ゆずれないばしょ(5)
掌が熱くて、痛い。骨まで軋んで、じんじんと痺れている。ユミコは振り抜いた右手を降ろすと、足元に倒れ込んだミヨコをじっと凝視した。
知らなかった。
テルアキの弟のヨシヒコが死んだことも。テルアキがたった一人になってしまったことも。生きることに絶望して、放浪の日々を送っていたことも。
ミヨコはつい先日まで、何も知らなかったのだという。
「……どうして、今頃になってやってきたの?」
この女は、逃げたんだ。「知らなかった」なんて、体の良い言い訳にしからならなかった。知ろうとすれば、ミヨコはいくらだって知ることが出来たのだ。
テルアキとヨシヒコは親戚の家に預けられたが、テルアキは大学にはそのまま通わせてもらえることになっていた。連絡先の交換だって、誰かに禁止されていたとまでは聞いていない。繋がりを保とうとすれば、そこにはいくらでも手段が存在していたはずだった。ミヨコはそれらの全てを、敢えて無視し続けてここまで通してきたことになる。
「貴女はテルアキさんの前から逃げ出したんだ。好きでいることを諦めたんだ」
テルアキの母親の死を目撃したのは、確かにショックだったかもしれない。ミヨコの甲斐甲斐しい世話の成果もなく、内藤家は崩壊の道を辿ってしまった。その責任の重圧は、ユミコにも推し量れないものがあった。
であるとすれば、ユミコには尚更ミヨコがテルアキを見捨てたことが許せなかった。罪の意識を感じたなら、どうしてテルアキの傍にいてやろうとしなかったのか。ミヨコが罰を受けることがあるとして、それはテルアキから下されるべきだった。それなのに、なんでテルアキから背を向けて、何処とも知れない場所に消えていってしまったのか。
「本当なら、テルアキさんを支えるのは貴女の役目だった」
テルアキの中には、今でもミヨコがいる。ユミコはそれが悔しくてたまらなかった。テルアキが寝言でミヨコの名前を呼んだ時は、全身に鳥肌が立った。テルアキはこの家で、ミヨコのことを待っていた。ミヨコが来てくれるのかもしれないと感じたから、この家を買い戻したのだ。
自分のせいで苦しみを与えてしまった幼馴染に、今度こそ感謝の気持ちと――ずっと秘めていた想いを伝えようとして。テルアキが自らの口で語らなくても、ユミコにはそれが判ってしまった。
辛かった。惨めだった。テルアキのことを誰よりも理解出来ていて、助けられるとまで信じていた自分が恥ずかしかった。
「テルアキさんの勝手な思い込み、テルアキさんの妄想、テルアキさんの独り相撲。貴女にとっては、それだけのことかもしれないけど!」
二十年という時間は、あまりにも長かった。産まれたばかりの赤ん坊が、成人して大人になるまで。変わらないものの数の方が少ないだろう。現に、ミヨコは変わってしまった。世界だって目まぐるしく変化した。その激しい渦の中で、テルアキだけが時の流れに取り残されていた。
心身共にボロボロになったテルアキは、故郷の町に帰ってきた。家族をもう一度、明るくて楽しかったあの家に戻すために。そこで本当に、過去は取り戻せないものだと悟った。テルアキがいたあの世界は、消えてしまったのだと思い知らされた。唯一この町に残っていたケンキチが、テルアキを新しい生活へと導こうとした。
ユミコに出会って、テルアキは変わるための切欠を得られたところだった。子供のような不思議な一途さで自分を求めてくるテルアキを、ユミコは何故か信じることが出来た。テルアキの中には、暗くて深い穴がある。チカの言っていたその暗闇を、ユミコもまた無意識のうちに感じ取って認めていた。
「それならそれで、二度とテルアキさんには関わらないでいてほしかった!」
テルアキとの間に、ユミコは小さな絆が芽生えるのが判った。愛人なんて歪な関係のはずなのに、テルアキからは確かな愛情を受け取った。胸の穴の正体は、寂しさだ。テルアキはずっと、一人ぼっちで膝を抱えて泣いていた。
強がっているばかりの――子供だ。
ユミコはテルアキの手を取ることを決めた。この人を、放っておく訳にはいかない。テルアキは必死の思いで、ユミコにしがみついてきていた。その本能は、恐らくは正しかった。ユミコは自分ならテルアキのことを愛せるのだと、心を決めた。
それなのに。
「テルアキさんが苦しんで、本当に助けを必要としていた時に、貴女は何をしていたの?」
どこからともなく現れたミヨコが、それをみんな壊していってしまった。大切に、大切に。それこそ砂粒の一つ一つを積み上げるようにして築いてきた、二人の現在を。
この女は、台無しにしてしまったのだ。
