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愛人契約はじめました  作者: NES
第8章 はなのいろあざやかに
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はなのいろあざやかに(3)

 初めてのデートは、本屋巡りという何とも色気のないものだった。丁度業務で使用する技術に関する資料が、あれこれと必要になっていたところだ。インターネットに転がっている情報は、玉石混交があまりにもひどくて取捨選択に手間がかかりすぎる。一冊きちんとした専門書を購入して、それをリファレンスとして進めていくのが安全なやり方だろう。

 ……というのがフミカの言だった。


 しかし、だ。それを『デート』と呼称するのはどうなのか。小難しい専門書がずらりと並んだ本棚を眺めて、あーでもないこーでもないと議論を戦わせて。しまいにはお互いの仕事の手際から、今回の請け元に対する悪口大会に発展した。世の中の男女が喫茶店とかでキャッキャウフフしながら話している内容は、絶対にこれではないとケンキチには断言出来た。


「男女が一緒にお出かけすれば、デートでしょう」


 フミカの理屈によれば、そういうことなのだそうだ。それならば納得するしかない。ずっしりと分厚い技術書を領収書を切って購入すると、ケンキチはもう何もかもがどうでも良くなってきた。フミカは仕事をこなしていく上での、大事な相棒パートナーだ。『デート』とかいう言葉に必要以上の魅力を感じてしまったケンキチの方に、問題があるに違いない。フミカとの恋愛関係のロジックは、仕様書の頭からレビューやり直しだ。


「センパイは、私のことをあまり子供扱いしませんよね?」

「あ? なんか虫の良い話か?」


 そろそろ二十七歳も後半だろうに、この相方は一体何を言い出すのやら。フミカは入社当時から若手に負けない技術力を持っているし、ケンキチにしてみればほぼ対等の相手だった。地頭が良いから、おかしなことをすれば速攻で反撃が返ってくる。大学院卒は伊達ではないし、見た目に惑わされなければ中身は立派な二十代後半の女性だった。


「そういう扱いをしてほしかった、ってことなら、今からでもなんとかするが?」

「逆ですよ。今まで私と付き合いたいって言ってきた男性は、軒並みロリコンだったんで」


 それはまあ、ある意味仕方のないことではなかろうか。フミカの外見は、恐らくそういう趣味の男性にはどストライクだった。アンチエイジングの申し子、とでも表現するべきか。これで性格の方も大人しくて一途なら、今頃無理矢理ハイエースにでも乗せられて誘拐くらいはされている。しかし当の本人の方はそういった手合いを、蛇蝎だかつのごとくみ嫌っていた。

 その影響もあってか、フミカは身の回りに可愛いものとかは意識して置こうとしなかった。少女趣味とか言われると、虫酸むしずが走るのだそうだ。だから服装も全体的に地味だし、口調も男勝りになる。現在のこのフミカの状態は、無理をしているとまではいかなくても、虚勢を張り続けてきた結果ではあった。


「デートって言われて、何を期待しました?」

「そうだなぁ。俺はそういう経験がないから、イマイチ具体的なイメージが湧かないかな」


 経験不足プラス、相手がフミカだ。これは難問だろう。大学の時は、周囲で付き合っているだのなんだのという話はよく耳にした。ただケンキチにとってそれは、自分にはまるで関係のないものとして全く取り合わなかった。ミヨコのことがくすぶっていた、という理由もある。会社に入ってからは忙しさが半端ではなくて、恋愛なんて考える暇すらなかった。


「センパイって、話してみると結構紳士だし、モテないとも思えないんですけどね。顔が怖いんじゃないですか?」

「お前な」


 フミカは普段通り、遠慮なしの言いたい放題だった。オープンカフェで座って休憩している際にも、ケンキチはフミカの過去の男性遍歴について知りたくもない情報を聞かされる羽目になった。それらはおよそ輝かしいとは言えない、聞くにえないものばかりだ。フミカの表現方法の問題もあって、ケンキチは段々と頭が痛くなってきた。


「もういいだろ。面白くもない」


 一体何が楽しくて、フミカの昔の男の話なんかに耳を傾けていなければならないのか。それは果たして、今のケンキチにとって必要なものなのか? ――答えは「ノー」だ。いくら誰が相手であろうと上手くいかなかった、とかいう内容であったとしてもだ。フミカと付き合っていた男たちの話題なんて、ケンキチにしてみれば不愉快以外の何ものでもなかった。胸のうちがざわざわとして、どんどんとストレスが溜まっていく。


「あら、結構大事なことなんですけど?」


 フミカはしれっとしてケンキチの苦情を受け流した。こういうところも、いつもと同じだった。ケンキチの意見なんか、求められてはいない。フミカは大体が、何でも一人で決めて何でもこなしてしまうタイプの人間だった。

 今だって、フミカが話したいから話している。こういうところに嫌気がさされて別れた……という経験があると、今まさに口にしているではないか。判ってて直す気がないのか。それは『確信犯』という言い方で良いのだったか。


