いつかのねがいをこめて(4)
山の方が、明るく輝いていた。丁度神社のある辺りだ。少し前までは、コロマルが興奮して走り回って大変だった。今では疲れ切って、だらしなく犬小屋の前で引っ繰り返っている。ユミコがいるので、ただでさえ浮かれ気味だ。皿の水を換えてやると、べろんと舌だけを出してきた。なんて堕落し切った犬だろう。
神社ではそろそろ、豊作祈願の祝詞があげられる頃合いか。ユミコは縁側に腰かけると、ぼんやりと夜空を見上げた。星が近い。月も大きくて、まるでサーチライトのようにユミコを照らし出している。これが映画のワンシーンなら、悲劇のヒロインの下に王子様ポジションのイケメンがやってくるところだ。
「あれ、ユミコ? 祭りにはいかないのか?」
残念ながら、現れたのはヒロキだった。Tシャツにジーパンの王子様では、あまりに今風に過ぎる。ユミコの好みなら、着流しの方が良かった。そういえば、テルアキの甚平姿はなかなかにはまっていた。本当なら、他のお祭りとかにもいってみたかったのに。
「私は留守番。下手に人が集まる場所になんかいったら、何言われることやら」
月緒の屋敷から出なくても、来客があるたびにユミコは面倒な対応に追われることになっていた。ヒロキとの婚約を蹴って、家を飛び出して東京で暮らしていたユミコちゃんが帰ってきた。客観的事実だけでも充分に恥ずかしいところに、更に根も葉もない尾ひれがついて回っていた。
やれ東京で金持ちの男に手籠めにされたのだとか。今では都心の高級マンションに飼われている身だとか。ヒロキが訪ねていった際には既に男がいて、けんもほろろに追い返されてきたのだとか。
――微妙に当たっているだけに、これらの噂は否定するのが難しかった。これがお祭りの会場ともなれば、同級生たちとも大量に邂逅する羽目に陥る。さながら、歩くゴシップ製造触媒だ。そんな場所に顔を出すなんて、考えるだけでも身震いがしてきた。
「手伝いは?」
「やるだけのことはやりましたよ。お父さんも車椅子に乗ってまで参加とか、月緒家当主ってのも大変よね」
山盛りのお団子やら注連縄飾りを作ったり、神輿の担ぎ手たちのための炊き出しの準備をしたりと。現地までいかなくても、やることはいくらでもあった。ユミコは連日暑い中あれこれと動き回されて、クタクタに疲れていた。この上興味本位丸出しの他人の好奇の眼になんか、晒されてなるものか。
縁側の上に、ユミコは仰向けになって引っ繰り返った。たわわに実った穂を垂らした田んぼの方から、げこげこと喧しい声が聞こえてくる。このクソ腹立たしいカエルの大合唱とも、ようやくおさらばだ。明日か明後日には、東京に帰る予定だった。
「ヒロキはお祭りいかないの?」
「いや、ちょっと気まずくてな」
元婚約者のユミコが戻ってきている中では、確かにヒロキの方も少々いづらくは感じるだろう。それでも、もうとっくに終わった話ではあった。この村でずっと暮らしてきたヒロキにしてみれば、同情票の方が多く集まるのではないか。
「この前、東方のサチヨから交際を申し込まれてさ。断ったばかりなんだ」
「わお。ヒロキってばすごい贅沢者だね」
東方のサチヨといえば、ユミコたちの同級の中でも一、二を争う美人の人気株だった。男子たちが列をなして告白をして、ことごとく撃滅させられたという伝説を持つ。誰が呼んだか、百人斬りのサチヨ。そのサチヨからの申し入れを断るとか。成程、そんな奴が祭りの会場にのこのこと現れようものなら、命が惜しくないと思われても仕方がない。
「いいじゃない。付き合うくらい」
「良くない。俺だって、そんな簡単に割り切れる程器用じゃないんだ」
ヒロキの気配が近付いてきた。ユミコのすぐ隣に、腰を下ろす。ユミコは意識して、そちらを見ないようにした。ヒロキの身体が、そこにある。空気を伝わって、今にもはち切れそうな心臓の鼓動が聞こえてきそうだった。
「そこは――諦めようよ。私、もう付き合ってる人がいるんだからさ」
ユミコは既に、テルアキのものだ。この気持ちは、変わらない。変えることが出来ない。周りから見たら不自然で歪に思われるかもしれないが、ユミコの中にある感情は本物だった。
ヒロキのことを、好きだったという事実もまた本当だ。でもそれは、過去になった。ヒロキがユミコにしてくれたこと、与えてくれたものは数知れない。大切に想われていたとも、判っている。きっとすぐには……いや、生涯をかけても、忘れることなんて出来はしないだろう。
「……今この家には、ユミコしかいないんだよな」
どくん。ヒロキの声は、暗く沈んでいるように感じられた。祭りの会場の方から、大きな歓声が響いてきた。豊穣を願う神楽が始まったのか。祭りはここからが、一番盛り上がるところだった。
「そうだよ。私しかいない」
どうして、そう応えてしまったのだろうか。実は奥の部屋にお母さんもいるとか。親戚が酔っ払って寝こけているとか。何とでも言い繕うことは出来たのに。ユミコはただ、淡々と真実だけを口にしていた。
