はなのいろあざやかに(2)
「どうも、おはようございます」
暑さで朦朧としかけたところに、声がかけられた。むわっとした空気の中に、大きな白い花が一輪咲いている。よく見てみればそれは、ケンキチも良く見知っている若い美女と――おじさんの二人組だった。レースで縁取られた優美な日傘が、くるくると回る。
「やあ、お二人さん。わざわざ済まないね」
やってきたのはこの店のオーナーであるテルアキと、その愛人『候補』のユミコだった。
「お手伝いに参りました。今日は一日よろしくお願いいたします」
ユミコが、丁寧に腰を折ってお辞儀する。地方の大きな農家の出身ということで、ユミコはところどころに育ちの良さが滲み出ていた。今は杜若女子大学で英語を勉強している、女子大生だ。そう聞いただけでもう、完全にお嬢様というイメージしか湧いてこなかった。
「俺も何かしなければいけないんだそうだ。どうすれば良い?」
「あー、とりあえずそこに座っといてくれ」
一方のテルアキは、デイトレーダーでこの店の持ち主だ。ケンキチとは子供の頃からの幼馴染で、数年前までは放浪の生活を送っていた。それがふらりとこの街に帰ってきたと思ったら、ケンキチが店を作るのを手伝ったり、都心にマンションを買って仕事場にしたりと。思い付いたら片っ端から手を出すような、気まぐれなことばかりをしていた。
挙句の果てには、映画館で女の子を見初めて愛人候補として面倒を見るにまで至った。なかなかどうして、波乱万丈な人生だと思う。脱サラして喫茶店を経営するところぐらいまでが、ケンキチの冒険の限界点だ。子供の頃から、テルアキにはどう足掻いたって勝てなかった。いや、こうなるともう「勝とう」という気すら起きてはこなかった。
ユミコに無理矢理染められてから、テルアキはこまめに髪を黒くするようになっていた。二、三歳は若返った感じがして、悪くない。服装もユミコがコーディネートしているせいか、物自体に変化はなくても着こなしや組み合わせが格段に良くなった。トータルでは少々年増の男性、くらいまでは引き下がったか。しかし何よりもテルアキに影響を与えているのは、ユミコとの同棲生活そのものであろうと推し量ることが出来た。
「聞いてくださいよ、ケンキチさん。テルアキさん、毎年このシーズンは三食素麺だけで生活してたって言うんですよ? そんなんじゃ夏バテしてしまいます」
「ユミコさんだって、実家では似たようなものだったって言ってたじゃないですか」
「それが嫌だから、コッチにきたんです。素麺に罪はありませんが、ものには限度があります」
ここ数日で、テルアキとユミコの仲は目に見えて親密になっていた。ユミコはマンションの部屋を飛び出して、すっかりテルアキの自宅の方に居着いている。世話女房――というよりはむしろ押しかけ介護士か。精神的に揺さぶられて沈み込んでいたテルアキを、ユミコは優しく、そして力強く支えていた。
「テルアキさんには、この夏で超健康体になってもらいますからね。ユミコプロデュースです」
「お手柔らかに」
そんなことを言い合いながらも、二人はにこやかに微笑んでいる。ここにきた時も、しっかりと手を繋いでいた。大きな荒波を乗り越えて、二人の間には強固な信頼関係が産まれつつあった。最初に話を聞いた際には、どうなることかと思っていたが。二人の交際はケンキチが想定していたよりもずっと穏やかで、望ましい結果を迎えられそうだった。
「お、きたね、ユミコさん。女性陣は中だ。こっちこっち」
がちゃり、と店の扉が開いてフミカが顔を覗かせた。この炎天下に、女性たちを放り出しておく訳にはいかない。祭りの客が増えてくる午後までは、外はケンキチとテルアキの男二人で回す予定だった。
「フミカさん、その、この前は大変失礼いたしました」
ユミコが再び、深々と頭を下げてみせた。かなり深く反省しているのだろう。今度はケンキチに対しておこなったものよりも、更に角度が深かった。ユミコはその姿勢のまま、優に十秒以上はじっとしていた。
「気にしない気にしない。心情的にはユミコさんの味方だって言ったでしょ? それより、こっちにきてガールズトークしましょ」
フミカに誘われて、ユミコは少し名残惜しそうにテルアキの方を見つめた。ラブラブだな。テルアキに小声で「いっておいで」と言われて、ユミコはようやく『翡翠の羽』の中に消えていった。
「……あの後、ミヨコが店にきたよ」
「そうか」
陽射しに焼かれるアスファルトを、テルアキとケンキチは並んで眺めていた。午前中でこれなのだから、昼過ぎには猛暑になるだろう。今年の夏も、暑い。若い頃はそれでも何とかなったものだが、テルアキもケンキチも揃っていい年齢になっていた。
