いつかのねがいをこめて(5)
遠くへと去っていく電車の後ろ姿を、ヒロキは無言で見送った。ユミコとの別れは、何度経験しても慣れそうになかった。心の奥にぽっかりと空いた穴から、じわじわと何かが染み出してくる。泣いて叫んで、暴れ回りでもすれば僅かでも気は紛れるだろうか。
しかし、今回ばかりはそれを実行に移す訳にはいかなかった。このほとんど利用客のいない寂れた駅に、二人きりという状況ではなかったからだ。電車が見えなくなっても突っ立ったままのヒロキの背中を、キヨカがぽんと一つ叩いた。
「さ、いきましょ」
「はい」
女性、それもユミコの姉の前で、泣きじゃくるような醜態を晒すなんてとんでもなかった。涙一つ見せずに、ヒロキは振り返った。どんなに情けなくても、ヒロキは男だった。
車に戻って、キヨカを助手席に招き入れる。エンジンをかけてハンドルを握る頃には、ヒロキの内面には平常心が返ってきていた。これから、月緒家の長女を乗せて運ぶのだ。事故など起こそうものなら村中大騒ぎだった。
「ヒロキくんさ、やっぱり誰かとお付き合いした方が良いと思うよ?」
「そう、ですかね」
キヨカは頬に掌を当てて、つまらなそうに窓の外を眺めていた。この辺りは駅の近くということもあって、他と比べれば比較的栄えている。具体的には、本屋と酒屋とコンビニがある。後は田んぼと畑と山なので、村人たちが言うところの『繁華街』なんて一瞬で通り過ぎてしまった。
「ユミコの話だと、多分あの子、今の彼氏と結婚するところまで考えてる」
そんな内容であれば、ヒロキに対しても匂わせてはいた。恐らくユミコの交際相手はそれなりに年上で、自立している男性だと思われた。キヨカは電話で聞いた声からして、少なくともユミコより五歳以上は上であると予想していた。
「いよいよ、この村からは離れてしまいますね」
東京で所帯を持って、東京で暮らすようになれば。こんな何もない村のことなど、簡単に忘れてしまうだろう。ユミコを訪ねていった時に、ヒロキは都会の空気に圧倒されてしまった。無数の人と、ひしめく高層建築物。あの中で生きているユミコは、既にヒロキとは異なる存在と化しているのかもしれないとまで思わされた。
「そ。まあ、会っても年に一度くらいにはなっちゃうんだからさ」
頭では、そんなことは判り切っていた。ユミコはもう、手の届かない場所にまでいってしまった。たまたまこの夏には、出会う機会があったというだけだ。ずっとこうでは有り得ない。それに、次にくる時には――
「ユミコの彼氏の顔を見てヘコむ前に、しっかり踏ん切りをつけておかないと」
「……ですよね」
ユミコがいなくなってから、縁談も告白も驚く程大量にヒロキのところに舞い込んできた。友人たちに言わせれば、入れ食い状態だそうだ。生まれてこの方、ヒロキはモテたいなんて考えたこともなかった。頭の中には、ユミコと結婚して家を継ぐことばかりがあった。女性に好かれていると言われても、全くピンとこない。
人を好きになるという気持ち自体は、判っている。ヒロキ自身、ユミコのことは誰よりも好きだった。ただ、それと同じように他の誰かを好きになれるかと問われると、まるでさっぱりだった。
「俺、ちゃんと他の女の子を好きになれますかね?」
「なれるよ。ならないと、逆にユミコが悲しむかもね」
無茶苦茶だ。だが、確かにキヨカの言う通りだった。ヒロキはこの村で、ちゃんと幸せにならないといけない。そうすることで、ユミコに自分の価値を示してやれる。ユミコが安心して、この場所から旅立っていけるのだ。
とはいえ、ヒロキとユミコがかつて許嫁であったという情報は、村の誰しもが識っていることだった。ヒロキの妻となる女性は、長い期間に渡ってその噂に翻弄されるだろう。そんな気まずい思いをさせてまで、交際したいと願えるような相手に巡り合うことは可能なのか。
「大丈夫だよ、ヒロキくんなら。お父さんもそう言ってた」
エイジは、ヒロキのことを気に入ってくれている。ヒロキにしてみれば、何度となくエイジの期待を裏切ってしまって申し訳ないとすら思っていた。今のヒロキに出来るのは、精一杯月緒の家に奉公させてもらうこと。そして、この村の発展に少しでも寄与させてもらうことだけだった。
「明るくて、楽しい家庭を作ること。ヒロキくんを選ばなかったことを、ユミコに後悔させるくらいじゃなきゃ」
「難しいです」