 盛大に溜め息をいて、ケンキチはフミカから視線をらした。どうしてこんなのを――好きになってしまったのか。ごうが深いな、とケンキチは内心で笑みをこぼした。自分がそういうかたよった性癖の持ち主なのかもしれないと、深く悩んでしまったこともあるというのに。フミカは結局、こういう女なのだ。


「――ちゃんと聞いてますか、センパイ?」


 突然、フミカが対面から隣の席に移ってきた。ケンキチが驚く間もなく、ぐいっと顔を近付けてくる。ここは休日の、昼日中ひるひなかのオープンカフェだ。当たり前のように人通りがある。そのど真ん前で、フミカはケンキチの頬を両(てのひら)でがっちりとホールドした。


「な、お前……」

「そんな悲しい失恋人生を歩んできた私が、今はとても幸せだって言ってるんです」


 ファーストキスは、無理矢理奪われた。ぎこちなくて、それでいて情熱的で、甘い。オフィスコーヒーよりもずっと豊潤ほうじゅんで、やはり、ほんの少しだけ苦かった。


「――私、モテるんですからね。ちゃんと喜んでくださいよ?」


 『マニアに』という枕詞プレフィクスが抜け落ちている。それならケンキチも、立派なマニアの仲間入りだった。こんなのを相手にして、ケンキチには人生レベルで勝てる気がしなかった。


「……嬉しいよ」


 押し込まれた感は満載だが、それで充分だった。フミカがいつになく照れて、赤面してうつむいていた。そういえばデートに誘われた時もこんなだったなと、ケンキチは思い出した。どこまでが作られたフミカで、どこからが素のフミカなのか。それはこれから時間をかけて知っていくことになるのか。


 仕事の相棒は、人生の相棒に格上げされる見込みとなった。長い解析になりそうだ。とりあえずはこの可愛い彼女を大事にしようと、ケンキチはフミカの背中にぎこちなく手を回した。




「トウヤはあたしの、ファンなんだよ」


 チカにそう紹介されると、トウヤはまたぺこぺこと頭を下げた。腰が低い、というよりも大人に囲まれて緊張しているのか。チカと同じクラスだというから、これでも一応は高校生男子だ。第二次性徴も始まっていない感じの、中性的な印象を持つ少年だった。


「ファン?」


 日常生活の中では、なかなかに聞き慣れない言葉だ。そういうのは普通、テレビの向こうの相手とかに使うものではなかろうか。ユミコが首を傾げるのを見て、チカはふふんと胸を張ってみせた。


「中学の途中までは、あたしはバスケ部のエースだったからね」

「そうです。三隅さんはすごく格好良くて、えっと、僕は、その頃からのファン、なんです」


 へぇ、とユミコは感心して、眼を見開いたまま絶句してしまった。何にそこまで、と訊かれれば――自分から「ファン」とか本人の目の前で公言してしまう、トウヤの神経の図太さに対してだった。

 それならいっそのこと、「好きだ」と告白してしまった方がまだ恥ずかしくないのではなかろうか。「ファン」て。試合の時に応援に駆けつけて、声援を送ったりするのか。ああでも、スポーツ選手にはファンはつきものなのかもしれない。あまり運動が得意そうに見えないトウヤにとっては、チカは確かにあこがれの存在アイドルだと言えそうだった。


「三隅さんは、すごい人だと思います。足のせいで引退が決まって、みんな離れていっちゃったけど。僕はまだ、三隅さんならなんとかしてくれるって信じています」


 まあ、「好き」なんだろうね。トウヤは頬を真っ赤にして、話しながらもちらちらとチカの様子をうかがっていた。一途なことで何よりだ。フミカの方に視線を向けると、肩を震わせて噴き出すのをこらえている。ここにはひどい大人しかいない。ユミコも自分が上手く笑顔を作れているかどうか、今一つ自信が持てなかった。


「あの、三隅さん。今夜の花火大会、クラスのみんなでいこうって話、どうされますか?」


 どうやら、それが本題であったようだ。トウヤは気を付けして、直立不動の姿勢でそう質問した。体育会系というか、ここまでくると軍隊だ。チカは腕を組むと、うーんとうなって考え込んだ。


「ここのバイトは夕方までだから、いけないことはない、とは思うよ」

「……そうですか」


 曖昧あいまいな返答だったが、トウヤはそれでチカの言わんとすることを察したらしい。そこは「ファン」を自称するだけのことはある。トウヤの両肩が、くにゃり、と力なく垂れ下がって落ちた。


「では、いらっしゃる場合は連絡をください」

「うん、ありがとう」


 きた時よりも更にパワーダウンして、トウヤはすごすごと店の外に出ていった。ドアベルの音に続いて、「少年、頑張れよ!」とケンキチの声が聞こえてきた。ケンキチもフミカも、この件に関しては既に了解済みなのか。初めて出くわしたユミコだけが、ぽかんと呆気あっけにとられてしまった格好だった。



