ゆずれないばしょ(4)
朝の時間は慌ただしい。看護師の仕事は非常勤でシフトには余裕があるが、主婦業の方は年中無休だった。今日も夏休みだというのに、野球の試合にいくという二人の息子のお弁当作りから始まった。
育ち盛りの子供たちは、朝から元気いっぱいにたらふくご飯を食べた。夫のミツヒロも、朝食はしっかりと食べる習慣だ。ミヨコは毎朝、最低一時間はキッチンを離れられなかった。その後は家族を送り出して、洗濯に、掃除。やることがありすぎて目が回ってくる。それでも、今日の午後は非番だ。そこで一息つけるのだと思うと、僅かながらに気持ちが楽になった。
「じゃあ、いってくるよ、ミヨコ」
ミツヒロは相変わらず外科医として多忙な日々を送っていた。夫が優秀な医師として評価されているのは、ミヨコにとっても嬉しいことだった。玄関先まで見送って、ずっしりと重いカバンを手渡したところで――
強い、罪悪感に苛まれた。
ミヨコは、恐らくはこの上なく幸せだった。優しい夫と、生意気だけど可愛い子供たち。そんな家族に包まれて、こうして毎日を暖かくすごせている。お金に困ることもないし、生活で悩むことがあればミツヒロがいつでも親身になって相談に乗ってくれた。
他人を羨ましいと思うことはあまりない。結婚してからの日々は、人から憧れられることの方が多かった。一晩中泣いていた時も、ミツヒロは黙って寄り添っていてくれた。罪も罰も。全ては分かち合えるものだと、心の底から信じていられた。
でも――
「どうかしたのかい?」
急にうつむいて黙りこくったミヨコの様子に、ミツヒロが声をかけてきた。ミツヒロはいつだって、こうやってミヨコのことを気にかけてくれる。ミヨコのちょっとした変化を見逃すことなく、常に的確に、陽になり影となりミヨコを支えていようとしてくれた。
それが……テルアキのところにはなかったのだ。
ミヨコが訪ねていったテルアキの家は、見るも無残な姿だった。小綺麗なだけで、何もない空っぽの空間。そこにテルアキは、たった一人で住んでいた。
ケンキチの話によれば、お金に困っていることはないとのことだった。最近になって若い女性が一人、テルアキの傍にいてくれているらしい。それでもテルアキのあの暮らしぶりを目の当たりにすると、ミヨコはどうしても心中穏やかではいられなかった。
「テルアキさんのこと、だね」
ミツヒロには、テルアキのことは逐一伝えてあった。ミツヒロと一緒になったのだって、それを織り込み済みの上でのことだった。ミヨコの中には、ずっとテルアキに対する後ろ暗い気持ちがある。許される日なんて、一生くるはずがない。ミツヒロにすがったことで、ミヨコの罪は一層深くその身に刻まれた。
幸せであって良いのだろうか。その想いは、テルアキと再会したことでより強固となった。今のミヨコには、誰よりも夫と子供たちが大切だった。判っている。それなのに、ミヨコの後ろでは未だにテルアキの母親の葬儀が続いている気がしてならなかった。
「ごめんなさい、あなた。私、テルアキの力になってあげたいの」
会いたかった。
会うべきではなかった。
あの家で、テルアキは孤独に生きていた。父親を失って、母親を亡くして。ミヨコがいなくなった後に、弟のヨシヒコまでが命を落として。それでもまた、あの家に帰ってきた。
それを知ってしまった以上、ミヨコにはここで自分だけの幸福に浸っていることなど我慢が出来なかった。
「判ってる。ミヨコのやりたいようにしてくれれば良い。僕は君に、もう充分に与えてもらった」
ミツヒロは、ミヨコのことを沢山愛してくれた。だからミヨコも、ようやく受け入れる決意が出来ていた。結婚して、子供が産まれて。全ては記憶の彼方に消えていくのだと、そう思って忘れようとしていた。
「……ごめんなさい」
消えるはずなんて、なかったのだ。テルアキはいつだって、ミヨコの中にいた。ミヨコが顔を背けて、見ないようにしていただけだった。それを知っているくせに、ミヨコは恋人を作って、結婚して。家族を築いて。ずっとずっと、ただひたすらに逃げていた。
まだ、向き合うことをしないのか。ミヨコはテルアキを裏切った。もう何もかもは、手遅れかもしれない。
でも――
「ごめんなさい」
今度こそ、テルアキの近くにいてあげたい。ミヨコはミツヒロに、謝罪の言葉を繰り返した。ここまでミヨコを愛してくれた人に、どうしてこんな感覚を抱いてしまうのか。ミヨコは自分が許せなかった。あの日の自分も、今の自分も。
卑怯で弱くて、どうしようもないくらいに――狡かった。
