いつかのねがいをこめて(1)
抜けるような青空の下には、遥か彼方にまで続く緑豊かな農場が広がっていた。畦道から見渡すと、様々な種類の野菜が栽培されているのが判って壮観だ。点在するビニールハウスの中では、少しばかり時期のずれた作物が育てられている。これら全てを周辺の農家たちと協力して管理しているのが、ユミコのいる月緒家だった。
月緒家の力なくして、この村では生きていくことは出来なかった。そして同時に、月緒家は村の者たちの協力があるからこそ、これ程までに大規模な農業を営んでいられた。月緒の家とこの村は、一心同体となっている。ユミコは幼少の頃から、ことあるごとに父親にそう言い含められてきた。
「ユミコ、人間がどんなに進化したとしても、食事をなくすことは不可能だ。食事は生命を維持するのに必要な欲求の一つでもあり、安らぎを得るための手段でもあり、娯楽でもある。月緒家は気が遠くなる程の長い間、こうやって人が口にするものを作ってきた」
草むらの上に座り込んで、ユミコはトマトを齧っていた。瑞々しくて、ほんのりとした甘さを感じる。自分の家の畑で採れたトマトが、ユミコは大好きだった。他にも、きゅうりも、ナスも、アスパラガスも。他にみんなが苦手だと敬遠するピーマンだって、好き嫌いなく食べることが出来た。
「人間は、存在している限り農業からは離れられない。例え地上の全てが機械で埋め尽くされたとしても、その中にはきっと野菜を作る工場がある。どんな形であれ、人間は野菜を作って食べる。そうであると、断言出来る」
これはいつの記憶だろうか。ユミコの視線は、座っているにしてもとても低かった。すぐ横に、父親の足が見えている。黒いズボンに、革靴。いつもの父親がすることのない珍しい服装なので、良く覚えていた。
ユミコ自身も、黒い服を着ていた。暑い日なのに、おかしいな、と思った。誰かが泣いていた。お家の中にある、ご先祖様がいると聞かされていた部屋と、同じ匂いがした。屋根の下はお客さんが一杯で、ユミコは父親に連れられてここまで散歩に出てきていた。
「西浦のところのヒロキくんとは、仲良くしているか?」
「うん」
ユミコはヒロキとは許嫁――将来において、ユミコと結婚をする約束がなされていた。この頃のユミコには、『結婚』という言葉がどのような意味を持つのかは、まだ明確には理解出来ていなかった。ただ漠然と、ヒロキと一緒に暮らすようになるのだ、とだけ思っていた。ヒロキは乱暴でもないし、遊んでいて嫌になる相手でもない。「結婚する」と言われれば、「ふーん、そうなのか」くらいのものだった。
父親がその場にしゃがみ込んだ。しゅるしゅるという、衣擦れの音がする。こんなぴっちりとした洋服を身にまとった父親には、違和感しかなかった。ユミコの中にいる父親はいつだって、だらしないくらいにラフな格好でふんぞり返っていて。不機嫌そうにこちらを睨みつけていて。
こんなに――泣きそうな顔なんてしていなかった。
「ヒロキくんなら、ユミコのことを幸せにしてくれる。俺は良かれと思ってそう決めたんだが……」
大きな掌が、ユミコの頭の天辺に乗せられた。ぐしゃぐしゃと、髪の毛がかき混ぜられるみたいに撫でつけられる。首が揺らいで、視界がぐるぐると回った。嫌だけど、とても楽しい。父親にこうされるのが、ユミコは大好きだった。
「お前は、どう感じるのかな」
風が吹き抜けていった。ほんの少しだけ、肌寒さを覚えた。大きな雲が、もくもくと伸びあがっている。夕立の気配だ。ユミコが不安げに父親の方を振り返ると、父親は黙ってうなずいた。
立ち上がって、手を繋いで歩き始める。父親の掌は、節ばっていて指まで太い。働く男の手だ。この土地で、月緒家の使命を果たすため。ユミコの父親は、それを唯一の善であると信じて根を張ってきた。
トマトの残りを頬張りながら、ユミコは父親と並んだ。ユミコにとって父親の姿は――誇りだった。ユミコの父親は、誰にも負けたりなんかしない。強い意志に裏打ちされた、確固たる信念を持って。いつでもこの村を、そして外に広がる世界の在り方にまで想いを馳せている。
そんな月緒の家の一員であることを、その時のユミコは素晴らしいとさえ感じていた。
この駅から、ユミコは旅立っていった。まさかここに、こんなにも早く戻ってくることになろうとは。一年と、半分くらいか。寂れた駅前には、相変わらず『何もない』だけがあった。天気の方も、どんよりとした曇り空。そこに停まっている車まで、寸分違わずに同じ。ここまでくるとユミコにとっては、もはやうんざりという気分だった。
「ユミコ、こっちだ」
ヒロキとは半月くらい前に顔を合わせていた。そうでなくても、間違えようがないくらいに覚えている。再会は、せめて後半年……ユミコが自分のことを決めた後になってからにしたかった。