テルアキの家を訪れたミヨコを、ユミコが玄関先で張り倒した。そのとんでもない騒動の間、テルアキは全く気が付かずに昼風呂に浸かっていた。そのことを話すと、ケンキチやフミカにはすっかり呆れられてしまった。風呂上がりに、興奮冷めやらぬユミコから事情を聴かされて。泡を食って飛び出そうとしたテルアキの腕を、ユミコががっちりと掴んで離さなかった。
『いかせません。絶対に、絶対にいかせません!』
ユミコの手を、テルアキは振り払うことが出来なかった。その場にしゃがみ込んでぼろぼろと涙を流すユミコの身体を、そっと抱き締めただけだった。
テルアキにだって、判っていた。テルアキが今大切にしなければならないのは、過去を共にしたミヨコではない。テルアキに見えているミヨコは、時間の止まった世界の住人に過ぎなかった。出会って触れたところで、想像と現実のギャップに苦しめられるだけだった。
ユミコはそんなテルアキに、ずっと尽くしてくれていた。傍について、振り返らせようとしてくれた。その姿勢はとてもいじらしいと思うし、愛しいとも思う。純粋な好意が自分に向けられているという事実に、テルアキは驚き、そして喜んだ。
でも――それはきっと、正しくなんてない。
テルアキはユミコを、お金で誘導した。住む場所に困っているというので、マンションの部屋を提供した。生活費の一切合切も、テルアキが負担してやった。愛人になれば、それなりの自由も与えて海外旅行もさせてあげると約束した。
それらの一つ一つが、ユミコの判断を誤らせている可能性はあった。テルアキは苦しかった。ユミコがテルアキに優しく接してくれる度に、ひどい罪悪感に苛まれた。
だがそうはいっても、テルアキには他に何もなかった。若くもないし、外見が優れていることもなく、特別な才能にも恵まれていない。ユミコの気を引くのに使えるのは、お金だけだった。
「『何も考えていなくて、ごめんなさい』だってさ。どう応えたものか、俺には判らなかった」
そんなのは、テルアキも同じだった。考えなしにユミコに声をかけて、自分の近くに置いて。愛人になってほしいなどと持ち掛けておきながら。ミヨコの影に振り回されて、いざ愛情を向けられれば、それを受け入れることに躊躇ってしまう。
自分は、こんなにも情けない男だったのか。腕の中にユミコの体温を感じて、テルアキは自らのあり方を恥じた。ユミコを傷付けてしまったとするならば、それはテルアキの責任だった。中途半端で、後先も考えずに行動してしまった結果。本当に大切な人に対して、こんな扱いをしてしまったという後悔。
テルアキはいつもユミコが握ってくれる自身の掌を見下ろした。今更、逃げたって始まらない。ユミコなら、きっとテルアキを引っ張っていってくれる。そう信じて、そのままでいることを望んでしまっても良いのだろうか。
「ケンキチは、結婚ってどうやって決めたんだ?」
知らない間に、幼馴染は人生の先輩になっていた。テルアキといることで、ずっと苦しい初恋の痛みに耐えて。まともに働いて、まともに恋愛をして。今では自営業をこなして、一児の父となっている。テルアキにとってみれば、ケンキチはテルアキなんかよりも遥かにしっかりとした大人の男性だった。
「どうって。そりゃお前――」
ケンキチの妻が元は会社の後輩である、という話はテルアキも聞いて知っていた。フミカは『翡翠の羽』の経理担当なので、テルアキともよく打ち合わせの場を持っている。小柄で可愛らしい外見から、辛辣な発言が遠慮なく飛び出してくる実に個性的な女性だ。
ケンキチと一緒にいる時は、フミカはまるで番犬みたいに横に控えていた。その例えはなかなかに秀逸だと、テルアキ自身はそう考えていたのだが。最近は自分とユミコもそんな風に見られているのではないかと、若干反省しているところだった。
「こういうのは、縁、だな」
ケンキチが忙しく会社勤めをしていた頃、テルアキはここにいなかった。テルアキもミヨコもいない世界で、ケンキチだけは変わらずにこの場所で生き続けて。自分の立つべき位置を見出していた。
それはテルアキに言わせればどんな財産よりも尊くて――仮にテルアキがどんなに欲しいと願ったとしても、手に入ることのないとても貴重なものだった。
『翡翠の羽』の店内には、ほとんど客はいなかった。近所の短大は夏休み。お祭りの日の午前中ともなれば、いるのは余程の物好きぐらいだった。
「どう、ユミコさん? テルアキさんとは一線超えた?」
カウンターから身を乗り出して、チカが目をキラキラと輝かせながら訊いてきた。ここのところは、会話の始まりは常にこれだった。チカの中では、テルアキとユミコがいつ結ばれるのか、というのがトップトレンドであるらしい。そうなったらそれで、ユミコはきちんと報告はするつもりではいた。現在のところは……残念ながら『収穫なし』だ。
「特に進展はないかな。仲良くはしてるつもり。テルアキさん、真面目だから」
