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愛人契約はじめました  作者: NES
第10章 やくそくのとき
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やくそくのとき(2)

 ドアチャイムの音がしたので、ユミコはインターホンのモニタの前に歩み寄った。共同玄関のランプが点いている、ということはエントランスか。テルアキはそこの鍵は開けられるから、一般の来客ということになる。カメラの映像には、フミカとチカの顔が並んでいた。


「やっほー、ユミコさん。陣中見舞いに来たよ」

「テルアキさんの許可は取ってあるから、安心してね」


 この部屋に許可なく他人を招き入れるのは、重大な契約違反となる。二人にはそこまで気を遣ってもらって、有り難い限りだった。ユミコはボタンを操作して、エントランスのドアを開けた。自動ドアの開閉音が聞こえてきて、モニタが消灯する。さて、この部屋にお客さんがやってくるなんて、初めてのことではなかろうか。

 数分後に、今度はドアの方のチャイムが鳴らされた。内鍵を外して、二人を招き入れる。久しぶりに会うフミカとチカの姿に、ユミコは思わず涙腺が緩んでしまった。


「二人……とも、ありがとう。ごめん……ね――」

「何言ってるの、悪いのは全部オーナーだって」

「そうそう、ほら、あと少しなんだから頑張りましょう」


 口々にはげまされて、ユミコはその場に泣き崩れてしまった。フミカとチカが、その身体を抱き締めてくれる。自分のしていることが正しいのか。何をしようとしているのかすらも定かではない中で……二人が応援してくれているという事実は、何よりも嬉しいものだった。



 ユミコはテルアキをマンションの部屋から追い出して、完全に占拠していた。いくらテルアキが鍵を持っていたとしても、ドアの内鍵だけはどうしようもない。仮に外部に知られるような大事おおごとに発展したとすれば、そこにいるのは女子大生とデイトレーダーのおっさんだ。テルアキの方が圧倒的に不利な状況となるのは目に見えていた。

 このままこの部屋に居座って、大学の夏休みが終わる九月の中旬にまで到達すれば――


 ユミコは、正式にテルアキの愛人となる。


 ユミコ自身、馬鹿な考えであるとは思っている。そこまでして、何がしたいのか。テルアキの方だって、それを認めるとは限らない。それでも、ユミコにはそうすることしか出来なかった。テルアキを部屋の外に締め出して内鍵をかけて。その後は、一晩中すすり泣いていた。


 携帯でヨリに相談すると、開口一番で「あきれた」と告げられた。


「ユミコはテルアキさんの愛人になりたいの?」

「そういう訳じゃない……けど」


 別に、関係なんて何でも良かった。どう噂されても、どんな目で見られても構わない。ユミコは、テルアキのそばにいると決めた。男と、女として。可能な限り、い遂げ続けようと心に誓っていた。


「私はもう、テルアキさんのことが好きになっちゃったから。一緒にいるための理由なんて、何でも良いんだと思う」

「ほらー、完全に情が移っちゃってるじゃーん」


 投げやりな言い草でも、ヨリは親身になってユミコの相談に乗ってくれた。籠城ろうじょうに必要な食糧その他は、ヨリが宅配便でマンションに送ってくれる手筈てはずとなった。大学が始まるまでは、あとせいぜい一週間。ユミコがその決意を持ったというのなら、ヨリからは何も言うことはないとのことだった。


「良いんじゃない? 好きな人に振り向いてもらいたいんでしょ。いよいよ押しかけ愛人とか、すごいね」


 この約束を最初に持ち出してきたのは、テルアキだった。それを解消しようと持ち出されて、ユミコはまだそれに同意の意思を示していない。とりあえずグーで殴っておいた。後はロクに話もせずにドアの外に追いやって、そのままだ。この状況は、「交渉自体は決裂しているが、契約破棄とまではいっていない」のだと思っておきたかった。


「ぶっちゃけ不安しかないけど、ユミコがしたいなら応援するよ。テルアキさんのハート、ちゃんと捕まえてね」


 テルアキの気持ちだって、しっかりとユミコの方を向いていたはずなのだ。二人は絶対に、愛し合っていた。その寸前にまで進んでしまったことが、テルアキの中で逆に不安となって鎌首をもたげてきたに違いない。そんなものに、負けてたまるか。ユミコはずっと、テルアキの心を取り戻すために戦ってきたんだ。


 絶望の中でも、希望の光を取り戻してみせる。あの映画で観た、傷だらけの主人公たちのように。



「すごーい、ひろーい」


 フミカもチカも、テルアキのマンションを訪れるのは初めてだった。使っていない部屋がいくつもあったり、ウォークインクローゼットがあったり。一般的な家屋とは間取りからして異なっている。大きな窓から見下ろせる東京の街並みに、二人は揃って歓声を上げた。