赤いバンの助手席のドアを開けると、ユミコは素早く中に乗り込んだ。西浦の家の匂いがする。これを懐かしいと感じてしまうくらいには、時間は流れたということか。シートベルトを締めるのと同時に、ヒロキがエンジンをかけた。
「本当はこの前東京にいった時、ユミコに話そうと思ってたんだ」
テルアキとのひと時を邪魔した無粋な電話は、ユミコの兄であるハジメからのものだった。少し前から心臓の調子の悪かった父親が、急に発作を起こして倒れた。万が一のことも考えられるから、出来ることなら一度こちらに戻ってきてほしい。
「春先くらいにも一度倒れていてね。その時は、絶対にユミコには連絡するなって聞かなかったんだ」
気丈なユミコの父親は、東京に出ていったユミコには自分のことを知らせたがらなかった。実際ユミコはこちらで何が起きていたのか、まるで理解の範疇外だ。この前ヒロキが訪ねてきた時だって、父親とは電話越しに一戦交えただけだった。
「仕事の方はハジメさんがなんとか回してくれてる。キヨカさんも手伝ってくれているし、そっちの心配はいらないんだけどさ」
キヨカというのは、ユミコの姉だった。地元に近い大学を卒業した後は、村役場に勤めていた。そこの助役の息子と結婚して、地方行政との血縁による癒着という状態を地でいっている。ただし、それで物事は円滑に進むのだから、殊更に悪いと責め立てられるような性質のものではなかった。
ハジメのこともキヨカのことも、ユミコはあまり快くは思っていなかった。二人のユミコに対する態度は、基本的に『我関せず』だったからだ。
ユミコがヒロキとの婚約を解消しようが、外の大学を受けて出ていくと言い放とうが。基本的に兄も姉も、賛成も反対もしなかった。二人はただ黙々と、月緒の家から与えられた役割をこなしている。ユミコの眼にはそれが、主体性が欠落しているように映った。月緒の家に諾々と従うだけの、お飾りの人形か。結果としてユミコの中には、そんな静かな反抗心が生まれるに至っていた。
「でも、今回ばかりはちょっとな。二日も意識が戻らなかったから、ハジメさんの判断でユミコにも連絡を入れることになった」
元々、ユミコの父親は血圧が高かった。酒も飲むし、血の気も多い。喧嘩の相手は大体がユミコだったが、ひどい時には週に一度は家の中を物が飛び交う始末だった。
ここまで滅茶苦茶な状態が続けば、ユミコを家に置いておく訳にはいかないと判断されるのではないか。ユミコの中には、実はそういった打算的な考えもあった。父親の方も、流石にユミコを相手にしては本気で暴力を振るってくることはしない。そんな化かし合いみたいな騒ぎを繰り返していたのが、ユミコには遠い昔のように思えてきた。
「……その、俺からこの話を聞いたってのは、黙っててほしいんだけどさ」
そう前置きすると、ヒロキはユミコがいなくなった後の月緒家について語り始めた。
最初、ユミコに紹介したアパートが取り壊し予定のものであることは、やはり父親によって了解済みの話だった。住む場所がなくなるとなれば、ユミコは嫌でも一度は実家に顔を出すことになる。ユミコの考えと違ったのは、父親はそこでユミコの説得をするつもりはなかった、ということだった。
「親父さんは、ずっとユミコのことを心配してたんだ」
自分の理解の及ばない離れた土地で、娘がたった一人で暮らしている。ユミコの父親は、毎日ユミコの身を案じていた。月緒家の当主として、やるべきことは毎日山と積まれている。その忙しい合間を縫って、ユミコの父親は一度は自らが東京にいく手配までしようとしていた。
とはいえ、ユミコは己の意志で月緒の家を出ていった。月緒家のしきたりを体現する存在であるユミコの父親は、おいそれとユミコの行いを許し、認めることは出来なかった。
それが春先に一度倒れて、だいぶ精神的にも参ったらしい。ハジメが東京までユミコの様子を見にいくという申し出をした際には、消極的ながらも賛意を示してくれた。そしてそれをヒロキが代行して、七月に訪ねてくる流れとなったのだ。
「このことをユミコに伝えるかどうかは、だいぶ悩んだ」
ユミコが少しでも東京の暮らしに馴染めていない様子なら、ヒロキはユミコを連れ戻すつもりでいた。父親の体調が悪いという事情だって、いくら口止めされていようとも、必要であれば交渉の材料として使わせてもらう。許嫁の関係を、今更取り戻そうなどとは思わない。
ただユミコ自身の将来のためと、自分たちが世話になってきた月緒の家に対する恩義からの行動だった。
「……結局、俺は何も言えなかったんだけどな」
大都会で出会ったユミコは、この村で暮らしていた頃と何も変わらなかった。いやそれよりもむしろ、全身に帯びている存在感が増しているようにすら感じられた。ユミコは自分のいる場所を見つけたのだ。それは田舎にある農村、ヒロキの住む世界などではない。それを察したからこそ、ヒロキはユミコに何も告げずに帰っていった。
