はなのいろあざやかに(5)
どん、という大きな音が腹の底にまで響いてくる。大きな光の花が、夜空いっぱいに広がった。クラスメイトたちが奇声を発して、携帯のカメラにその画を収めようと無邪気に騒いでいる。そのすぐ近くで一人離れて、トウヤはぼんやりと花火を見上げていた。
チカは高校に入ってから、あまりクラスに馴染めていない様子だった。中学の時、バスケットボールを辞めて荒んでいた時期よりは幾分かはマシだが。それでも、チカがクラスの中で浮いた存在であることに変わりはなかった。
私服の学校ということもあって、チカはいつも長いズボンを履いて登校していた。体育の授業は、場合によっては見学する。中学の頃、ふと意図せずに見てしまったサポーター姿が、トウヤには今でも痛々しく瞼の裏に焼き付いていた。
気丈で明るく振舞っているようでも、チカはどこか本当の自分をさらけ出せていない感じがした。スポーツ自体はまだ好きみたいで、運動部の活動をじっと眺めていることもあった。学校が終わると『翡翠の羽』のアルバイトに直行していて、友達と遊ぶことは極稀だった。
トウヤはずっと、チカのことを見つめてきた。それこそ、小学校の頃からだ。
他人から指摘されると、自分でもちょっと気持ち悪いかな、とは思った。どこにいてもぼんやりとして影の薄いトウヤにとって、チカは眩しい太陽みたいな存在だった。どんな時だって真ん中にいて、その光はどこにだって降り注ぐ。そう、教室の隅っこで小さく縮こまっているトウヤのところにまで。
チカはもう覚えていないだろうが、小学校六年の時にトウヤは軽いいじめに遭っていた。持ち物を隠されたり、ごみ箱に捨てられたりする類のものだ。その日も、大事にしていた筆箱が机の中から消えていて、泣きそうになりながら探していた。
クラスメイトたちは、誰もトウヤを助けようとはしなかった。遠巻きに眺めて、笑ったり、気の毒そうな顔だけして無視したり。トウヤに関わることを避けて、自分には被害が及ばないようにと逃げていた。
トウヤはそれを、責めようなどとは思わなかった。それは、至極当然のことだ。トウヤだって、誰かがそうされていたら同じ反応をする。いじめられるのは、誰だって嫌だ。今のこの嫌がらせも、次の目標が決まるまでの嵐みたいなものだった。
我慢して、じっと耐えていればいつかは終わる。相手が飽きれば、それまでだ。そうなったら、今度はトウヤが傍観者の側に回れば良いことだった。いじめられている誰かに、恨まれる筋合いはない。自分だって、そんなことは考えすらしなかったのだから。
「おい、誰だよこういう陰気なことすんのは!」
太陽が、炸裂したみたいだった。比喩ではなく、トウヤにはチカの全身が光を放っているように感じられた。その手には、トウヤの筆箱が握られている。教室中が小さくざわめいた後で、チカはトウヤの手に筆箱を握らせた。
「心配すんな。あたしは誰の敵にもなんない」
トウヤは初めて、女子のことを格好良いと思った。今までほとんど口をきいたこともないチカは、それだけ告げて颯爽と去っていった。好きになるなという方がおかしい。いや、ファンにならなければ嘘だろう。トウヤはそれから、チカの出ているバスケットボールの試合を欠かさず観戦するようになった。
ボールを追いかけているチカは、躍動感に満ち溢れていた。すらりとした脚が素早く動き、右腕が鋭く閃いたかと思えばボールを手中に収めている。
「下がれ! 早く!」
相手チームの指示は、チカの行動から常にツーテンポは遅かった。雷鳴のように轟くドリブルの音。旋風となったチカを止められる者など、誰もいない。ディフェンスに切り込んで、フェイントでくるりと回って。ゴール下からワンバウンドでパス。仲間が受け取ってすかさずシュート。
「リバウンド!」
やはり、チカの方が早かった。リングに跳ね返ったボール目がけて、高く跳ぶ。指先どころか、掌一つ分は余裕で先にボールをキャッチして。そのまま、空中で再度シュート。
