はなのいろあざやかに(4)
遠くで、花火の雷が上がる音が聞こえた。今夜は、花火大会だったか。お弁当を作って、みんなで観にいこうという約束をしていた。
それなのに、ミヨコはベッドの上から動けなかった。カーテンを全て閉じて、電灯も消して。暗闇の中で、たった独りシーツに包まって縮こまっていた。
ミツヒロは子供たちに、ミヨコは体の調子が悪いみたいだと説明してくれた。顔を腫らして、泣きながら帰宅したミヨコの様子から、何もかもを察したのだろう。ミツヒロはミヨコのことを、ただそっとしておいてくれていた。
あれから、ミヨコはずっと部屋の中に閉じこもっていた。洗濯も、炊事も、みんな家族が分担してやってくれている。この前は長男が夕食を運んできてくれた。
「母さん、元気出して」
その言葉に、ミヨコは強く打ちひしがれた。
こんなにも愛してくれる家族たちがいるのに、ミヨコは果たして何をしていたのだろうか。いつまでも逃げて。いつまでも先送りにして。気がついたら、取り返しのつかないところにまで行き着いてしまった。
『貴女みたいな裏切者は、二度とこの家には近付かないで!』
ユミコの罵声が、ずっと耳の奥で鳴り響いていた。今のテルアキを支えている、若い愛人。その言葉には、力が感じられた。テルアキのことを、最後まで決して見捨てないという、確固たる意志だ。
ミヨコは、テルアキを裏切った。その思い出を、過去と共に切り捨てた。忘れることはなくても、取り戻そうとはしなかった。
罰は与えられた。これが、ミヨコの末路だ。好きな人の近くにいられるというだけでその中に入り込んで、家族の一人を死なせてしまったことへの――罰。
「ミヨコ、入るよ」
ノックがして、ドアが開いた。ミツヒロが入ってくる気配がする。その後ろで、子供たちがちらちらとミヨコの方を窺っていた。
みんな、心配してくれている。その優しさが、ミヨコには棘となって身体中を突き刺してくるように感じられた。
「まだ、気持ちは落ち着かないかな」
ミツヒロはミヨコの隣にそっと腰を下ろした。無理に触れようとも、顔を覗き込もうともしない。あくまで静かに、柔らかく髪を撫でるみたいな声をかけてくる。病院のベッドで、グルコースの点滴を見下ろしていた時と同じだ。ミツヒロは、ミヨコにかけられた呪いを解くためにそこにいてくれる。
ミヨコは、ぽろぽろと熱い涙が零れ出すのを感じた。
「ごめんなさい、あなた……私……」
テルアキのことが、好きだった。どんなことをしてでも、傍にいたいと願うくらいに。でもそれは、不幸な結果を招いただけだった。
壊してしまって、怖くなって逃げ出した。無理にでも戻って、罪を償おうとするべきだった。ミヨコに出来ることなら、何だってしなければならなかった。
テルアキはヨシヒコが亡くなった後に一度失踪し、十年以上の歳月を不毛な放浪で費やした。その間に、ミヨコはミツヒロと出会い、愛し合って、家族を作っていた。ユミコの言っていた通りだ。
これでどの口が、「テルアキのため」などと発せられるのか。
「言ったはずだよ、君の罪は、僕も一緒に背負うって」
ぐい、っと乱暴に肩を抱き寄せられた。ミツヒロの胸元に、顔が埋められる。細いのに、妙に逞しい。こうしていると、不思議にミヨコは落ち着いてきた。守られている、という感じがする。
この厚い胸板に幾度となく抱きすくめられて、ミヨコは二人の子供を産んだ。愛情を覚えた。母性に気が付いた。妻になって、母親になったと思うことが出来た。
今のミヨコはもう、どうしようもないくらいに――この男の妻であり、二児の母親であった。
「僕はミヨコさんの意思を無視して、無理矢理に奪った悪い男だ。僕を責めてくれて良い」
ミツヒロがいなければ、ミヨコは綺麗なままでテルアキと再会出来ただろうか。傷ついたテルアキに寄り添って、関係をやり直して。二人で、昔望んでいた家族を持つことが適っただろうか。
「いいえ。これはどこまでいっても、私一人の罪なんです」
そんなことは、有り得なかった。ミツヒロがいなければ、ミヨコはあの病院でぼろぼろになるまで働き続けていただけだ。テルアキが戻ってきたと知っても、そこにいるのはくたびれた中年の女性が一人。ユミコがミヨコの前に立ちはだかって、「ふざけるな」と怒鳴って平手打ちを繰り出す未来には何ら変化は見られなかった。
「ミヨコ……」
「ごめんなさい。もう少しだけ、一人にしてください。花火大会には、みんなでいきましょう。お弁当は作れないけど、途中で美味しいものを沢山買っていきましょうね」