「神楽が始まったところだから、一時間くらいは誰も帰ってこないよ。ここにるのは……私と、ヒロキだけ」
そんなこと、何で言ってしまったのか。ユミコは後悔しながらも、押し留めることが出来なかった。ヒロキは、じっとして動かない。ユミコの方を見ているのか、見ていないのか。それすらもはっきりとしなかった。
確かなのは――二人の間に流れている風が、熱を持ち始めているということだ。
「じゃあ……今ここで何かがあったとしても、誰にも判らないんだな」
その通りだ。今すぐにヒロキが手を伸ばしてきて、ユミコの身体に触れたとしても。ユミコには、どうすることも出来なかった。恐らく多分、ヒロキにされるがままになる。中学のあの時、本当ならヒロキに捧げていたはずのものだった。ずっとずっとそれを耐えてきたヒロキに、遅ればせながらやっと返すというだけ。そう思ってしまえば――
「そうだよ。誰にも、判らないよ」
こうなる未来を、かつては望んでいた。それもまた、月緒ユミコという人間の在り方だった。ユミコがこの村で生きていくのなら、ヒロキの隣が良かった。こんなに真面目に、こんなに真剣にユミコのことを好きでいてくれる男性。これが、少しでもヒロキの心を満たせる行為であるのなら。
「ヒロキ――」
ほんの一時間くらい、心を閉ざしていることなんて。難しくも、なんともない。
「じゃあさ、ちゃんと気を付けてないと。お前、彼氏いるんだろ」
ユミコの頭の上に、ぽん、と大きな掌が乗せられた。驚いて起き上がると、ヒロキは笑いながら立ち上がるところだった。まただ。また沢山我慢して。また沢山飲み込んで。そうやって、無理に大丈夫な風を装っている。ヒロキはコロマルの方に歩み寄ると、しゃがみ込んでよしよしと撫で回した。
「ユミコ、俺はさ……自分の好きな人には、幸せになってもらいたいんだ」
ユミコの幸福は、ここにはない。遠い東京の地で、ユミコの帰りを待っている。ヒロキにはそれが判っているからこそ、ユミコを傷付けるような真似は出来なかった。
「ちゃんと幸せになれよ。そうじゃないと、俺が振られた意味がないんだから、さ」
悔しくて、切なくて。どんなにやりきれない気持ちでいっぱいであったとしても。
ヒロキは、ユミコの旅立ちを笑って見送ってやりたかった。
出発の日の朝は、あっという間にやってきた。夏祭りは無事に終了し、またいつもと変わらない日常が戻ってくる。忙しくて、それでいて退屈な繰り返しの日々。きた時と同じ小振りのトランク一つで、ユミコは帰り支度を終えていた。
結局、古い友人たちとはほとんど顔を合わせることはないままだった。今の彼氏について、あまり根掘り葉掘り詮索されると拙いからだ。この件については、もうしばらくの間は極秘事項にしておく必要がある。倍以上年上とか、愛人の約束とか。余計なことは明らかにしておかないに限った。
それでも母親のハツエには、ユミコは結婚まで考えている相手がいると報告しておいた。ハツエにかけた苦労は、あまりにも計り知れない。エイジとの喧嘩で駄目にした夕食の数々を思えば、もったいないお化けの一個師団くらいは軽く編成出来るだろう。
実際に、テルアキがユミコと籍を入れるところまでしてくれるかは判らない。ただ、長い付き合いになるだろうということは確かだし、ユミコ自身は人生をかけるまでの覚悟を持っていた。
それぐらいは、好きになった人がいる。その人には東京で暮らしていく上で、色々なサポートをしてもらっている。間違った内容は伝えていない。ハツエはどの程度まで真実を見抜いていたのかは判らなかったが、笑顔で「良かったね」と言ってくれた。ユミコには、それで充分だった。
後は、すっかり農業馬鹿の朴念仁だとばかり思っていた兄のハジメに、結婚を前提に交際している相手がいると聞かされた。ユミコはあわやのところでまた一つ、夕食を無駄にするところだった。当たり前のように仕事が忙しくて会う機会は少ないが、きちんと逢瀬は重ねているらしい。しかもこの話は、エイジにはまだ内緒だというから驚きだった。
「ユミコが適度に騒いでいてくれてるお陰で、良い目眩ましになってるよ」
そんな礼を述べられても、ユミコは嬉しくもなんともなかった。町のレストランで働いている女性で、家で採れた野菜を仕出ししている時に知り合ったのだそうだ。出会いからして、至極まともではないか。搬入作業で顔を合わせるたびに言葉を交わすようになって、最終的にハジメの方から交際を申し込んだのだという。
「ユミコとどっちが早いかしらね」
「俺の方はそんなに急いでない。まあ、農家になることに抵抗はないそうだよ」
なんだ、しっかりとそういうところまで話しているんじゃないか。ユミコがエイジと血みどろの抗争を繰り広げている裏で、自分ばっかりよろしくやりやがって。猛烈に腹が立ったので、ユミコはその日のハジメの分のおかずを一つぶん取ってやった。こちらの月緒家特製のつけダレを用いたから揚げは、ユミコ謹製です。テルアキさんにも、とっても好評だったんですからね。