ホイッスルと同時に、トウヤは立ち上がって歓声を送った。素晴らしかった。素敵だった。他のどのプレイヤーよりも、チカは輝いて見えた。チカはきっと、一流のバスケットボールプレイヤーになるに違いない。自分にない才能を見せつけられて、圧倒されて。トウヤはどんどんとチカという存在に心酔していった。
「トウヤ」
突然名前を呼ばれて、トウヤはびくん、と身体を震わせた。花火の轟音の中にあって、その声は何よりもはっきりとトウヤの耳にまで届いた。そんなことがあるのか。慌てて周囲を見回すと、すぐ隣にチカが立っていた。
「きてみた。どうかな」
「え……あ、はい」
チカはあんまり、こういう集まりを好まない。『翡翠の羽』で訊いた時の応え方からして、今日はこないものだとばかり思っていたのに。どぎまぎとして硬直したトウヤの様子に、チカはむぅっと頬を膨らませた。
「何だよ、反応悪いな。久しぶりなんだけどな」
「へ?」
言われるまで、トウヤは全く気が付いていなかった。普段から、そっちには意識を向けないようにしていたせいだ。チカはバスケを辞めた時から、脚を見られるのを極端に嫌がった。手術の跡が、否応なくその残酷な運命を主張してくるからだ。トウヤはチカが深く傷ついたことを、クラスの誰よりも心配していた。
「スカート、なんですね」
「まあ、ちょっと気分が乗ってね」
ひらり、と裾が夜風に舞う。シンプルな、ロングスカートだ。この時期に履くには少しばかり暑苦しさを覚えるだろうが、それでも充分に魅力的だった。花火の光に照らされて機嫌の良さそうなチカの表情に、トウヤはふわふわとした思考のまま見惚れていた。
花火が上がり始める頃には、客足は一段落していた。みんな顔を上に向けているから、店先なんて視界に入っていない。しばらくは余裕があるかな、とケンキチは椅子の上に腰を下ろした。
「バテちゃった?」
「まあ、俺も年だからな」
フミカの方は、まだまだ元気がありそうだった。この後は早めに店じまいをして、二人で飲む約束をしているのだが。これでは余った時間で、ケンキチのオンボロボディをマッサージしてもらう会に変更になりそうだった。
甘えん坊の息子が幼稚園のお泊り会に出かけて、久しぶりの二人だけの夜だというのに。フミカが母親になってからは、ケンキチは自らを父親であろうとして努めてきた。子供は甘えるのが仕事。例えあれこれと喚き散らしたくなるようなことがあったとしても、父親であるケンキチはじっと耐えて我慢するようにしていた。
「これでお酒飲んじゃったら、二人目どころじゃないかな?」
フミカが、テーブルの下でそっとケンキチの手を握ってきた。二人目の子供については、息子が大きくなってきたら、という約束だった。今夜辺りは大事な復帰戦というところだ。むぅ、と咽喉を詰まらせたケンキチの様子に、フミカはくすくすと悪戯っぽく笑った。
「任せてもらっても良いですよ。センパイは優しすぎるからな。そこも好きではあるんですけど」
大体が、フミカが全てにおいて規格外にサイズが小さいのが悪かった。ケンキチはいつでも、壊れ物を扱うように慎重にならなければいけない。そしてほとんどの場合、貪欲なのはフミカの方だった。それはそれで構わないのだが、ケンキチとしては男としての沽券というものもあったりなかったりした、
「言ったな、お前――」
フミカの顔が、花火で鮮やかに染まった。ああ、綺麗だな。ケンキチはまるでいつかのように、そう感じた。そこにあるものを見て、素直にそう思える心。今のケンキチにとって、フミカと息子以上に大切なものなんて何もなかった。
大切だから、離さない。
「……やっぱり大事にする」
掴めないと思っていた幸せが、意図せずケンキチの胸の中に飛び込んできた。抱き締めるのにも抵抗がある程の、ちょっと癖の強い青い鳥。何を考えているのか判らないところもあるが、一つだけははっきりとしている。
「ふふっ、大好きですよ、センパイ」
ひたり、とフミカの身体が寄せられてきた。汗で濡れた肌の感触が、妙に艶めかしい。フミカの方は、やる気満々だった。それなら、ちょっとは体力を温存しておかなければならない。首筋に触れるフミカの髪をくすぐったいと思いながら、ケンキチは夜空に咲く大輪の花を見上げていた。