「ほらテルアキさん、起きてください」
目が覚めると、まず掌を軽く握った。そこにユミコはいない。眠りに落ちる瞬間までは、温かくて柔らかい感触がそこにあったのに。恥ずかしいことをしてもらっているという自覚はあったが、それで驚くほどに落ち着いて寝られるのだから仕方がなかった。
布団から起き上がると、カーテンは全開になっていた。階下から、朝食の味噌汁の匂いが漂ってくる。そういえば、今朝の朝食は和食をリクエストしていたのだった。ユミコの料理の腕は日増しに上がってきている。料理の出来栄えが楽しみで、テルアキはいそいそと階段を降りていった。
「おはようございます、テルアキさん。マンションに通っていた頃は、もっと早起きだったんですよね。最近はすっかりお寝坊さんみたいですけど」
「おはよう。よく眠れているからね。お陰様で」
キッチンに入ると、エプロン姿のユミコがにっこりと笑いかけてきた。この家にユミコがいるという状況には、どうにもまだ慣れてこなかった。母親がいて、ミヨコがいて。それが今は、ユミコになった。不思議な感覚だ。テルアキはユミコのすぐ隣に立った。
「刃物と火を扱っている時だけは、遠慮してくださいね。後はテルアキさんのお好きなように」
「普段からそんなこと、してないじゃないですか」
ユミコはふふんとテルアキを上目遣いに見上げると、軽く体重を預けてきた。髪から甘い香りがする。テルアキと同じシャンプーのはずだが、ユミコが使うともっと濃厚な感じになった。強く吸い込むと、頭の芯がぼんやりとしてきてしまいそうだ。ユミコの背中が、テルアキの身体にぴったりと密着していた。
「手繋ぎだけで良いんですか? テルアキさんだって、健康な男性なんですよね?」
「ユミコさんには、感謝はしています。だからこそ、成り行きっていうは良くありません」
夜眠る時、ユミコは毎晩テルアキに添い寝して掌を握ってくれていた。正直心臓が破裂しそうなくらい動悸が激しくなっていたが、そうしていると自然と安らかに睡眠を取ることが出来た。
誰かがいてくれるというのを、ここまで心強く感じるようになるとは。テルアキは驚くのと同時に、ユミコに対してまた新たな気持ちが生じるのを覚えた。
「九月まで、ちゃんと待ちます。その上で、俺なりの答えを出させてください」
「はーい。その頃までに、私の気持ちの方が変わらないと良いですね」
ユミコは相変わらず、自由奔放な女性だった。この調子だと、夏休みの間はずっとテルアキの家に居座るつもりのようだ。テルアキが健康になるということで、ケンキチやチカも大賛成していた。嫁入り前の娘が中年男性が一人暮らししている家で寝泊まりしているとか、落ち着いて考えてみれば大問題だろうに。それに反対しているのが自分一人という状況に、テルアキはあっさりと降伏せざるを得なかった。
――悪くはない、んだけどさ。
ユミコに対する感情にどう整理をつけるのか、それはテルアキの中ではまだはっきりとはしていなかった。
『好き』であることは確かだ。ユミコは可愛らしくて、魅力的で。テルアキの方をいつだって見てくれている。察しも良いし、頭の回転も早い。何より、一緒にいてこれだけ楽しい女性というのはそうそう出会えるものではなかった。
一目惚れに近い感覚であったのが、今ではすっかりいてくれなくては困るぐらいの相手になってしまった。
だからこそ、だ。
ユミコがミヨコの代理とか、そういう扱いになってしまうことだけは、テルアキはどうしても避けたかった。ユミコのことを、他の誰でもない『ユミコ』として愛せるのだろうか。そこにミヨコの影が入り込んでいないと、胸を張って言い切れるのか。
ユミコのことを真剣に想えば想う程、テルアキはユミコとの関係を真面目に考えるようになった。迂闊に手を出して、ユミコの心や身体を傷付けてしまってはいけない。きっと二度と巡り会えないと思うからこそ、テルアキはユミコとの今後についてきちんとした答えを出しておきたいと望んでいた。
「その時駄目なら、俺たちには縁がなかったんです。結末がそれであっても、ユミコさんには幸せになってもらいたい。そのためにも、今以上のことをユミコさんに強要するつもりはありません」
「同じ布団で寝れば、既成事実的には充分なんじゃないですかね?」
まあ確かに、それで言い逃れが出来ないのは間違いない。ユミコはテルアキが眠った後も、いちいち自分の部屋に戻ったりはしていない様子だった。最初の頃は眠りが浅くて何度か目を醒ましていたが、その際にはすぐ近くにユミコの寝顔があって物凄く焦ったのを覚えている。