テルアキが望むなら、ユミコは特に拒まない。それが例え何であろうと、だ。結構な覚悟を持って、ユミコはテルアキの家で同棲を続けていた。テルアキからは、確かな好意と愛情を感じた。優しくされているし、大事にされている。でもことがそこに至るまでには、まだ見えない大きな壁が立ちはだかっているという印象だった。
「あのババァが変な横槍入れなければねぇ」
チカはむぅっと膨れっ面をして腕を組んだ。それを見たフミカが、「きしし」と笑う。この二人は、口が悪いのの師弟関係だ。昔、雨の中を彷徨っていたところをフミカに助けられてから、チカはフミカにべったりなのだそうだ。『翡翠の羽』でアルバイトをしたいと申し出てきたのも、フミカの役に立ちたいから、ということだった。
「あの後ミヨコさんはお店に来てね、うちの人に謝っていったみたい。ユミコさんのビンタが、よっぽど堪えたのね」
その話をされると、ユミコは恥ずかしかった。ついカッとなって、気が付いたら手が出ていた。高校の頃にも、ユミコはヒロキに対して衝動的に暴力を振るってしまったことがある。自分でも、良くないところだとは思っている。テルアキには軽いツッコミ程度にしておこうと、ユミコは自身の肝に銘じておいた。
「良いじゃん、そのくらい当たり前だよ。たかが幼馴染が、今更何様だってんだよ」
ユミコの場合で考えてみれば、テルアキの愛人になった後でヒロキの下を訪れるようなものか。その時ヒロキに恋人がいたのなら、なるほどユミコは一発殴られるぐらいは当然のことだった。ユミコはヒロキに、沢山のものを与えてもらっていたと思う。その全てを裏切って、婚約者という立場を捨ててしまって。それが何食わぬ顔で、ひょっこりと戻ってくるとか。いくらユミコでも、流石にそこまで厚顔無恥な芸当は出来そうになかった。
「心の整理がつけたかったんじゃないかな。過去を過去にするための儀式。だからまあ、ユミコさんのキツい一発は重要な意味を持っていたのだよ」
テルアキには、ユミコがいる。過去はもう、どうしようもないくらいに遠くへと去っていってしまった。ミヨコもテルアキも、それを思い知って前に進むためには、何らかの形での決別が必要だった。
そしてそれをもたらすのは、テルアキと共にこれからを歩むことを決めたユミコ以外に適任者はいなかった。ユミコは『愛人』なんて不確かな立場にありながらも、誰よりもテルアキを大事に想っている。そのユミコがテルアキの傍にいる限り、テルアキが再び記憶の泥沼の中に沈み込んでいくなど有り得なかった。
――それにしても、だ。
「フミカさんって、その、ケンキチさんの奥さんで、お子さんもいらっしゃるんですよね?」
失礼だとは思いながらも、ユミコは改めてフミカの全身をまじまじと眺め回した。言われてみれば、小柄な大人の女性、ということは判る。しかしそれにしたって、若作りにも限度があるのではなかろうか。おまけに経産婦とか。ケンキチは『この』フミカと要は『そういう関係』になって、子供をもうけたのか。ユミコはなんだかクラクラとしてきた。
「男の子ってのはどうしても甘えん坊でね、なかなかこっちに顔が出せなかったんだ。ユミコさんの噂はいっぱい聞いていて、是非一度お目にかかりたいと思っていたんだよ」
その肝心な第一印象が……ビンタ女だった。ちょっとばかりインパクトが強過ぎはしないだろうか。ユミコはせめて、もう少し可愛げのある女性として見られたかった。一方のフミカはそんなことは全く気にしている様子はなく、むしろユミコの行動についてしきりに感心していた。
「大人になると、無駄にごちゃごちゃと理屈をつけたがるもんだ。その点、ユミコさんの態度は潔い。本当に譲れないものならば、身体を張ってでも守るべきだよね」
真っ直ぐであることは、ユミコも一応自分の取り柄だとは思っていた。フミカもチカも、ユミコとテルアキの仲を応援してくれている。愛人の押しかけ女房だなんて、訳の判らない存在であるユミコのことを、だ。その期待に応えるためにも、ユミコは精一杯テルアキという男性を好きでいようと心に決めていた。
「あのう、すいません」
「はーい、いらっしゃいませー」
店のドアが開いて、客が入ってきた。暇なので無駄話ばかりしてしまっているが、これでも営業中だ。申し訳程度に開いた戸口に向こうから、そろり、と線の細そうな男子が一人上半身を挿し入れていた。
「三隅さんは……」
「ああ、トウヤ。良いよ、今暇だから入っておいでよ」
チカにあっけらかんとそう言われると、トウヤと呼ばれた男の子はおずおずと中に入ってきた。フミカと同じくらいの背丈だから、中学生くらいか。喫茶店に入るには、ちょっとばかり早い年代とも思われる。トウヤはぺこぺことユミコたちに頭を下げると、チカの方に小走りに駆け寄っていった。
――ありゃ、そういう。
自分のことは判らなくても、他人の色恋は良く見えるものだ。ユミコがフミカの方を窺うと、フミカはちろっと舌を出して応えてくれた。