「テルアキさんのことを忘れて、他所の男とよろしくやりまくった挙句、子供まで孕んで。それがこの期に及んで、いけしゃあしゃあとテルアキさんの前にやってくるとか。ふざけるんじゃないわよ!」
その全てを……テルアキがミヨコとの間に、望んでいなかったとでも思っているのだろうか。ミヨコに、テルアキの気持ちなんて判るはずがない。自分勝手の度合いなら、ミヨコの方が遥かに上だった。「知らなかった」の一言で済まされる程、甘い話では有り得なかった。
テルアキだって、ずっとミヨコのことが好きだった。ここ数日、テルアキと暮らしてユミコはその事実をこれでもかと突き付けられていた。どんなにおどけていても、どんなに顔が笑っていても。テルアキの心模様は、いつまで経っても晴れ間を現してくれなかった。
ユミコの方を向いている目線が、ふと外れてあらぬところを見つめる。そこにはきっと、ユミコには預かり知らないミヨコとの思い出があった。ユミコがどんなに手を尽くしてそれを上書きしようとしても、なくなってくれない。ユミコのことをミヨコの代理として投影してしまう自分を、テルアキはいつまでも責めていた。
「テルアキさんは、私のものだ。貴女みたいな汚れた女なんかに、指一本触れさせてたまるものか!」
これ以上、テルアキを傷付けさせてなるものか。ユミコとの間に、割って入ることなど許しはしない。確かにミヨコと比べれば、ユミコがテルアキと共にした時間なんてたかが知れている。テルアキの内面に、ミヨコの存在は深く根付いているだろう。
でも――ユミコは負けたくなかった。
テルアキの未来を創るのは、ユミコだ。テルアキと愛し合って、心の隙間を埋めて。二人で楽しい記憶を紡いで。
テルアキの欲しがる全てのものを、惜しみなく与えて。もしテルアキが望むなら、子供だって作っても構わない。テルアキが失くしてしまった家族を、この場所でもう一度一緒に始めてみたって良い。
「私はテルアキさんの愛人です。テルアキさんが望んで、愛してこの場所にいる。貴女みたいな裏切者は、二度とこの家には近付かないで!」
目の前が真っ赤になって、口内中に血の味が広がった。地面の上に崩れ落ちて、それでようやくミヨコは納得出来た。
もう……ミヨコの役割は終わったのだ。
ユミコの罵声が、矢継ぎ早に叩き付けられてきた。汚れた女。裏切者。そうだ、その通りだ。ミヨコには反論のしようがない、真実を語る言葉ばかりだった。
テルアキのことを、忘れた日なんてなかった。ミツヒロに抱かれていても、考えているのはテルアキの安否についてだけだった。
――そんなのは、口先でなら何とでも言える戯言の類にすぎなかった。現にミヨコはミツヒロと築いた家庭のことを、とても幸せに感じていた。今それとテルアキを秤にかければ、重さはどちらが上だろうか。その答えは、ユミコに何一つ言い返せない時点で自明のことだった。
ではミヨコは、この家にくるべきではなかったのだろうか。それは『否』、だ。ミヨコには責任がある。テルアキをそれだけ追い詰めてしまったのは、他でもないミヨコだ。だからこそ、ミヨコにしか出来ないことを果たさなければならなかった。
「ユミコさん、私はね――」
よろよろと、ミヨコは力なく立ち上がろうとした。四肢が重かった。身体だけではなく、心までもが打ちひしがれている。怒りに燃える眼をしたユミコが、ミヨコの姿を睨み付けていた。当然だ。今のミヨコは、テルアキに合わせるどんな顔だって持ち合わせてはいないはずだった。
「貴女に、謝りにきたの」
許してもらえるなんて、端から思ってはいなかった。一発は殴られるだろうという予想は、しっかりと的中した。ユミコは若くて、テルアキに対する想いは本物だ。これだけユミコに愛されているテルアキは、幸せ者だった。
そうだ。ミヨコにはもう、テルアキを幸せにする力がなかった。テルアキを絶望させて、悲しませることしか出来ない。今のテルアキには、過去の女の存在は不要だった。
「私には、テルアキを好きでいる資格がない。それは自分でも判ってる」
これもユミコの指摘通りだ。恐らくは一番テルアキの傍にいなければならなかった時に、ミヨコはテルアキへの連絡を絶っていた。その手段など、どうとでもなったはずだったのに。テルアキの母親のことが脳裏から離れずに、どうしても勇気を出すことが出来なかった。
その程度の想いだと言われれば、きっとそうだった。テルアキが胸の中に描いていたミヨコと同じ。ミヨコの中にいたテルアキは、そこにいるだけの幻想だった。
「今の貴女たちを苦しめる結果になってしまったこと、本当にごめんなさい」
ただ徒にテルアキに会いたいと願っても、得られたものは何もなかった。ミヨコもテルアキも、更なる傷を負っただけだった。テルアキはようやく見つけた新しい恋を、ミヨコとの思い出によって曇らせてしまった。ミヨコはミヨコで、このままミツヒロとの生活に埋没してしまっていれば良かった。
