ここであなたと(4)
ワインの匂いに酔ったのか。それとも、テルアキとのお喋りが想像していたよりも盛り上がったせいなのか。いつの間にかユミコは、テルアキに自身のプライベートな事情についても話し始めていた。
ユミコの目下の課題は、いかに実家との関わりを最小限に保ったまま次の住処を見つけるか、だ。賃貸住宅の退去勧告は、居住者に対して半年以上前には出されなければならないと決められている。そうはいっても、貸し手にしてみればさっさと取り壊してしまいたいに違いない。しかしユミコが何よりも腹立たしいのは、遠い親戚筋がオーナーであるそのアパートの事情を、実家の連中は知っていたらしいということだった。
隠していた理由は明白だ。家族、特に父親と母親は、未だにユミコの東京での進学に反対している。地元の農家に嫁いで、そのままこちらに残っていてほしい。高校三年生の時には、耳にタコが出来るほどその言葉を繰り返された。今でも思い出すと頭が痛くなってくる。
ユミコの実家は、その地域ではそれなりに大きな専業農家だった。米も作っているし、野菜も沢山育てている。畑は人に貸しても、それでもまだ余るくらいの面積を持っていた。
実家を継ぐのは長男の役割で、それに関しては是も非もなかった。姉は高校を出てすぐに、村役場に勤務している。全員が全員、狭苦しい農村の中でせせこましく働いていた。
跡継ぎでもない兄妹の三人目の進路くらい、自由に決めさせてもらいたかったのだが。父親も母親も、早い段階でユミコの将来を勝手に決め付けていた。
お隣の家には、ユミコと同い年の男の子がいる。ユミコは近隣の国立大学に通った後は、その男の下に嫁ぐこと。これを物心つく前から両家の間で約束していたのだから、たまったものではなかった。
その男――ヒロキはひどい不細工でもないし、性格が悪くて手に負えないということもない。勉強も運動もそつなくこなす、優等生タイプだ。ユミコはヒロキのことを、そこまで忌み嫌ってはいなかった。
ただ、ヒロキは何かにつけてユミコの行動に干渉したがった。「大人になれば、結婚して所帯を持つようになるのだから」……これはいけない。小学校の時分からそんな言葉を聞かされ続けて、ユミコはくらくらと眩暈がしてくる思いだった。
「だから、私はなるべく故郷とか、実家からは離れていたいんです。お正月にも帰らなかったんですよ」
そうしたら、この仕打ちだ。東京で生活を始めるにあたって、両親は渋々ながらもユミコの住むアパートの工面をしてくれた。激しく老朽した佇まいには辟易としたが、それでもユミコのことを少しは認めてくれたのだとばかり思っていた。
その見直した分の気持ちを、是非とも返してほしかった。取り壊しのための退去勧告通知を見て、ユミコは眼が点になった。実家からは勝ち誇ったかのように、「一度こちらに戻ってきなさい」との連絡が寄越されてきた。
これは陰謀だ。実家に顔を出せば、あれやこれやとユミコのことを言いくるめて引き留めようとしてくるに違いない。下手をすればヒロキに強引に手籠めにされた挙句に、限界集落の農家の嫁として一生実家の近くに縛り付けられる羽目になる。ユミコは何としても、実家には戻らない方向で今後のことを模索しなければならなかった。
「でも、いい物件ってなかなか見つからなくて」
女子大学生が一人、それも親という保証人なしで部屋を借りるとなると、どうしても問題のあるものばかりだった。ルームシェアを頼もうにも、ユミコにはそこまで親しくしている友人には心当たりがない。恐らく一番仲が良いと思われるヨリは、実家暮らしだった。
それに、家賃との兼ね合いもある。ユミコの両親は、このままだと大学の学費まで自分で払えなどとも言い出し兼ねない。アルバイトや奨学金で工面するにしても、ユミコに解決出来ることには限界があった。
「今夜はそんな嫌なことを忘れようと思って、映画を観に来て――こうやって見も知らないテルアキさんのお誘いに乗って、お食事をしているという次第です」
ふんす、とユミコは勢い良く息を吐いた。取り繕うのはもう疲れた。テルアキの方も、特に気取らないで話に乗ってくれている。赤の他人の男にやけっぱちな気分でいることを悟られるのは、ややリスキーな行為であるかもしれない。
それでも一度吐き出してしまうと、ユミコにはもう止められなかった。ユミコの実家愚痴攻勢は、怒涛の奔流と化している。テルアキはワインを口にしながら、じっとその言葉に聞き耳を立てていた。
「大変ですね」
「はい。大変なんです」
実家のやり口に、ユミコはもううんざりだった。ユミコを連れ戻すためなら、どんなに汚い手段だって厭わない構えだ。だったらいっそのこと、住む場所を失ったユミコの身に何かが起きてしまえば良いのだ。事がそこにまで至れば、いくらなんでも少しは反省してもらえる可能性もゼロではないだろう。
稚拙な考えであるとは、ユミコ本人も重々承知している。しかしそれでも、ユミコは頭の固い両親に対して一矢報いられるのであれば何でも良かった。
