ここであなたと(5)
テルアキの部屋は、宝物でいっぱいだった。映画にいけば必ず購入しているパンフレットに、人気のあるマンガのシリーズ。ゲームソフトだって山のようにある。欲しいと思った物は、大概はおねだりすれば買ってもらえた。自分でも、わがまま三昧の生活であると自覚はしていた。
「ご飯よー」
階下で母親が声を上げた。テルアキは組み立て途中のプラモデルのキットから目を離した。窓から見える景色が、夕焼けに染まっている。知らない間に、そんなに時間が経っていたのか。夢中になるとどうにもいけない。テルアキは軽く伸びをすると、部屋の外に向かった。
「いぇっひー、メシだぁ!」
廊下に出たところで、弟のヨシヒコが叫びながら駆けていった。四つ下のヨシヒコは、落ち着きがなくて甘えん坊でどうしようもない。テルアキの玩具も、いつも勝手に持ち出して壊してしまう。機会があれば父親に厳しく叱ってもらうべきだと、テルアキは常々思っていた。
「やった、今日オムライスじゃん」
ダイニングに入ったヨシヒコが小躍りした。オムライスはヨシヒコの大好物だ。外でレストランとかにいくと、必ずオムライスを注文する。その際、あれがダメだこれがダメだと細かいところにイチャモンをつけて面倒くさい。ヨシヒコに言わせれば、母親の作るオムライスが何よりも美味しいごちそうなのだそうだ。
「お母さん、またヨチコばっかり贔屓する」
「そんなことないよ。今日はたまたま」
本当にそうなのだろうか。ヨシヒコは母親のお気に入りだ。一人で何でも黙々とこなしてしまうテルアキと比べて、すぐに泣きついてくるヨシヒコの方が可愛く感じられるのだろう。不機嫌になりながらも、テルアキは黙って自分の席に着いた。
母親のオムライスが絶品であるという点については、ヨシヒコの意見は確かに正しかった。ふんわりとしていて、それでいてしっかりと食べ応えがある。野菜が苦手なヨシヒコでも、これのグリンピースだけはいつも残さずに平らげていた。
「お父さんは?」
「残業だって。最近忙しいみたいなのよね」
それは残念だ。ヨシヒコの悪行三昧について、報告したい内容がそろそろノート一冊分は溜まりそうな勢いなのに。何も知らないヨシヒコが、がつがつとオムライスを口の中に放り込んでいる。「いただきます」を言っていない。ほら、これでまた一件追加だ。いつまでも調子に乗っていられると思ったら、大間違いだ。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
母親が、にっこりと笑った。ヨシヒコが産まれてから、テルアキはずっと『お兄ちゃん』を演じてきた。たまには母親に甘えてみたくなることだってある。ただそれと同時に、テルアキは父親のように何事にも動じない強さを持ちたいとも願っていた。
弟のヨシヒコは、いつでも母親にべったりとしている。それが心の奥底では、羨ましくて仕方がなかった。テルアキはただ突っ張って、平気なふりを装って。ヨシヒコのために作られたオムライスを口に運ぶ。
味の染みたチキンライスに混じって、テルアキは自分の裡に言い様のないもやもやが広がっていくのを感じた。
「ほら、いじけないの。今度はお兄ちゃんの好きなもの、作ってあげるから」
温かい掌で、母親は優しくテルアキの頭を撫でてくれた。そうは言われても、なかなか素直な気持ちにはなれそうにない。
何故なら、テルアキが一番好きな母親の料理は――オムライスだからだ。
マンションの部屋の中に一歩入ると、ユミコは「ふわぁ」と思わず感嘆の声を漏らした。こういうのは、ドラマとか映画でしか見たことがない。広くて、綺麗で。一体どれだけのお金を払えば、こんな環境で生活することが出来るのだろうか。
「物はほとんど置いていないから、必要なら買ってもらうことになると思う。その場合のお金は、俺が出すつもりだ」
テルアキの言葉を、ユミコはほとんど聞いていなかった。ジャグジーの付いた広い浴槽に、ウォークインクローゼットに、大きくて立派なアイランドキッチン。これは撮影のためのセットか何かだろうか。こんな場所が現実の世界に存在しているという事実に、ユミコはただただ驚愕を覚えるばかりだった。
「そこの部屋だけは、俺が仕事に使っている。後は自由にしてくれて構わない。リフォームでも何でも、お望みのままだ」
洋間一つ残して、他が全部ユミコの好きに出来る。ユミコは生家がそれなりに大きな農家だったが、その母屋にも負けないくらいの床面積だ。後は、何もかもが新しい。どんなに磨いても、柱の芯にまでこびり付いたヌカ味噌の臭いが取れないボロ家とは格が違う。小走りに一通り部屋を見て回ってから、ユミコはリビングの真ん中で深いため息を吐いた。