二階のベランダに椅子とテーブルを運んでくると、それだけでプレミアムシートの出来上がりだった。周囲に高層建築物がないと、急に空が広く感じられる。杜若女子大学のキャンパスもビル街の中にあるし、東京でこんな光景に巡り会えるのはユミコには珍しいことに思えた。
「昔は、ここでこうやって家族で花火を観たんだよ」
蚊取り線香の煙に燻されながら、テルアキはゆったりと団扇で自分をあおいでいた。ユミコの視線に気が付くと、そよそよと風を送ってくれた。ずどん、と大玉が弾ける。光の粒が広がって、地上へと降り注いだ。
最近になって、テルアキはようやく家族のことを話してくれるようになった。大企業に勤めていて、頼り甲斐のあった立派な父親。いつもテルアキとヨシヒコのわがままを聞いてくれた、優しい母親。生意気でいつも喧嘩ばかりしていたけど、心のどこかでは誰よりも大切だと感じていた弟。その全員がそろっていた頃のこの家が、テルアキは大好きだった。
「母がスイカを切ってくれてね、ヨチコと早食い対決とかやって、怒られた。父はそれを見て大笑いしていた。本当に何でもない、馬鹿馬鹿しいだけの日常が――俺にとってはかけがえのないものだった」
歯車が狂いだしたのは、この国の一時的な経済的高揚の節目の到来によってだ。テルアキの父親の会社は大きな損害を被り、経営は破綻寸前となった。重役のポストにいたテルアキの父親は状況の改善を試みようと東奔西走したが、取引先が潰れていくところを黙って見ていることしか出来なかった。一家で首を括る経営者たちの姿に、自らの責任を重ね当てて――ついには、テルアキの父親自身もまたその衝動を抑えきれなくなってしまった。
「父が亡くなった時、母は半狂乱になってね。葬式の手配が大変だった。それで判ったんだ。母にとって、父はそれだけ重要な存在だったんだなって」
二人の子供を抱えて、テルアキの母は途方に暮れた。これから先、どうやって生きていけば良いのか。テルアキの家族は近所付き合いを良くしていたので、多くの人達が支援の手を伸ばしてくれた。会社の元部下たちも、気にかけて訪ねてくれるようになった。中でもテルアキの幼馴染であるミヨコは、連日テルアキの家まで通って家事の手伝いをしてくれた。
「ミヨコは母の死に責任を感じているみたいだけど……俺はそんな風には思わない。むしろそこまでしてくれたミヨコに何も報いることが出来なくて、申し訳ないくらいだ」
ずっと張り詰めていた糸が、何かの拍子に切れてしまったのか。テルアキの母親は、睡眠薬を大量に摂取して自殺した。死体の第一発見者となったミヨコは激しく取り乱し、その後テルアキの家に近付くことはなかった。この家はテルアキの親戚たちの手によって、売却される運びとなった。
「親戚の家では、色々と気を遣ってもらってね。不自由することはなかったんだが、ヨチコの進学費用だけが問題だった」
奨学金を得るのも、簡単な話ではない。親戚たちはそれでも何とかしようとしてくれたが、ヨシヒコ自身がそれを辞退した。大学にいかなくても、生きていくには困らない。それはそうかもしれないが、人生の選択肢は大幅に減少するのは目に見えていた。
「とにかくお金が必要で、大学の知り合いと一緒に投資に手を出したら、これが運良く当たった。後は死に物狂いだ。少しでも儲かりそうな銘柄を買い漁って、一円でも多く配当を得ようとした」
弟のヨシヒコには、まともな人生を歩ませてやりたい。一見出鱈目にも思えるテルアキの株式売買は運の要素もあって成功し、資産はあっという間に数百倍以上に膨れ上がった。これだけあれば、大学の学費ぐらいは簡単に賄ってしまえる。喜び勇んで、テルアキは離れて暮らしているヨシヒコに連絡を取った。
それが――たった数ヶ月後に、ヨシヒコは帰らぬ人となってしまった。
「ショッピングモールの火事でね、結構沢山の人が巻き込まれて、亡くなった。ヨチコは見知らぬ女の子を庇って死んでいたんだそうだ」
二言目には「自分のことを考えろ」と言っていたヨシヒコは。
