ゆずれないばしょ(1)
手を洗う夢を視た。繰り返し繰り返し、何度も視ている同じものだ。消毒液の匂いが、鼻腔を刺激する。ステンレスのシンクに流れ落ちる水の音は、やがて耳触りな雑音へと変化していった。
『ごめんなさい、ごめんなさい』
自らが発しているすすり泣く声が、ちくちくと全身を突き刺してくる。恐ろしくて、後ろを振り返ることが出来なかった。ダイニングのテーブル、ついさっきまでお茶を飲んでいたその場所には――テルアキの母親がうつ伏せになって倒れていた。
いや、正確に言えばそこにあるそれは、最早テルアキの母親ではなかった。肉体が意思を持って、動いていた頃の話とは違っている。自発呼吸なし。脈拍なし。その時のミヨコに正しい知識と技術があったとすれば、助けることは可能だっただろうか。
ミヨコは、何のためにそこにいたのか。このような事態を招いてしまうことを、未然に防ぐという目的を持っていたはずだった。テルアキの父親と母親は、傍目にも羨ましがられる程のおしどり夫婦だった。特に母親の方は、普段からべったりと夫に甘えてばかりいた。結婚生活が何よりも幸せであると、ミヨコの母にも自慢気に語っていたくらいだった。
それが、この有り様だ。同級生たちの中には、ミヨコのことを『通い妻』などと揶揄する者たちもいた。その言葉に反論出来る余地は、微塵もない。確かにテルアキと一緒にいられるのだと、ミヨコには浮かれていた側面もあった。でもミヨコはそれ以上に、テルアキの母親にも、弟にも健やかであってほしいと願っていた。
……それももう、今となっては虚しいだけだ。
『ミヨコ、送っていくから帰ろう』
ケンキチの声がした。痺れるくらいにかじかんだ指先に、そっと温かい掌が触れてくる。そのケンキチの気持ちだって、ミヨコは一切を承知した上で無視し続けてきた。
ケンキチはいつだって、ミヨコから一歩離れた位置で見守ってくれていた。そこにミヨコに対する特別な感情があることなんて、誰の目にも明らかだった。ケンキチはそれらの全てを飲み込んだ上で、ミヨコともテルアキとも良い友人でいてくれようとしていた。
だから、いたたまれなかった。これでミヨコがケンキチの優しさになびいてしまえば、まるでテルアキの身代わりそのものではないか。ミヨコはケンキチの言葉を聞き流した。何も応えずに、その前から姿を消した。そんな資格なんて、持っていない。ミヨコは何もかもを捨てて――
その場所、その町から逃げ出した。
「ミヨコさん」
若くて、しっかりとした声だった。ミヨコの意識が現実に戻ってくるのには、充分すぎるくらいの力を持っている。はっと瞼を持ち上げると、見慣れた白い天井が広がっていた。まっさらなシーツの感触も、グルコースの点滴のチューブも。ミヨコが生きて暮らしている、いつもの外科病棟の光景だった。
「大丈夫ですか? とりあえずこの点滴が終わるまでは、ベッドから動かないでくださいね」
ミヨコの顔を覗き込んでいるのは、外科の粕谷ミツヒロ医師だった。この病院にはちょうどミヨコと同時期にやってきて、独身で人当たりも良く、看護師たちの間では只今人気沸騰中だ。またやっかみの対象にされてしまうのか。面倒なだけで良いことなんか何もないのにと、ミヨコは内心でがっくりと肩を落とした。
「倒れるの、今月に入って三回目ですよね。師長さんとも確認したんですが、シフト以上の勤務は控えるようにしてください。何かその……金銭的なこととか、話しづらい事情があるのなら、僕でも、医長でも相談に乗らせてもらいますから」
確かに、倒れてしまっては元も子もなかった。その都度周りに余計な迷惑をかけて、こうやって粕谷医師の時間まで奪ってしまっている。こんな状態でいる間にだって、ミヨコに出来ることは少なからずあるはずなのに。黙って身体を起こそうとしたミヨコを、ミツヒロが慌てて押し留めた。