これが――真のシティライフというものだ。ユミコのこれまでの東京生活は、あらゆる点で間違えていた。
「それにしても、本当に来てくれるとは思わなかった」
「約束したんですから、見に来るくらいなら良いじゃないですか」
昨夜映画館で別れた後、ユミコは自分では結構悩んだつもりだった。なるべく実家に関わることなく、可能な限りお金に余裕を持たせてこちらに新しい生活拠点を作る。それを実現させる上で、テルアキの申し出は涎が出るほどに魅力的なものだった。
問題は「見知らぬ中年男性の管理する部屋に住まわされる」という、その一点に集約される。有り体に言ってしまえば、愛人となって囲われるという状態になるのだ。周りからどう見られるか、についてはさて置いて。流石のユミコも、テルアキに良いようにされる毎日というのは遠慮したいところだった。
「条件についてはさっき説明した通りだ。書面にしても構わない。ユミコさんを助けることが、俺の目的だからね」
細かい決まりごとはあれこれあったが、大事なのは六ヶ月間という猶予の存在だった。テルアキは完全なる善意に基づいて、無償でユミコに対して便宜を図ってくれる……などというつもりは毛頭ない。そこには、れっきとした下心が介在している。それを最初から認めた上で、敢えて「何もしないで様子を見る」という期間を設置してくれた。
「それだと、私が六ヶ月以内に出ていっちゃったらテルアキさんの丸損になりません?」
「そうは思わないかな。俺はユミコさんがここに住んでくれること、それ自体に価値を認めている。そのまま俺のものになってくれるなら、なお嬉しいってね」
なかなかに恥ずかしいことを、テルアキはさらりと口にしてくれた。これが大人の余裕というものだろうか。ユミコは負けじとテルアキを正面から見つめ返した。光が当たると、テルアキの茶色い虹彩は金色に輝いて見える。きっとそうやって、ユミコのことを魔法にかけているのだ。
悔しいが、相手が魔法使いならば諦めるしかない。ユミコはテルアキの瞳をしっかりと見据えたまま、意を決した。
「判りました。私、ここに住みます」
元気いっぱいのユミコの宣言に、テルアキは驚いて目を丸くした。
「ええっと、俺が言うのもなんだけど、本気かい?」
「本気も本気です。早速引っ越しの手配をしなきゃなんですけど、引っ越し代も出してくれたりはしますか?」
「もちろんだ」
泡を食って、テルアキはばたばたと動き始めた。さっき一通り眺めて回った結果、ユミコは既に自分の部屋の位置を決めてあった。窓が小さくて、広過ぎずに落ち着けるところが良い。今のアパートにある本棚とか、ローテーブルとかを置く場所を頭の中でシミュレーションしてみる。さて、忙しくなってきそうだ。
「私、テルアキさんのお好みの女の子じゃないかもしれませんよ?」
「その場合は、俺の見る目がなかったってことだ。大人しく降参するよ」
降参して、どうするつもりなのか。どうか出ていってくださいとか、土下座して頼んできたりするのだろうか。滑稽で面白そうではあるが、そんな格好の悪いテルアキをユミコは見たくなかった。
色恋関係は、ヒロキの顔が脳裏をちらつくのでしばらくは遠慮しておきたかった。それはともかくとして、テルアキはユミコのパトロンになってくれる大事な人なのだ。これから長くて六ヶ月、良好な関係を保っておくに越したことはない。せめて、楽しい毎日を送れるぐらいの仲にはなっておきたかった。
「その間に、私はテルアキさんのことを好きになりますかね?」
「どうかな? そうなってくれれば嬉しいな」
そんな先のことなんて、誰にだって判りはしない。そうだ、未来とはこうあるべきだ。人に強制された道を進んだって、何も得られはしない。ユミコのいく道は、ユミコ自身が決定するものだ。
めちゃくちゃになった世界に取り残されても、自らの足で歩いていくと決めたあの映画の主人公たちのように。
十分ほど泣いてから、テルアキは落ち着きを取り戻した。それから、夕食はどちらも一言も発しないまま終わりを告げた。テルアキは米粒一つ残さず、綺麗にオムライスを平らげてくれた。美味しかった、だろうか。それを訊く勇気を、ユミコは持つことが出来なかった。
恐らく、オムライスはテルアキにとって特別な意味を持つメニューだった。ユミコが作ったそれは、必要充分にその条件を満たしていた。いや、満たし過ぎていたのだ。