今テルアキと一緒にいるのも、それだった。このままテルアキにどこかに連れ込まれて……なんて事態になるのならば、それでも一向に構わなかった。父親とか母親、それにヒロキ辺りはそれを聞いたらどんな顔をするだろうか。
原因は全部、向こうにある。あのクソ田舎に、どちらにせよ帰らなければならないのだとするのなら。ちょっとぐらい汚れてやってしまった方が、いっそせいせいしそうなぐらいの気分だった。
「じゃあ、ユミコさん。そんなユミコさんの弱みに、付け込まさせてもらっても良いですか?」
茨の蔓に、足元をきつく絡めとられた。そんな感触は、なかったように記憶している。しかしユミコはその時、確かにテルアキの手の中に落ちていた。常識では考えられない申し出に対して、興味ありげに耳を傾けてしまったのはそのせいだ。
その夜は何事もなく別れて、翌日ユミコは改めてテルアキと待ち合わせをした。開けてはいけない扉だったのかもしれない。ただ仮に、そうだと判っていたのだとしても。ユミコは前に踏み出す自身の足を、止めることは出来なかった。
食材を買い込んでマンションに帰ると、テルアキはリビングのソファに座って新聞を読んでいた。今日の『仕事』はもう終わったのだろう。いつもならば、午後三時を回ったくらいにはさっさと自宅の方に帰ってしまうのが常だった。
テルアキが寝泊まりしてる『本宅』の所在については、ユミコは何も知らされていなかった。特に訊きたいとも思わないし、必要ならきっとテルアキの方から話してくれる。今はそれよりも、もっと基本的な部分からお互いの理解を深めていくべきだ。
「お待たせしました。すぐに準備を始めます」
「ああ、うん。そんなに急がなくても良いよ」
出がけに米は炊いておいたので、後は仕上げをおこなうのみだった。テルアキのオーダーがそこまで面倒な料理ではなくて、ユミコは内心ほっとした。一年以上自炊生活をしていたとはいえ、自分の作るモノの味にそこまで自信がある訳でもない。それに以前までは、食費に回せるお金には限度があった。ユミコの一番の得意料理は、冷蔵庫の残り物を鍋の中で適当に炒めてカレー粉をまぶした、無名の何かだった。
テルアキは再び新聞に目を落とした。テレビも点けないで、部屋の中はしんと静まり返っている。こんな状態で、ずっとユミコの帰りを待っていたのだろうか。そう考えると、ユミコの胸の裡に奇妙な寂しさが去来した。
以前聞いた話が本当であるのなら、テルアキは独身で自宅には他に誰も住んでいないとのことだった。では、これまでもずっとたった一人でこのマンションと、その家との間を往復してきたのだろうか。食事も、その他の時間の全てにおいても。言葉を交わす相手を、誰一人持たなかったということを意味したりはしないのか。
「テルアキさん?」
「何だい?」
「お仕事は順調ですか?」
「ん、まあまあかな。少なくともユミコさんを養っていく分には困らないから、欲しいものがあるなら遠慮なく言ってみてくれ」
どんな内容でも良い。ユミコは、テルアキと話をしていたかった。今ここには、ユミコがいる。テルアキが一緒にいる間は、うるさいくらいに声をかけておこう。
そうすることが、きっとテルアキの望む二人の関係を育んでいくに違いない。少なくともこの部屋に厄介になっている以上は、ユミコはテルアキのために何かをしてあげたいと願っていた。
フライパンの上にサラダ油を広げて、そこに溶いた卵を流し込む。オムライスなんて、随分久しぶりに作る気がした。普段高いものばかり食べているのだから、庶民の味が恋しくなったのではないか。ヨリの推理には、ユミコも全面的に同意だった。
しかも要求されたのは半熟のふわとろではなくて、古い固焼きのタイプだ。かけるのもデミグラスベースのソースの代わりに、シンプルなケチャップのみ。ハートとかメッセージでも描くのかと尋ねたら、大声で笑われてしまった。いやだって普通、そういうことを期待されているとか考えるだろう。男の夢とかロマン、とか言って。
チキンライスの方にも注文が付いた。グリンピースを入れてほしいとのことだ。それもまた、年代物のレシピであるように思える。とりあえずユミコに出来る最低限の工夫は、先にケチャップを熱して水分を飛ばしてからご飯を入れることぐらいだった。こうしておけば、チキンライスがべたつかない。後はもう、家庭科の教科書にでも記載されているみたいな単純な調理工程だった。
「テルアキさんは、普段はどんなものを食べているんですか?」
「出来合いのものが多いかな。最近はコンビニの品揃えが良くてね。味も悪くない」
そう言われてしまうと、ユミコ自身もコンビニの惣菜には大変お世話になっていた。数ヶ月前には、三食みんなコンビニ飯という日もざらだった。インスタント食品の銘柄やおにぎりの具材について、異常に詳しかった時期がある。むしろテルアキのマンションに越してきてから、ユミコは積極的にキッチンに立つ回数が増えていた。