それでも、やるしかなかった。ヒロキはハンドルを握る手に強く力を込めた。夏が終わろうとしている。ユミコに再会して、改めて別れた夏。来年の夏には、ヒロキは誰のことを想っているのだろうか。
蒸しっとしていて、それでいてどこか埃っぽい。心なしか、生ゴミの臭いも混じっている気がする。東京の空気だ。胸いっぱいに吸い込むと具合が悪くなりそうなので、軽く味わうだけで済ませておく。こっちの方が『帰ってきた』感が強いのは、ユミコがもう東京の住民と化してしまったからなのか。
祭だ何だで慌ただしくて、テルアキとはロクに連絡を取り合えていなかった。どうもここ最近は、マンション通いが復活しているらしい。普通に仕事がこなせるくらいには回復したということか。良い傾向だ。ユミコは時刻を確認すると、新幹線から在来線への乗り換え口へと向かった。
今からなら、マンションの方が早く到着出来る。いらない荷物はそちらに置いていきたいし、たまには掃除しないと落ち着かないというのもある。
それに何より、そこにテルアキがいるのなら――何をおいてもそこにいって、会いたかった。
高々一週間という短い間でも、テルアキと離れてみるとユミコには色々なことが判った。かなり語弊がある気もするが、身体がテルアキを求めている。それだけスキンシップが増えていたのだ。
ユミコは、テルアキの手を握っていたいと感じることが増えていた。掌の感触が、ふとした切欠で恋しくなった。傍に寄り添って立っているだけで、不思議と安心していられた。こういうのは、やはり一度なくなってみないときちんと理解出来ないものだった。
考えてみれば、とんでもない寸止め状態でテルアキとは離れてしまっていた。エイジのことはちゃんと判ってあげられているつもりでも、それとこれとは話が別だ。絶対に許すつもりはない。娘の一世一代の大舞台であったのに。やや雰囲気に流された、なし崩し感はあったとしても、だ。結果としてテルアキが心を開いてくれれば、それで良しだった。
二十二歳も年上の、親子ほどに年の離れた異性。
最初から、そんなことはあまり意識していなかった。気にしていたのは、専らテルアキの方だった。外見とか、行動とか、細かいところにまでいちいち気を使って。そんな風に作られた相手に対して恋をしろとか、プラスチックの玩具同士でもあるまいに。
ユミコはいつだって、本当の『テルアキ』を探していた。気取っているようで、他人行儀で。それなのにユミコに、愛人にならないか、などと持ちかけてくる不思議な人。その心の在処がどこなのか、ユミコは興味を持った。
危険な人物であれば、それまでだ。しかし、どうしてかユミコは信じることが出来た。この人は、テルアキは大丈夫だ。何も見えない暗闇の中から、手だけが伸ばされている。空を切って足掻くその動きは、助けを求めていた。ユミコは少しも恐ろしくなかった。その闇の向こうに何があるのかさえ、判る気がしていた。
そこにはきっと――ユミコの父、エイジの部屋と同じ場所がある。
ユミコの作ったオムライスを食べて、涙を流したテルアキを見てそれは確信に変わった。実家に戻って、ユミコは自分の得た感覚が正しかったのだと悟った。テルアキはずっと、彷徨いながら探していたのだ。
自分のことを受け入れてくれる、誰かの存在を。
地下鉄の駅を出ると、ユミコはそそり立つマンションのビルを見上げた。こんなにすごいところだったのか。その威容に、改めて感嘆の息を漏らす。テルアキとの出会いは、ユミコにとって本当に僥倖であった。
『愛人』という言葉に、抵抗がなかった訳ではない。金持ちの男に飼われて、良いように弄ばれる毎日。それは死ぬよりもつらい日々になるかもしれなかった。
半ばやけくそであったことは否めない。家族やヒロキへの当てつけ、どうなっても構わないという捨て鉢な気分。それに加えて、ほんの少しだけ。テルアキという男性のことが、引っかかっていた。
テルアキの中の闇の正体を知った時は、ユミコは何も言葉に出来なかった。黙って、テルアキを抱き締めていた。ずっと、一人で歩いてきたのだ。その辿り着いた先で、ユミコはテルアキを受け止めると決めた。その形が『愛人』であろうが何であろうが、関係ない。
ユミコの心は、もう真っ直ぐにテルアキだけに向けられていた。
「ただいま帰りました」
ドアを開けると、ユミコは中に向かって元気いっぱいに声をかけた。ごそごそと動き回っている気配がある。良かった。予想していた通り、テルアキはマンションにきていた。東京に帰ってきて、すぐにでも会いたいと思っていた愛しい人。ユミコはいそいそと靴を脱ぐと、スリッパを履いてリビングの方に向かった。