部屋の入口に向かって、ミヨコは気丈にそう声を張り上げた。子供たちが、そろり、と顔を突き出してくる。二人とも、ミヨコの大切な子供たちだ。罪の子、なんかじゃない。ちゃんと愛し合って、その結果として産まれてきた。
「ママ」
「うん」
下の子は、まだまだ甘え盛りだった。ひどく寂しい思いをさせてしまった。ミヨコには、こんなことで落ち込んでいる暇なんてなかったのだ。
愛を与えよう。テルアキには出来なかったそれを、夫と、子供たちに精一杯。テルアキには、ユミコがいてくれる。テルアキを愛することを、使命のように感じてくれている心強い女性が。ミヨコはもう、テルアキに対して何一つ役割を負っていない。
ミヨコの生きる場所は、ここにしかなかった。
町内会の放送で、祭り囃子が鳴り響いている。日暮れにはまだ時間がある中、商店街の縁日は大勢の客で賑わっていた。
「ユミコさん、何か欲しいものとかはありますか?」
「そうですね、せっかくですから何か食べていきましょうか」
ユミコは薄紅の花模様をあしらった浴衣姿だ。隣を歩くテルアキは紺の甚平で、これが怖い程に似合っている。二人で並んで歩いていると、外国人の観光客らしき女性から写真撮影の許可を求められた。寄り添って写された画像の中で、ユミコとテルアキははにかみながら微笑んでいた。
この辺りは、花火鑑賞の穴場という扱いになっている。会場からは少々距離はあるが、座って空を眺められる芝生や公園がふんだんにある。それを見越して出店もあるし、神社からは離れているのにちょっとしたお祭り状態だった。
『翡翠の羽』の屋台も混雑が予想されたが、ケンキチはテルアキやユミコ、チカを早々に開放してしまった。大勢の客が来たらどうなるのかというユミコの心配は、フミカの働きを見たら一瞬で吹っ飛んだ。小さな体で、てきぱきとオーダーをこなしていく。普段は店に出ていないだけで、『翡翠の羽』の経営はフミカの豪腕によって支えられているのだそうだ。人は色んな意味で、見かけによらないものだ。ユミコはそれを、改めて思い知らされた気分だった。
「ああ、テルアキさん、アレが良いです」
ユミコが指差す先を見て、テルアキは首を傾げた。あまり賑わっていない屋台の上には、大量の緑色の物体が積み上げられていた。屋台メシのランキングがあるのなら、定番ではあってもまず上位にくることはない代物だ。ユミコが欲しがったのは、割り箸が刺されただけの冷やしきゅうりだった。
「あれ、ですか?」
「そうです」
自信満々に頷かれて、テルアキは半信半疑ながらきゅうりを二本購入した。大きくて、艶々としている。
ユミコはその天辺に歯を立てると、一気に齧り付いた。
「うん、新鮮。これ、結構良いきゅうりですね」
ユミコは元々、月緒家という大きな農家の娘だ。野菜については一家言持っていた。こういう場所で売られている野菜や果物は、一度冷凍されていて鮮度が怪しいものが多い。その中にあって、このきゅうりはユミコの目に留まった逸品であった。
「メロンとか、パイナップルもあるみたいですけど」
「やっぱり夏と言えばきゅうりですよ。テルアキさんも、食べてみれば判ります」
浴衣姿の女子が、ぼりぼりと美味そうにきゅうりを平らげている。その光景に触発されたのか、一時的にきゅうりの屋台に人が集まってきた。宣伝効果も抜群だ。テルアキは「ふむ」と一つ鼻を鳴らしてからユミコに倣ってきゅうりを咀嚼してみた。
確かに瑞々しくて、歯ごたえも良い。変に甘くないので、水分補給にはこの方が適しているのかもしれなかった。テルアキがきゅうりを食べている様子を、ユミコが楽しそうに見つめている。自分が好きなものもを認めてもらえるのは、確かに嬉しいだろう。テルアキは残った割り箸をゴミ袋に放ると、「ごちそうさまでした」と店の主人に声をかけた。
「ユミコさんの家でも、きゅうりは作ってたんですか?」
「そりゃあもう。他にも色々やってましたよ」
月緒家は村の中でも最大の農地面積を誇る、大きな家だった。この時期は夏野菜だけでなくて、スイカやメロンも大量に収穫していた。珍しい銘柄の耕作にも挑戦して、常に利益を上げることを追求している。村どころかその近隣で、ユミコの家に逆らえる農家など一つとして存在しなかった。
「テルアキさんがうちの実家にきたら、本当に美味しい野菜というものを食べさせてあげます」
「それは楽しみですが、いつになることやら」