大量のお土産の数々は、配送してもらうことにした。住所を書く際に、思わずテルアキの家のものをしたためそうになってユミコは慌てて訂正した。危ない危ない。今のところはまだ、ヨリの家に居候していることになっていたのだった。念のためヨリにメッセージで連絡を取ってみると、「OK」との返信があった。どうせ食べきれないだろうし、半分はヨリの家族に消費してもらおう。
駅まではまた、ヒロキが車で送ってくれる手筈となった。ヒロキとは、何回別れれば気が済むのだろうか。ユミコは物凄く申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、これはヒロキの方からの申し出だということだった。
「こっちにいる間は、ヒロキくんがユミコの守り手なのよ。それくらい、受け入れてあげなさい」
キヨカにそう言われて、ユミコは納得しておくことにした。ヒロキは昔みたいに、何事もなかったかのように月緒家に出入りしていた。月緒家の仕事の手伝いをして、ハツエやハジメと談笑して。コロマルの散歩までしてくれているそうだ。ユミコがいなくなっても、その繋がりを大切にしてくれている。出発の日にやってきたヒロキは、やはり昨日までの――ずっと昔からユミコが知っているヒロキと、何ら変わらなかった。
「荷物これだけか? 向こうで足りないものとかないのか? ちゃんと三食、まともなもの食べてるか? 大学の講義とか、サボったりしてないよな?」
「あああもう、うるさい!」
過干渉なのも相変わらずだった。そろそろユミコのことは、一歩離れた存在として認識してもらいたい。二度も手を出さなかったのだから、もうその気なんて全くないと判断させてもらう。それならこちらだってと、ユミコはヒロキとの未来はあり得ないものとして胸の裡に仕舞い込んでしまった。
――ありがとう、大好きな幼馴染。
大切なユミコの守り手は、キヨカと何やら話し込んでいた。どうやらキヨカも同乗して、町の方まで乗せていってもらいたいらしい。車の中で何を話して良いのか判らなかったので、それは願ったり叶ったりだった。ヒロキには悪いが、今のユミコには二人きりの空気は重すぎて、とてもではないが耐えられそうにはなかった。
「じゃあ、お父さんに挨拶しておいで」
ハツエに言われて、ユミコはこくりとうなずいた。祭りで無理に動き回って、エイジの容体はあまり良くなかった。周りからは、今年のエイジは妙にはしゃぎ過ぎだ、などとも評されていた。
屋敷の一番奥、エイジの部屋に立ち入ることが許されるのは――ハツエとユミコだけだ。その理由を、昔はちゃんと考えたことがなかった。きちんと理解出来たと思えたのは、一人暮らしを始めてからだった。
「お父さん、じゃあ、私、東京に戻るから」
「おお、いっちまえ。せいせいするわ」
灯りを消した部屋の中で、エイジはベッドの上で横になり、壁の方を見つめていた。口を開くたびに喧嘩をして、いつか出ていってやるとことあるごとに罵っていた相手。その小さな背中に向かって、ユミコは意を決して語りかけた。
「お父さん――私、判ってるからね」
気が付いてしまえば、なんてことはなかった。ユミコは家族の中で、誰よりもエイジに愛されている。ここではない場所を夢視て、そこを目指す自由を与えられていた。
「ヒロキのことも、ちゃんと判ってる。ここにだって、幸せはある。ヒロキなら私のことを、必ず幸せにしてくれる。私がどの場所を選んだって、幸せになれる可能性はあったんだ」
ただ闇雲に、無理矢理にあてがわれた訳ではない。あれはユミコの気持ちも、ヒロキの気持ちも判っていた上でのことだった。この土地を出ていくのであれば、それ相応の覚悟が必要になる。ここで得られる全てを捨てて、新しい場所を目指す。エイジには出来なかったそれをユミコは試されて……そして託されていた。
「お父さんとお母さんはすごく仲良しで、お母さんはいつも幸せだって言ってる。そういう生き方があるって、私はちゃんと判っているよ」
この部屋で、エイジとハツエが寄り添う姿をユミコは何度か目撃していた。まるで子供みたいに甘えるエイジと、優しくそれを受け止めるハツエ。見てはいけないもののように感じながらも、ユミコはその光景から目を離せなかった。それはとても尊くて、美しくて。月緒という家の中にある、隠された花園だった。
「でも……私は見つけてしまったから。ここじゃないところに、私の居場所を」
テルアキが、待っている。何も応えないエイジに向かって頭を下げてみせると、ユミコは足早にその場を去った。どこかに提げられた風鈴が、りん、と一つ澄んだ音色を奏でた。エイジは指一本、ピクリとも動かさずに。
ひっそりと、涙を流していた。