「テルアキさん、ただいま、です」
「ユミコさん、お帰りなさい」
テルアキが、手に持った段ボール箱を床に置いてから立ち上がった。ざわり、とユミコの胸の奥が騒がしくなった。おかしい。マンションにやってきてから、どうにも奇妙な違和感が消えてくれない。その正体が判らずに、ユミコはきょろきょろと部屋の中を見回した。
以前きた時と左程変わらない、殺風景な眺めは相変わらずだ。それに加えて、折り畳まれた段ボールが脇に立てかけてある。そこに描かれたロゴマークは、宣伝でよく見かける引っ越し業者のものだった。
「あの、お引越し、ですか?」
テルアキの持っていた段ボールの中には、インテリアの一部が詰め込まれているようだった。見覚えのあるものが中心だ。あれは、ユミコが買ってきた猫の形の置物。壁にかけておいた時計。それから、マスコットのぬいぐるみ。再び、ユミコの中で何かが暴れだした。
――おかしい。
「この部屋、引き払ってしまうんですか?」
「いえ、ここはこのままです」
じゃあ、なんで引っ越しなんて始めようとしているのか。なんでユミコの寝室の前に、段ボールの束が置かれているのか。なんで既にまとめられているのが、ユミコ絡みの持ち物ばかりなのか。
なんで――?
「じゃあ――」
「引っ越すのは、ユミコさんだけです。新しい部屋を見付けておきました。これからは、そちらで暮らしてください」
ユミコは思わず、大股になってテルアキに詰め寄っていた。すぐ目の前に、好きな人がいる。ついこの前まで、同じ屋根の下で生活していて。眠る時には手を繋いで。唇も、身体も、何もかもを委ねようとまでしていた男性。
そのテルアキが、感情のない眼でユミコのことを見下ろしていた。
「説明してください」
二人の間には、いくつかの取り決めがあった。それを破らない限りは、ユミコはこの部屋にいられることになっている。少なくとも、九月の約束の日までは、だ。
ユミコは何か、テルアキとの間に重大な違反行為を犯しただろうか。友人や知人をこの部屋に連れ込まない。許諾を得ずに外泊をしない。部屋の中にあるものを勝手に換金しない。大丈夫だ、何一つ破ってはいない。
テルアキの方だって、同じことだろう。ユミコに対して、関係を強要しない。必要と思われる援助を欠かさない。監視、またはそれに準じる行為をおこなわない。共有スペースにあるものを除いて、ユミコの所有物を勝手に持ち出したり、売却したりしない。
何も問題は起きていなかった。二人の契約は、まだ続いている。ユミコは自分が望むだけこの部屋にとどまって、九月を超えれば正式にテルアキの愛人になる。その際には、自身の一切をテルアキに差し出すという約束になっていた。
「ユミコさん、この契約はそもそもからして不平等でした」
テルアキはユミコから離れると、ソファに座った。その表情は硬く、そして曇っている。ユミコはテルアキの斜め向かいに腰かけると、黙って次の言葉を待った。
「俺には、ユミコさんを束縛しておける権利はありません。今日までユミコさんの尊厳を傷付けるようなことをしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
何を言っているのだろうか。ユミコには、本気でテルアキが何を考えているのか判らなかった。あんなに近くにいて、あんなに繋がっていたはずなのに。テルアキはテルアキのままなのに。ユミコは、テルアキの表情の下にある本当のことが、何一つ見て取ることが出来なかった。
「なんで、そんなこと言うんですか!」
「新しい部屋も、杜若女子大学に通うのには便利な立地です。三年分の家賃と生活費は俺の方で持ちます。ユミコさんはこの部屋を出て――」
テルアキの声は、どこか遠い世界から聞こえてくるようだった。手足の感覚がおぼろげだ。ひょっとしたら、これは悪い夢なのかもしれない。実は今は新幹線の座席にいて、シェードを降ろし忘れたせいで直射日光を浴びて変な夢を視ているんだ。
そうだ。
そうに違いない。
だってユミコは、こんなにも……
「もう二度と、俺には関わらないでください」
ユミコは大声で喚いた。嘘だ。こんなの、嘘に決まっている。
約束の日まで、後二週間――
第9章 いつかのねがいをこめて -了-