「トウヤの気持ちは、嬉しいんですよ」


 チカもそこまで鈍くはない。トウヤがチカに対してどんな気持ちを抱いているかぐらいは、とっくに知っていた。バスケットボールを辞めなければならなくなった時、それでもチカのそばについて離れなかったのがトウヤだった。


「もやしというか、何というか。いじめられっ子で、押しが弱いんですね」


 いつもクラスの中で、貧乏くじを引かされているイメージだ。そんなトウヤにとってチカは、誰よりもまぶしい光だった。チカはクラスどころか、学校全体のスターだ。試合がある日には、欠かさず観にきてくれた。チカの活躍に声援を送って、トウヤはそこから自身の生きる力を貰っているような気分だったに違いない。


 ――その星が、地にちた。


「練習にも参加出来ないし、その場にいるだけでいたたまれなくて、あたしはどんどんバスケからは離れていってました」


 その場所には、もう立てないんだ。生きる目標をうしなうのには、まだ早すぎた。スポーツ全般に対する興味がなくなり、チカは毎日を絶望に支配されたまますごしていた。

 友達も、次々といなくなっていく。学校でも、チカの口数はどんどんと減っていった。誰とも話をしないまま、家に帰る日すらもあった。いっそのこと、死んでしまえば楽になるかとまで考えた。


 そんなチカを助けてくれたのが、フミカと……トウヤだった。


「フミカさんには本当に感謝しています。フミカさんとこのお店がなければ、あたしはきっとこうしておしゃべりだってしていられなかった」

「なんの。私は雨ん中で突っ立ってる女の子を、放っておけなかっただけだよん」


 当時は『翡翠の羽』の営業が、ようやく軌道に乗ったばかりの頃だった。まだ小さい子供を保育所に預けて、フミカとケンキチが交代で店の番をおこなっていた。丁度その交代の道すがらに、フミカは雨に濡れて立ち尽くすチカの姿を発見した。

 フミカとケンキチの説得を受けて、チカはもうしばらく頑張ってみようという意思を持つことが出来た。学校にも通って、そこでまたちょっとずつ何かを取り戻していこう。そう思って自分の周りを再確認した時に、チカはようやくトウヤの存在に気が付いた。


「トウヤは目立たなかったから、多分足のことがなければ今でもその他大勢の中に埋もれていたんじゃないかな」


 その空気のようなトウヤが、いつでもチカに声をかけてくれていた。チカは何も見えていなかった。何も聞こうとしていなかった。「三隅さん、大丈夫?」何度となく発せられていたであろうその言葉が、初めてチカの中にまで届いた時。

 不覚にも、チカは涙を流してしまった。


「あたしは馬鹿だから、トウヤがいてくれていることに全然意識がいっていなかった」


 チームメイトがいて、沢山のファンがいて。ちやほやされていた時期には、チカは浮かれて何も判っていなかった。本当の意味での友達なんて、いなかった。チカが倒れれば、メンバーには一人分の空きが出来る。バスケットボールをしていないチカになんて、誰も興味なんか持ってくれない。


「僕は、三隅さんのファンです。三隅チカさんという人の、ファンなんです」


 それはもう、愛の告白と何ら大差はなかった。血を吐くようなその言葉に、チカは心を動かされた。それなら、残されたたった一人のファンのために、もう少しだけ頑張ってみよう。そう思えたからこそ、今だってあきらめずに高校生活を送っていられた。


「付き合ってはいないんだけど、まあ、似たような感じ。だって『ファン』のまんまだし。期待に応えなきゃいけない方も、結構大変なんだけどな」


 そう言って笑うチカの表情は、本当に楽しそうだった。



「ところでユミコさんは、今夜の花火はどうするの?」


 お祭りと同時に、今日は大規模な花火大会が予定されていた。東京の中心の方と、『翡翠の羽』のある多摩地区の両方でだ。マンションの部屋からは、都心の花火大会が素晴らしく美しく見えるという話だった。久しぶりに、片付けがてらにそちらにいってみようかとも考えていたのだが。


「テルアキさんのおうちで、ゆっくりと眺めることにしてます」


 テルアキの実家の二階からも、こちらの花火大会の鑑賞が出来るという話だった。開発が進んでいないお陰で、遮蔽物しゃへいぶつになるビルのたぐいが少ないことが理由だ。それなら、無理に混雑している電車に乗って移動することはない。ユミコはここでの手伝いが終わったら、テルアキと一緒に縁日を回って、それから二人で帰るつもりだった。


「じゃあ、今夜辺りはラブラブなんですね」

「そうですね。雰囲気次第では、アリですね」


 ふふふふ、と女性陣は揃って含み笑いを浮かべた。今年の夏は、例年よりもずっと暑い。アイスコーヒーのグラスの中で氷が崩れて、からん、と涼しげな音を立てた。


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