ユミコは実家とそこにいる家族のことを、快く思っていなかった。東京で一人暮らしを始めたのも、家出同然に飛び出してきたようなものだ。特に父親とは折り合いが悪く、それを話題にするだけでユミコの機嫌はがくんと悪くなった。
「そんなに遠い未来じゃないでしょう。私だって、入籍の報告くらいはするつもりですから」
とん、と撥ねるみたいにしてユミコは一歩前に踏み出した。くるりと振り返って、朗らかに笑う。屋台の灯りが、その後ろで淡く滲んだ、赤に、黄色。揺らめく光の前で、ユミコの姿はまるで水を多く含んだ水彩画に似ていた。
「まあテルアキさんが、あくまで『愛人』という関係にこだわるなら、話は別ですが」
マンションの一室に住まわせている、若い女性。テルアキはどんな形でも良いから、ユミコを自分の近くに置いておきたかった。弱みに付け込んで、『飼う』ことに成功した。美しい蝶は、無遠慮に愛でるにはあまりにも――愛おしかった。
その感情には、少し前から名前が与えられていた。四十を超えてから、そんな気持ちになるなんて。しかしテルアキには、他に自分の状態を説明出来る言葉を知らなかった。
恋に――落ちた。
中年のおじさんが、簡単に口にして良い科白ではない。そんなことをしたって、気持ち悪がられるだけだ。ただ静かに、穏やかにやり過ごすしかない。そうしようと努力してきたのに、ユミコはあっさりとその壁を突き破ってきた。
「そういう約束、にしてありますからね」
九月になれば、その日はやってくる。ユミコは自分のいる場所を、己の意志で選択することになっていた。テルアキの下を離れて、一人で生きる道を選ぶのか。
「テルアキさんは、まだ私が欲しいですか?」
テルアキの寵愛を受ける――愛人になるのか。
この約定は、ユミコの側にその意向がある限り有効だった。テルアキには何の権利もない。ユミコが悪意を持って行動したとするならば、テルアキの財産をふんだくるだけふんだくって、雲隠れすることだって出来た。
何しろ今もこうして、テルアキの心を乱してくる。気を引いて、惑わせて。明日の朝には、テルアキの現金を持って何処かへと高跳びしてしまう可能性だってない訳ではなかった。
「もちろんですよ」
ただ、それでもテルアキは一向に構わなかった。この数ヶ月で、ユミコはテルアキに沢山のものを与えてくれた。思い出させてくれた。
いなくなってしまった家族。ミヨコへの隠れた想い。そして……誰かを好きになるということ。
十年以上という長い年月をかけて、テルアキの中で凍り付いていたものたちが、ゆっくりと息を吹き返していった。ユミコという女性に関わるたびに、テルアキは自分を取り戻していく。この約束は、実に不平等だった。ユミコがテルアキにしてくれたことは、金額なんかではとても表せない。
「俺は、ユミコさんが欲しいです。ユミコさんにいてほしい」
必要なら、何を捧げたって良い。テルアキは手を伸ばすと、ユミコの掌を握った。柔らかくて、温かくて。テルアキの心に、凪のような平穏をもたらしてくれる。
――ふふっ
テルアキの横を、誰かが駆け抜けていった。金魚の柄の浴衣。懐かしさと共に、胸の奥が締め付けられた。
『金魚すくい、やろうよ。それで、テルアキの家の水槽に入れるの』
『それはダメだ。あそこの熱帯魚、父さんがすっごく大事にしてるんだから』
『えー、つまんない』
『じゃあ、俺が飼うよ。金魚くらいならなんとかなるからさ。ミヨコ、金魚すくいやりたいんだろ?』
三人の子供たちは、口々に騒ぎながら雑踏の奥に消えていった。かつて、ここで見た光景。聞いた言葉。テルアキは呆然とその背中を目で追いかけて……
ユミコと繋いだ手に、力を込めた。
「どうかしましたか?」
「うん。また一つ、思い出した気がする」
あの時、テルアキは初めてケンキチに嫉妬した。水槽なんて、簡単に準備出来るものなのに。すぐにそれを口に出来たケンキチが、羨ましかった。
本当に好きなら、そのぐらい当たり前だったんだ。
どんな時でも、本当に大切なものなら離してしまってはいけない。失くしてから、きっと後悔する。
「ユミコさん、俺は貴女のことを……愛しています」
言葉なんて安いものだ。これでは、何一つ伝わっていない気がする。
お金とか、愛人とか。
そんなことは、どうでも良かった。
そこに、月緒ユミコという女性がいてくれること。
それだけが、今のテルアキが絶対に手にしていなければならない唯一の事柄だった。