「そりゃユミコさん、愛人にもなりたがるわ」


 別に、そういう理由でテルアキを選んだつもりはまるでなかった。確かにこの部屋は快適だし、少し前にテルアキの実家で生活していた頃には若干不便であるとすら感じてしまってはいたが。ユミコはテルアキという人物を好きになったのであって、決して財産とかそういうものに魅かれたのではなかった。

 ……あと、海外旅行とか。


「はい、ご所望のブレンド深煎りです」

「わぁ、ありがとう」


 チカから差し出されたコーヒー豆を、ユミコは大事そうに受け取った。喫茶『翡翠の羽』の特製ブレンド。これが相当に数を減らしていたので、どうしても補充しておきたかった。テルアキのお気に入りで、ケンキチが店で出しているのとまったく同じ代物だ。これを買いにいけば、ほぼ確実にテルアキと顔を合わせることになる。そのため、ユミコは丁度チカに頼んで持ってきてもらおうと考えていたところだった。

 ユミコは早速、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。どうもここ最近、この機械は相当に酷使されていた形跡があった。テルアキは何度となくコーヒーを作って飲んでいたに違いない。それで豆の消費量も増えていた。ここでの仕事を再開して、無駄なことばかり考えて。ユミコはまた、段々と腹が立ってきた。


「テルアキさんは、どうしてますか?」


 チカとフミカは、お互いに顔を見合わせた。どう応えるべきか、迷っている感じだ。ありのままに話してもらえれば良い。ソファに座った二人の前に、ユミコはコーヒーの入ったカップを置いた。来客用のカップなんて、恐らくは買ってから初めての出番ではなかろうか。


「大体毎日お店にきて、クダを巻いてるね」

「ウチの人が相手してる。『うつが移りそうだ』、ってオヤジギャグ飛ばしてた」


 笑えない。ユミコは肺の中身全部を吐き出すぐらいの溜め息の後で、ソファの上にどさりと体重を預けた。


 ケンキチからは何度か電話がかかってきていて、そこからテルアキの考えというものが少しは判ってきた。テルアキはユミコを、世間の目から守りたいのだ。二十二歳差というどうしようもない年齢の壁を持つ二人が、そういった関係にある。そのことはどうしても、ある種の不適切さをにじませてしまう。現に二人の始まりは、『愛人になる』という契約であった。

 テルアキはいつだって、自分が『おじさん』であることを気にかけていた。風貌とか、体臭とか、仕草とか、生活習慣とか。ユミコに言わせれば、そんなものはどうってことはなかったのだが。しかしそれはテルアキの中では、ユミコと吊り合うためにはどうしても必要なものであった。


「俺は、ユミコさんには相応ふさわしくない」


 テルアキが何を言っているのか、ユミコにはさっぱりだった。ユミコなんて田舎の農村の、ちょっとデカい程度の家の末娘にすぎない。それに相応ふさわしいっていうのは、ヒロキみたいな農家の子倅こせがれのことか。冗談じゃない。今時の男女なら、自分の付き合う相手ぐらいは自由に選ばせてもらっても良いじゃないか。


 確かに、『愛人』という言葉からは不適切な臭いがプンプンとただよってくる。お金で契約して、自由にさせる代わりに生活その他を補償させる。まあ、今だってほとんど同じことだ。ユミコは生活費の大部分を、テルアキに依存している。『飼われている』と表現されても、否定出来る要素は一つもなかった。

 それを人に話すのは、実際(はばか)られることではある。胸を張って「愛人です」なんて、言えるはずはない。


 でもそれなら、他にいくらでもやり方はあるだろう。例え入り口が『愛人』であったとしても。きちんとお互いに、心の底から愛し合えたのなら――


「そういえばフミカさん、今日は大丈夫なの?」


 フミカのところには、小学校に上がる前の男の子がいる。この身体で、子供を一人産んだというのだから信じられない。それも割と安産であったとか。そんな行為をいたケンキチのことを、ユミコは鬼畜とまで思ってしまった。ただフミカ本人はそのことについて話す時は、いつも幸せそうだった。


「うん、今日はママ友のところに預かってもらってる。あいつ、女の子との方が仲良いんだよね。ジゴロだ」


 フミカはクスクスと笑った。母親、の顔だった。小さくてもそこはしっかりとしていて、不思議な感じがした。


「あの子もお兄ちゃんになるんだから、もうちょっとしっかりしてくれないとね」

「えっ!」


 びっくりして、ユミコとチカはフミカのお腹の辺りに視線を向けた。それはつまり、そういうことなのか。フミカはちょっと顔を赤らめると、そっと自分の下腹部をひと撫でして微笑んだ。