涙でぐしゃぐしゃになったテルアキの顔は、まるで小さな子供だった。寂しくて、悲しくて。込み上げてきたものが抑えきれなくなったような、そんな表情だった。
ユミコは何度となくテルアキの方に手を差し出そうとして、躊躇って引っ込めた。そうするべきだと、頭では判っていたのに。ここでテルアキの中身に触れてしまえば、戻れなくなってしまうのではないか。そんな予感が、ユミコの中で渦巻いていた。
それは今のユミコみたいな、中途半端な気持ちで踏み込んで良い場所ではなかった。ユミコはテルアキのことを、そこまで強くは想っていない。ユミコに親切にしてくれる、ちょっと素敵な大人の男性。ユミコはまだ、その一線で立ち止まって、じっと様子を見ている段階だった。
怖かった。ここでテルアキの掌を握ったり、そっと抱き締めたりすれば――ユミコは確実に、テルアキのことを好きになってしまう。そうなっても、困ることなんかない。その方がずっと、ユミコはテルアキの気持ちに応えることが出来る。猶予なんて忘れて、愛人にでも何でもなってしまえば良い。
でもきっとそれは、ユミコだけではなくて……テルアキ自身もまた、望んでなんかいないことだった。
「俺の方からお願いしておいて、すまなかったね」
「いえ、気になさらないでください」
自宅に戻るというテルアキを、ユミコは玄関先まで見送った。テルアキはすっかり元通りになっている。ついさっきまで、正体をなくすくらいに泣き崩れていたというのに。ユミコは胸元で、ぎゅっと拳を握り締めた。
「あの、テルアキさん。私からも一つ、わがままを言っても良いですか?」
「うん。言ってごらん」
ユミコがこれまでテルアキに要求したことがあるのは、ここに引っ越してくる時のお金と、大学のテキストの代金だけだった。食費やその他の雑費は、毎週使いきれないくらいの金額をダイニングのテーブルの上に置いていってくれる。ユミコもテルアキも、それさえあれば困ることなんて何もないと考えていた。
今日の、この時が訪れるまでは。
「明日からも、晩ご飯は基本的にここで食べるようにしてくれませんか?」
「それは……」
テルアキは絶句した。ユミコの眼は、真剣そのものだった。二人の食事の思い出を、こんな悲しいもので終わらせたくない。料理だって頑張ったのだ。ちゃんと二人の笑顔で始まって、そのまま楽しい気分でいさせてほしかった。
それだけではない。ユミコはもっと、テルアキという人間を理解したかった。もしここに六ヶ月を超えて滞在することになれば、ユミコは正式にテルアキの愛人になる。その判断をするためにも、ユミコはテルアキについて良く知っておかなければならない。
テルアキはユミコを愛してくれる、ご主人様になるかもしれない男性なのだから。
「判った。ユミコさんがそうしたいと望むなら」
ユミコの訴えを、テルアキは認めた。心なしか、口元が緩んでいるようにも思える。これもテルアキの計画通りなのだろうか。まあ、それを気にしたところでどうしようもない。この部屋にいる時点で、ユミコは戦う前から負けているも同然だった。
「ありがとうございます。そうだ、おやすみなさいのキスとか、いりますか?」
感謝の気持ちは表しておきたかったし、立場上そういうサービスくらいはあって然るべきか。ずいっとユミコが身を乗り出すと、テルアキは慌てて両掌を前に出してきた。
「いやいや、いいからいいから。六ヶ月の約束はちゃんと守るよ。俺はユミコさんの意思を尊重する」
じゃあね、と軽く手を振って、テルアキはドアの外に出ていった。ユミコの方から押してもこうなのだから、テルアキの側には本気でユミコをどうこうする気はないらしい。それは愉快でもあるし、腹立たしくもある。テルアキの気持ちとやらがどういう性質のものなのか、ユミコにはいまいちピンとこなかった。
では仮に、ユミコからその約束を違えてしまえばどうなるのか。
沢山優しくしてもらって、そんな感情が芽生えないほどにユミコは朴念仁でもないつもりだった。今は無理でも、それなりに時間が経てばそうなる可能性はゼロではない。
その期間としての六ヶ月は、短いのか。それとも、長いのか。
二十以上も年上のテルアキは、まだまだ判らないことの方が多過ぎる。せめてその片鱗ぐらいは、掴めたと思えるようにはなりたい。
「Don't be true」
ユミコは本当のことなんて、何も知らない。いや――
それは二人にとって、必要なものなのだろうか?
第1章 ここであなたと -了-