルアキさん、他の女の人の名前を呼んでました」
汗だくになって、たっぷりと搾り取られたところで、テルアキはユミコにそう告げられた。ああ、なるほど。溺れた夢を視たのだから、きっとそうだったに違いない。ユミコの肌に指を食い込ませて、ぎゅうっと強く抱く。大丈夫、今ここにいるのはユミコだ。テルアキはもう、あの場所にはいない。
「アオ――ですか?」
こくり、とユミコは無言でうなずいた。それが女の名前だと気付いたということは、他にも何かを口にしたのだろう。とっくに忘れたと思っていたのに、実際にはそうでもないのか。テルアキは苦笑した。
「気になりますか? その人のこと?」
「まあ……気にはなりますよ」
テルアキが今愛している女性は、ユミコ一人だけだった。他には恋人も愛人も、一切作ってはいない。その事実はテルアキの私生活全般をユミコに対して全面的に開示することによって、ちゃんと証明している。ユミコに言わせれば、テルアキは交友関係どころか行動範囲が極端に狭くて、逆に心配になってくるのだそうだ。
普段はパソコンに向かって、デイトレーダーの仕事をちょいちょいとやって。後はケンキチのやっている喫茶店、『翡翠の羽』でぼんやりとコーヒーを飲んで過ごす。趣味らしい趣味はなし。女の子と遊んでいる様子なんかは、全くの皆無だった。
唯一映画を観ることはあるが、これはテルアキにとってはユミコと一緒に出掛ける特別なお楽しみとなっていた。一人で観てしまうと、感想を言い合う相手が居なくてどうにも物足りない。だからといってユミコ以外の誰かと映画館にいくなんて、テルアキには想像もつかない行為だった。
そんなテルアキから、今までに聞いたことのない女の名前が飛び出してきたのだ。驚くな、という方が無理がある。ユミコはじぃっと、テルアキの表情の変化を窺っていた。
「そりゃあテルアキさんは私の倍以上は生きている訳で、その間に他の女性ともお付き合いはあったんでしょうけど。私はテルアキさんしか知らないし、多分きっとテルアキさん以外は知らないままなんですから。ちょっとだけ不公平です」
ユミコの言う通りだった。四十二年も生きていれば、人生には色々なことが起きる。テルアキだって、れっきとした男性だ。誰かを好きになったり、女性を求めたりした過去はあった。
ただしそれらは総じて、人に話して楽しい気分になれる性質のものではなかった。大学生の頃までは、テルアキはバラバラになりつつあった家族のために必死でお金を稼ぐことだけを考えて生きてきた。
色恋なんて、そのために利用出来るのならばそれでも良い。そんな程度の扱いだった。それで幼馴染のミヨコの心をどれだけ傷付けたのかを思えば、テルアキは今でも胸が痛くなってくる程だった。
問題はその後……弟のヨシヒコが死んでからのことだ。
「ユミコさん、俺はあんまり女性とまともな付き合いをしてきませんでした。その辺りの話をすれば、きっとユミコさんは俺のことをひどく軽蔑してしまうでしょう」
金だけは持っている男の、放浪生活。そんなものが、まともであるはずがない。自らの暗黒時代を、テルアキはあまり意識の俎上には持ってきたくはなかった。
「こうやって、ユミコさんのことをちゃんと愛せているのが不思議なくらいです。ユミコさんは今、幸せですか?」
「それは、はい。とっても」
「ユミコさんがそう思ってくれるのなら、俺も幸せです」
こういう風にすれば、良かったのだな。ユミコが頬を赤らめるのを見て、テルアキは自然と笑みが零れた。ユミコはいつでも、テルアキが知らなかったこと、忘れていたことを教えてくれた。特に、人を愛する方法に関しては師匠と呼べる程だった。
でもその『形』を思い出させてくれたのは、残念ながらユミコではなかった。記憶が刺激されたのは、恐らくはユミコが愛人になって、夜を共に過ごすようになったせいだった。テルアキの壊れた心を、初めて掬い上げてくれた女性。その感触が、まだテルアキの右の掌にはくっきりと残されていた。
「アオさんは、俺が初めてちゃんと愛せた女性です。ユミコさんに出会う数年前ですから、前カノ、とでもいうんですかね」
こんなことをユミコに話して、テルアキはどうしたいのだろうか。面白くもないだろうに、とユミコの顔を確認すると――
ユミコは思いのほか、真剣な眼差しを向けてきていた。
「……え、そんなに気になります?」
「なりますよ。だって、私はテルアキさんの一番になりたいんですから」
既にこの上なく充分に愛されて、名実共に一番であることには疑いがないというのに。この上、一体何を求めるというのか。テルアキは可笑しくなって噴き出した。
ユミコは本当に可愛い。愛人ではなくても、絶対に離すべきではない女性だ。急に愛しくなってきて、テルアキはユミコの身体を再びぐいっと引っ張った。明日の朝には、何か予定はあっただろうか。たとえあったとしても、全部キャンセルだ。ユミコの方も、こと外出関係についてはすっぱりと諦めてもらおう。
「じゃあ一番の立場を堪能しつつ、俺の話を聞いてください」
「望むところです。そんなの、忘れさせてやりますからね」
そこで対抗意識を燃やすのか。やはり、ユミコは最高だ。言われるまでもなく、テルアキはユミコに夢中だった。今更、あの海に帰ろうだなんて思わない。テルアキのいるべき場所は、ここだ。ユミコといるこの東京以外には、どこにもなかった。
絵葉書に宛名を書き終えると、テルアキはじっとその字面を追いかけた。パソコンとプリンターに慣れているので、どうにもペン字が下手になってしまっているように感じられる。こんな手紙では、笑われてしまうのではなかろうか。
「テルアキさん、そろそろ出ますよ?」
「はい。今いきます」
今日はユミコの大学が休みなので、二人で『翡翠の羽』にいく予定になっていた。ユミコが、チカの英語の勉強を見てやるのだそうだ。テルアキの方も、フミカから『翡翠の羽』の経理状態について話を聞くことになっていた。税理士経由で額面の方は把握しているが、実態については直接この目で見て、耳に入れなければ何とも言えない。
それにしても、郵便が無事に届くだろうか。テルアキがまず心配になったのは、そこだった。あの当時ですら、ほとんど人が寄り付かない場所だった。あれから過疎が進んでいるのだとすると、もう住民の数など片手で数えられる程ではないだろうか。
まだあの場所に居るという、保証すらない。しかし、テルアキにはそれで充分だった。この葉書は誰のためでもなく、テルアキ自身がけじめをつけるのに必要なものだからだ。
カバンのポケットに、葉書をそっと忍ばせた。ユミコに対して、隠すまではしなくても良いかもしれない。見つかったなら、その時はちゃんと説明をする。ただ、大っぴらに表に出すものでもないと考えていた。
アオの話をした時、ユミコは悲しそうな顔をしていた。するべきではなかったと後悔しても、もう遅かった。テルアキの中で、アオは未だに生きて――存在し続けていた。
これで終わりに出来るなんて、そんな虫の良いことなんて考えてはいない。せいぜい、一つの区切りとするだけだ。
「ユミコさん、途中でポストに寄ってください」
「はーい。懸賞葉書でも出すんですか?」
一応、それも数枚用意してあった。重ねて投函してしまえば、判りはしないだろう。テルアキはカバンを肩にかけると、仕事部屋を後にした。
閉め切った部屋の中から、微かに波の砕ける音が聞こえた気がした。