「まだ準備中。いっぱい頑張ってもらってるから、その内出来るとは思うけど」


 生々しい。ユミコは思わず、ソファの上で姿勢を正してしまった。ケンキチとフミカは夫婦だし、それはある意味至極当然のことなのだろう。しかしそれでも、あの浪人ヘアーのケンキチとフミカがそういうことをしている場面というのは――想像してみるとちょっとキツかった。


「うわー、マスター鬼だわ」


 チカがドン引き、という表情でそう漏らした。確かに、どこから見ても中学生にしか見えないフミカと男女の行為に及ぶとか。一般的な概念からすれば、変態であるとしか思えない。っていうかロリコンだ。男性経験のないユミコにとっては、人間不信にまでおちいってしまいそうなとんでもない爆弾発言だった。


「いつも優しくしてもらってるよ。ちゃんと愛し合って夫婦になったんだから」


 フミカの方は、しれっとしてそう応えた。別にこれくらいは当たり前、なのか。それに、フミカは既に一人子供をもうけて産んでもいる。今更と言えば今更のことだった。


「二人は欲しいねって、前から相談していたの。だからこれは計画通り。私は幸せ真っ最中なのよ」


 ――子供、か。


 ユミコは、そっと自分のお腹に触れてみた。ユミコのそこにも、フミカと同じ器官が存在している。男性の遺伝子を受け入れて、新しい生命を作り出すための場所だ。今まではそういうものとしては、全く意識してこなかった。だが実際にフミカにそう言われてしまうと、何だか無性に気になりだした。

 やはり、産むのならテルアキとの間に出来た子供だろうか。このまま愛人になれば、きっと男女の関係になる。花火大会の夜だって、実家からの電話がなければそこにまで至っていた。何も考えずに、ただ愛する人を求める行為として。それでも構わなかった。結果として自分の中にテルアキの子を宿したとしたら、ユミコはどう感じるだろうか。


 恐らく、嬉しい。


 じんわりと、お腹の内側が熱くなる。そこに、テルアキとの子供が出来るかもしれなかった。そうしたら、テルアキにも喜んでほしかった。二人の愛が、結びついて命になる。今までに考えたことがないのが奇妙に感じられるくらいに、それはとても幸せな行為に思えてきた。ユミコは心の中にテルアキの姿を想像して、きゅうっと胸の奥が締め付けられるような気がした。


 今すぐである必要はない。でも、近い未来にはあり得るかもしれないことだ。ユミコはテルアキなら、何でも受け入れられそうだった。触れられて、唇を吸われて、抱き締められて。全部を任せて、沢山愛してもらいたかった。

 その帰結として子供が出来るなら、それは当然のことですらあった。二人で、目一杯に祝福してあげたい。おめでとう。あなたは、とても愛されて産まれてきたのよ、って――


「その人の子供が産みたいとまで思えるようになったら、本物だよ」


 フミカにそう言われて、ユミコはどきっとして現実に帰ってきた。わずかばかりの間、トリップしてしまっていたらしい。チカがぽかぁんとした顔で見つめてきている。慌てて、ユミコはコーヒーを口に運んだ。今の妄想は、かなりヤバかった。


「ユミコさん、オーナーのことホントに好きなんだねぇ」

「グーで殴って居座るぐらいにはね。女は強いのよ」


 それは強さの質が違うのではなかろうか。そう思ったが、ユミコは何も反論せずにコーヒーをすすり続けた。まだ頭の中に、さっきの映像の残滓ざんしがこびり付いている。困ったものだ。テルアキのことを、こういう風に意識するのは久しぶりだった。


 ――やっぱり、好きなんだな。


 こぶしじゃなくて、ちゃんとてのひらを握りたかった。抱き寄せられて、テルアキの匂いに包まれたかった。そのために急いで帰ってきたのに、テルアキは嫌なことばかりを口にしようとした。理由とか理屈とか、そんなものはどうでも良い。ユミコはとにかく、テルアキに抱かれたかった。


 あと一週間。ここに居座ってしまえばとりあえずはユミコの勝ちだ。テルアキがどんな対応をするかは判らないが、ユミコの側はこれを錦の御旗にして迫るつもりだった。



 月緒ユミコは、契約に基づいて――内藤テルアキの愛人になります。



 それが世間からどう思われようが、知ったことではない。そうなるように仕向けてきたのは、他ならぬテルアキなのだ。責任を取るというのなら、もうその方向でしか有り得なかった。


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