そして一番割を食わされたのは……ユミコだった。
テルアキに見初められて、テルアキを愛してくれている人。ミヨコはユミコに自身の想いを託そうかとも考えていたが、それは余計なお世話だった。
ユミコは自分の意志だけで、テルアキへの想いを貫いてくれる。ミヨコの存在なんて、きっとテルアキの中から綺麗さっぱり払拭してしまえるだろう。過去なんて全部忘れさせてしまって、テルアキと共にここから飛び出していく。ユミコからは、そんな力強さが感じられた。
この頬の痛みは、大事な罰だ。これで終わることが出来る。罵られて、石を投げられて。ミヨコはテルアキの呪縛から、ようやく解き放たれる。テルアキをあの眩しくも残酷な日々の記憶から、解放させることが出来るのだ。
後一度で良いから、ミヨコはテルアキの顔を見たいとも思った。それはどうにも難しそうだ。ユミコは玄関前で仁王立ちして、絶対にそこを通さないという態度だった。テルアキがどんな状態で、どんな様子なのか。知りたいと願ってしまうのは――未練か。
無意識のうちに、足が前に出ていた。やっぱり、一言で良い。最後にテルアキに、直接お詫びの言葉を伝えたかった。ユミコの右手が持ち上がる。またぶたれるのか。こんな痛みなんて、テルアキに比べればなんてことはない。
ミヨコは歯を食いしばると、ユミコを正面から睨み返した。たとえ今、ミヨコの想いがここにはなかったとしても。
「でも、私だって、テルアキのことが――!」
あの時の気持ちは、きっと本物だった……
「はい、そこまで。二人ともストップ!」
どん、と強めに押されてミヨコは数歩後ずさった。ユミコの平手が鋭く空を切る。驚いて見下ろした視線の先に、小さな人影があった。
「心情的にあたしはユミコさんの味方だけど、二発はやりすぎだ。ミヨコさんの方も、ここは出直してくれませんかね」
ユミコはきょとんとして目の前にいる人物の姿を見つめた。チカと同じくらいか、それよりも年下だろうか。小柄な女の子は妙に大人びた口調でそう言うと、地面に落ちていたミヨコのカバンを拾い上げた。
「今度は末期の別れって訳じゃない。お互いに、もうちょっと落ち着いてから後日改めて、てことにしておこうじゃないか」
「でも――」
カバンを受け取りながら、ミヨコはそれでも立ち去りがたいという素振りを見せていた。ユミコは警戒して、全身を硬直させた。まだテルアキに付き纏うようになるならば、いよいよ容赦するつもりはない。山育ちの農家の腕力を、舐めるなよ。今にも噛みつきそうな形相を浮かべたユミコの様子に、女の子はやれやれと呆れ返った。
「ほらテルアキさんの家の前で、これ以上は揉め事を起こしたくないでしょ? それにさっきも言ったけど、あたしは心情的にはユミコさんの味方なの。次はぶっ飛ばされても助けないからね」
女の子に説得されて、ミヨコは渋々という表情でテルアキの家の前から去っていった。角を曲がる際にぺこり、と頭を下げたのに対して、ユミコは豪快にそっぽを向いて応じてみせた。大人げないという自覚はあっても、そうすることしか出来なかったのだから仕方がない。後は塩だ。調理用のものはもったいないので、ポテトチップスの袋の底に溜まっていたクズでも巻き散らかしてやりたい気分だった。
「なんか、聞いていたよりも激しい子だねぇ、ユミコさんは」
ぷんすかとまだ興奮の収まり切らないユミコを見上げて、女の子はニヤニヤと笑っていた。そういえば、この子は誰なのだろうか。ユミコのことも、ミヨコのことも知っていて、その辺りの事情についても一通り理解しているような口ぶりだった。チカの友達……それとも妹か何かだろうか?
背丈からすると中学生くらいか。かがみ込んで正面から覗き込んでみると、妙に大人びた印象を受けた。うっすらとだが、化粧をしている。手足は確かに細いのだが、どうにも子供のそれとは違っていた。今までに、会った覚えはないはずなのに。ユミコは上手くその印象を言葉にすることが出来なかった。
「……どちら様、でしたっけ?」
「初対面だから、知らなくて当然だよ」
女の子は「かかっ」と嗤った。いや、違う。ユミコはようやく気が付いた。女の『子』なんかではない。慌てて姿勢を正して、咳払いを一つする。ユミコが冷静さを取り戻したことを知って、小柄な女性はにんまりと微笑んだ。
「東條フミカと申します。ケンキチの妻です。いつも主人がお世話になっております」
あまりに衝撃的な事実に、丁寧に頭を下げてみせたフミカの前でユミコは完全に硬直してしまった。
第7章 ゆずれないばしょ -了-