誰かのために命を投げ出して、死んでしまった。
「俺は何のために生きてきたんだろう。それが本気で判らなくなって、その時から俺は自分の存在意義を見失っていた」
一際大きな尺玉が、夜空を明るく照らし出した。腹の底にまで響く爆音が、住宅街を揺さぶる。人々の歓声が物を言わぬユミコの耳にまで届いて、儚く消えた。
テルアキは、あてもなく様々な土地をさまよい歩いた。自殺を考えたこともあったが、それは踏みとどまった。いや、正確にはそれをする気力すら湧いてこなかった。金だけは手元にあって、食うのには困らない。ただどこまでいっても空虚で、色褪せているだけだった。
最後に覚えているのは……海の見える土地と、一人の女性だった。かつて自分の住んでいた生家が競売に出されているのを知って、テルアキはすぐにそれを購入した。帰らなければならない。あの場所に、家族を連れて戻らなければ。奇妙な使命感に後押しされて、テルアキはこの家に舞い戻ってきた。
「それから俺は、君に会ったんだ。ユミコさん」
映画館の隣の席に座った、若い女子大生。テルアキは何故か、月緒ユミコという女性に魅せられた。失くした過去を埋め合わせるためなのか。あるいは、そこに未来を見出したのか。
いずれにせよ、テルアキはなりふり構わずにユミコとの接点を求めた。お金でも、マンションの部屋でも、何だって良い。それが、テルアキとユミコの関係を繋ぎとめてくれるものならば。
「ユミコさん、俺は君が欲しい。君が傍にいてくれるなら、どんな形でも構わない。友人でも、恋人でも、夫婦でも、愛人でも。例えそれがどんな立場だとしても、俺は受け入れられる」
大事なのは、ユミコの存在だ。それに気付くまでに、どうしてこんな遠回りをしてしまったのだろう。ミヨコに会って、心を乱されて。危うく、全てを台無しにしてしまうところだった。
「テルアキさん、その答えは九月に出すっていう約束ですけど」
ユミコの指が、テルアキと絡み合った。顔を胸板にあてて、そのまま体重を預ける。何度か確かめて、そこが一番落ち着くのだとユミコは自覚していた。テルアキの鼓動が聞こえて、体温が感じられるからだ。テルアキが、そこにいる。
「その約束……今夜だけ、忘れませんか?」
これもルール違反、になるのだろうか。柵を踏み越えたのは、ユミコの方だ。テルアキはちゃんと理性を保っていた。それならノーカウントにしておこう。これはユミコの意志、ユミコの側が望んだことだ。
約束の期限なんて関係ない。たった今、この時のテルアキがユミコは欲しかった。心の中身を全て明け渡して、ユミコのことだけを見てくれているテルアキ。そんなテルアキになら、ユミコは自分の何もかもを許せる気がしていた。
「ユミコさん」
テルアキが顔を近付けてきた。それで良い。こういうのは、理屈ではない。約束だから、とか、時がきたから、とか。そんな理由で愛し合う男女なんて、ビジネスライクで面白くない。
お互いを愛したと、確信出来た瞬間。それがユミコとテルアキにとって、最も大切なその時だった。
デロデロデロデロデロ……
雰囲気をぶち壊すおどろおどろしい音楽が、ユミコとテルアキの間に割って入ってきた。この着信音に設定したのはユミコだが、今日程これを恨みに思ったことはなかった。聞こえない振りをしてやり過ごそうにも、既にテルアキはきょとんとして眼を見開いている。ううう、クソがぁ。
携帯の画面を確認すると、やはり実家だった。なぜ、今、なのか。そこまでしてユミコの自由を奪い去りたいのか。ユミコは火でも吹き出しそうな形相を浮かべて、通話ボタンをタップした。
「何ですか?」
緊急時以外は絶対にかけてくるなと言っておいたはずなのに。これでくだらない内容だったら、着信拒否にして親子の縁を完全に切ってやる。そう思って相手の言葉に耳を傾けて――
「……お父さんが?」
ユミコは真っ青な顔で固まった。その日最大の花火が破裂して、二人を覆う夜空を埋め尽くさんばかりの、無数の光の粒を生み出した。
第8章 はなのいろあざやかに -了-