「私もそんなんだったんですけどね。最近は自分で作っちゃう方が多いです」
「へぇ、どういう心境の変化だい?」
「そうですねぇ、多分、この部屋のせいですね」
要因の一つは、間違いなくユミコが今向かっているアイランドキッチンだった。広い大理石の調理台スペースに、ぴかぴかのIHクッキングヒーター。恐らくは買ってから一度も使われていない、新品同様の器具の数々。こういったものが目の前にあると、つい触ってみたくなる。これを放置しておくのは、あまりにももったいない行為だった。
「テルアキさんも料理してみませんか? 思いの他楽しいですよ」
「じゃあ、そのうちに、かな。失敗したものをユミコさんに食べさせる訳にもいかないし」
「いーえ、ダメです。人間というのは練習して、失敗して上達するんですよ。ダメだったものでもきちんと食べて、それが美味しくなっていくことが喜びにつながるんです」
「ユミコさんは厳しい先生だ」
そうこうしている内に、オムライスが出来上がった。付け合わせにパセリとか、ユミコの知らない時代のものだった。大きく膨らんだ黄色い卵焼きの上に、真っ赤なケチャップが映える。我ながらなかなかのものだと、ユミコは自画自賛した。
「美味しくなるおまじないとかって、要ります?」
「……ユミコさんは、それで俺が喜ぶとか思ってるんだ」
「テルアキさんに限らず、男の人っててっきりそういうのが好きなものなのかと」
テレビとかで見るメイド喫茶では、漏れなくお客さんのところまで運んだ後で謎の儀式をおこなっていた。みんなあれを目的にして来店してくるような、大人気のサービスではないのか。だったらなんであんなユミコ以上の調理音痴が作ったみたいな残骸料理が、とんでもない高値をつけてまで売れているのか。ユミコには意味不明な世界だった。
「では、冷めないうちにお召し上がりください。いただきます」
「いただきます」
自分以外の誰かのために食事を準備するなんて、初めてのことだった。お昼のスパゲッティについては、ユミコ自身が食べるついでであったのでノーカウントにしておく。テルアキとほぼ同時に、ユミコは銀のスプーンをオムライスの横から突き入れた。
チキンライスは想定通りに程よくしっとりとしていた。中身の方も問題なし。グリンピースが一粒、ごろりと転がり出てくる。一度軽く湯がいておいたので、艶々としてまるで宝石の玉のようだ。これで味が良いのなら、子供だって大喜びするだろうに。見た目と味と栄養、三者の調和を取ることは誠に難しいと言わざるを得ない。
口に運んでいざ食べてみると……まあ、こんなものだろう。一流の環境で、一流の機材を使って。そこそこの材料を用いて、平均以下の能力を持つユミコが調理した結果だと思えば大成功の部類だ。とりあえずテルアキに味わってもらっても、問題がないレベルには達していた。火もちゃんと通っている。これなら翌朝になって二人揃って食中毒、なんて惨劇を迎えることはなさそうだった。
「どうですか、テルアキさん。私の今の実力?」
いつものテルアキなら、汚物でも出されない限り涼しい笑顔で応対してくれるだろう。少なくともこれが原因で幻滅される、という理由にはならない自信がある。お世話になっている恩義の、一ミリくらいは返せたのではないか。
ユミコがテルアキの感想を求めて顔を上げると――
「テルアキ、さん?」
かちゃり、とスプーンが置かれる音がした。テルアキは、オムライスを見詰めたままぴくりとも動かない。焼けた卵の皮が破けて、中身が白い皿の上に溢れていた。黄色と赤と、緑と、うっすらとしたオレンジ。その色彩に目を落としたまま、テルアキは何も言葉にしなかった。
「あの、ひょっとして何かお気に召しませんでしたでしょうか?」
塩加減だろうか。それとも、テルアキの求めていたオムライスとは根本的に異なる部分があったのか。ユミコは急に不安で一杯になってきた。
ここまで問題なく、安定した毎日が続けられてきたのに。こんなことで、終わってしまうかもしれないなんて。ユミコは、きゅうっと、胸の奥が締め付けられる感触がした。
――嫌だ。
罠でも。怪しげな約束でも。正体の判らない相手でも、何でも良い。
たった六ヶ月間の、一時的な退避なんかじゃない。ヨリに忠告されるまでもなく、自分のしていることが愚かだなんて良く理解出来ている。それでも。
ユミコはその時この場所から――テルアキのマンションから、離れたくないと思ってしまった。
「……ごめん、違うんだ、ユミコさん」
テルアキは苦しげな表情でそう一言断ってから、両掌で顔を覆った。微かに、嗚咽の声が漏れてくる。泣いている、とユミコが気が付いた時には、テルアキの指の隙間から涙がこぼれ落ちていた。
「ありがとう、ユミコさん。ありがとう」
譫言みたいに繰り返されるテルアキの感謝の言葉を、ユミコはまるで遠くの世界の出来事のように聞いていた。