自分のことを「好きだ」と言っている男性の前で、これはあまりにも無防備すぎやしないだろうか。男として認識されていないのか、あるいはどこまでも信頼されているのか。どちらにせよテルアキの理性は夜になると常在戦場の総動員状態で、毎晩決壊寸前の大騒ぎだった。
「良いですよ。テルアキさんが、ちゃあんと『私』のことを好きだって言ってくれるなら」
そこのところも、正確に把握されている。これだからユミコは油断がならなかった。そうこうしているうちに、朝食の準備が整っていた。きちんとした睡眠に、三度の食事。夏休みの間に、テルアキの健康はかつてない程に正常に保たれることになりそうだった。
この街は、昔からほとんど変わらない。引っ越してから何年も訪れなかったのに、ミヨコには目をつぶっていても歩くことが出来そうだった。
何軒かの家は潰されて、真新しい新築の建物に化けてしまっていたりはした。しかし基本的な路地の形状はそのままだし、ずどんと大きなマンションが聳え立っている訳でもなかった。開発から取り残されている、という感じか。変わっていないということに、ミヨコは安心するのと同時に不安もまた覚えていた。
内藤家は、あまりにも変化から取り残され過ぎている。
テルアキが買い戻した際に、まるで当時の様子を再現するかのようにリフォームした結果でもあるのだろう。久しぶりにその玄関先に立った時には、ミヨコは最初身震いしたものだった。呼び鈴を押せば、今にもテルアキの母親が顔を出すのではないか。
『ミヨコちゃん、いらっしゃい』
暗い顔で、それでも一所懸命笑おうとしていて。いつでも快くミヨコを中に通してくれて。テルアキの父親のことを、何度も何度も繰り返し聞かせてくれた。
それが恐らく、彼女にとって最も幸せな時期であったのだ。ミヨコは根気強くテルアキの母親の話に付き合った。馴れ初めの話から、結婚式。テルアキの誕生と、ヨシヒコが産まれた時の思い出。日に日に放置され、汚れていく家の中を掃除しながら。ミヨコは内藤家の物語に、じっと耳を傾けていた。
『それももう、おしまいなのかねぇ』
『そんなことありませんよ。テルアキも大学で頑張っているんですから、おばさんも頑張りましょう』
心が折れた人に対して、『頑張れ』という言葉は禁句なのだそうだ。ミヨコはそれを、看護師の勉強を始めてから知った。そして、強く後悔した。テルアキの母親を追い詰めたのは、ミヨコだ。ミヨコは何も知らないまま、内藤家に次の不幸を呼び込んでしまった。その自責の念は、ミヨコを更にテルアキから遠ざけてしまった。
ヨシヒコがいなくなった後で、テルアキは独りきりでどうしていたのだろうか。ここではない場所で他人の妻になって、子供までいるミヨコに、出来ることなんて残されているのか。
あれこれと思い悩むのを、ミヨコは一時的に放棄した。
今はただ、テルアキの近くにいたい。ずっとそれが引っかかっていた。テルアキのことだけが、ミヨコの未練だった。
テルアキの世話をしてくれている、若い女性がいるのだそうだ。その女性に会って、ミヨコはお礼と謝罪を述べなければならなかった。名前は確か――月緒ミヨコといったか。傷付いたテルアキを、ミヨコに代わって支えてくれた人。もしミヨコの罪が許されないのなら、後はそのユミコという人物に託すしかなかった。
これで三度目か、四度目くらいか。内藤家の前まで、ミヨコはやってきた。いつもよりは遅い時間帯だが、テルアキはいるだろうか。こうして何回も厚顔無恥にやってくるミヨコのことを、軽蔑したりはしないだろうか。覚悟を決めて呼び鈴を鳴らすと、一分も経たないうちに玄関の扉が開いた。
「はい、どちら様ですか?」
――ああ。
ミヨコの両肩から、ふわっと力が抜けた。そこにいたのは、二十歳くらいの年頃の若い娘だった。淡い水色のエプロンが良く似合っている。この家にはいなかった人間。過去ばかりが染みついた土地に咲いた、未来という名前の鮮やかな花だった。
「あの、貴女がユミコさん? 私はミヨコ、粕谷ミヨコと申します」
そうか。テルアキは新しい世界を見つけたのだ。ミヨコは一歩前に足を踏み出した。ケンキチの言っていた通り、とても若くて、それでいてしっかりとしていそうな女性だった。
ミヨコに出来なかったことを、この人なら叶えてくれる。ようやく助かる。テルアキも、ミヨコも。ケンキチも、テルアキの母親も。みんな――
うっすらと涙を浮かべたミヨコが、ユミコの方に近付くのと同時に。
猛烈な平手打ちの音が――住宅街中に響き渡った。