「親父さんにその話をしたらさ、笑ってた。久しぶりに電話で声が聞けて嬉しかったって。俺の見合い話も紹介してくれるとか言い出してさ。それは断ったよ」
杜若女子大学の学生食堂で、ユミコは実家に苦情の連絡を入れた。最初に電話に出たのは兄のハジメで、その次に父親に代わってもらった。声だけ聞く父親は相変わらずの偏屈で、ユミコの言うことに耳を貸しもしなかった。最後には「頑固者のクソジジイ」と一声吠えて、ユミコの方から通話を打ち切った覚えがある。
その時にはユミコの父親は既に病床にあって――自室の布団の上から一歩も動けない状態であった、ということだった。
「……どうして?」
「知られたくなかったんだと思う。親父さんは、自分のせいでユミコがこっちに戻ってくることを望んではいなかった。戻ってくるなら、ユミコの意思でそうしてほしかったんだ」
なんというわがままだ。ユミコは眉間にシワを寄せると、ぐっと正面を見据えた。無駄に立派な、道幅の広い一本道が続いている。これも月緒の家が、政治家に働きかけて作らせたものだ。『物』は作られた後、必ずどこかに運ばれる。物流はいつの時代においても重要なインフラであると、ユミコの父親は常々口にしていた。
「ホント、自分勝手なんだから」
とんでもないボロ屋を紹介して、田舎に帰ってくるように仕向けていたくせに。自分が棺桶に片足を突っ込んだら、それを理由にはしてほしくないのだそうだ。ユミコにいてほしいのか、いてほしくないのか、どっちなんだ。
どちらにせよ、ユミコにはここに帰ってくるつもりなどまるでなかった。農業の重要性については、幼い頃から耳にタコが出来るくらい繰り返し聞かされているので、充分に理解はしている。その上で、ユミコはここを自分のいるべき場所とは見なせなかった。
田園地帯をしばらく走ると、赤い屋根の大きな古い建物が見えてきた。この辺りで、あの屋敷のことを知らない者はいなかった。大きい家ということで、通称は『大家』だ。安直な感じはするが、シンプルに特徴を捉えているともいえる。月緒の家の本家、ユミコの実家だった。
ユミコの父親は、病院に入院はせずに自宅療養を選択していた。本当ならば、高度な医療機器がそろっている方が都合が良いに違いない。それでも自宅にいることを選んだのは、月緒の家の家長としてやることがあるからだった。
車の窓から望める見渡す限りの田畑は、全て月緒家が管理しているものだ。当然家の者だけでは手が足りないので、大勢の人たちがその耕作に関わっている。ユミコの父親はその人員の一人一人から畑の現在の状態について事細かに報告を受けて、毎日のように指示を出していた。
ユミコの兄のハジメが数年前からその補佐を務めているが、まだまだ父親には遠く及ばない。農協との交渉もそうだし、作物の管理をコンピュータを使って処理するところもユミコの父親が始めたことだ。追いつこうとすれば、その更に遥か先を走っている。それが昔から、ユミコの父親の仕事ぶりだった。
「コロマル、久しぶり」
車を降りて玄関先に向かう途中で、毛並みのふさふさとした茶色い犬がユミコに纏わりついてきた。優しく頭をひと撫でしてやる。コロマルはおっとりとした顔つきの雑種犬で、ユミコがよく散歩に連れていってやった仲だった。見た目に騙されて知らない人間が近付くと、手ひどく噛みつかれることになる。都会と違って、田舎の犬は基本が番犬だ。ヒロキに「待て」と指示されて、コロマルはしゅんとその場で座り込んだ。
もう戻ることはないと思っていた実家の玄関先は、妙に感慨深いものがあった。つい昨日の夜には、テルアキに向かって入籍の報告がどうのなどと話していたのをユミコは思い出した。
――テルアキさん、どうしているかな。
家の中も、何も変わっていなかった。時間が止まっている。五年位前の写真と見比べても、寸分も違わないこと請け合いだ。間違い探しの映像問題で使われれば、IQレベル最高で間違いなし。正解は、棚に置いてある干支の土鈴が変化している、でした。あれはユミコの母親が、毎年その年の干支に合わせて買って換えている。そんなの、家人でなければ判るはずもなかった。
「ユミコか」
父親の部屋に最後に入ったのはいつだったのか、ユミコは記憶していなかった。ここは仕事で使う大事な部屋であると聞かされていて、子供たちには近寄ることさえも許されていなかった。
それでもユミコだけは、何度か父親に連れられてお邪魔させてもらったのを覚えていた。きらきら光る電灯も、その時に見た。後は、壁に貼られたスクリーン。そうだ。そこに映画を写して、観せてもらったんだ。
「お父さん」
色々な機械が備え付けられた医療用のベッドの上で、むくりとユミコの父親――月緒エイジが起き上がった。その姿を目の当たりにしたユミコの感想は、父親とはこんなに小さかっただろうか、というものだった。