「僕の話を聞いていましたか? この点滴だけは受けてもらいます。そうでなければ不本意ながら、僕はミヨコさんの業務停止を進言しなければならなくなりますよ」
「粕谷先生に、そんな権限があるんですか?」
ミツヒロはインターンから上がりたての、まだまだ新人ほやほやの若手医師だった。働き者の下っ端看護師を強制的に休ませるような指示なんて、簡単に通せるはずがない。実際にミヨコがいなければ、この病院の外科の業務はあっという間にパンクしてしまいそうな状況だった。
「ありませんよ。でもそれでミヨコさんがダウンしてしまうとなると、人手の数は結果的にマイナスだ。ミヨコさんは優秀な看護師です。だからこそ、こんな無茶はさせられない」
病院が忙しいのは、ここの職員たちにとっては周知の事実だった。ミヨコが過酷な業務の中に身を置いているのも、本人の同意を得た上でのことだ。別にミツヒロの監督不行き届きが原因ではないし、それで誰かが責められるような話でもない。
ミヨコとしてはむしろ、今の環境に充分に満足して働いていた。時間が許す限り、シフトとかも関係なく仕事に没頭した。ただでさえ医療スタッフは不足気味なのだ。ミヨコの場合は患者を危険にさらすようなミスを犯す前に、自分から倒れてくれるだけマシな部類なのではなかろうか。
「無茶はお互い様ですよ、粕谷先生」
かく言うミツヒロの方だって、ミヨコに負けず劣らずの激務を連日こなしていた。甘いマスクの、格好だけの医師ではない。ミヨコがこうやって倒れるまで仕事をしていられるのも、ミツヒロがいてくれてこそだった。
「僕の真似なんかしても、良いことは何一つありませんよ。それよりもミヨコさんはもっと、自分のことを大事にしてください」
――自分のこと、か。
それを思うなら、ミヨコは尚更じっとしてなんているべきではなかった。一分一秒でも長く、誰かの命を救うために動いていたかった。そうしていなければ、いつまで経っても自分を許せるような気がしてこない。ミヨコの脳裏に、先程まで視ていた夢の光景がよぎった。
「お気遣いありがとうございます。でも、それだってお互い様です」
ミヨコとミツヒロは二人そろって、休みを取らなさすぎであると医局から警告を受けている身だった。それでミツヒロだけピンピンとしているのは、やはり男女の体力差というものなのか。ミヨコはそれが悔しくて、ムキになっているところもあった。
「粕谷先生は看護師の間では人気なんですよ。たまにはお休みを取って、お気に入りの子でも誘って、デートしてリフレッシュしてくれば良いじゃないですか」
こうしてミツヒロに見舞いを受けているだけで、ミヨコはまた同僚たちからあれこれと問い質されることになりそうだった。あらぬ噂を立てられる前に、ミツヒロには業務に戻ってもらいたい。後は彼女なりなんなりを作って、家庭を持って落ち着いてしまえば看護師たちも静かになってくれるだろう。ミヨコとしてはそんなことよりも、自分の仕事の方に集中していたかった。
「今、してますよ。雰囲気もへったくれもありませんけどね」
「何ですか、それ――」
ふわり、と優しく髪を撫でられた。ミツヒロの言葉の意味に気が付くのと同時に、ミヨコは何も声を発することが出来なくなった。廊下の外を、がやがやと看護師の集団が通り過ぎていく。ミツヒロの眼は、真っ直ぐにミヨコを見つめていた。
3日ぶりの我が家、だ。ユミコはさっさと靴を脱いで上がり込むと、リビングの真ん中に立ってぐるりと一通り見回した。冷蔵庫の中身はもう完全にアウト。掃除は軽くホコリを払う程度で。まだ使えそうな一部の食材と、最小限の衣類はハンドキャリーする。
ぱぱぱっと、ユミコは頭の中で今日の行動方針を固めていった。合計で三時間くらいか。それでも限界まで切り詰めての見積もりだった。さあ、もたもたしている余裕はないぞ。ユミコは「よしっ」と声に出して気合を入れると、早速動き始めた。
テルアキの実家に押しかけてからは、すっかりマンションのこちらの部屋とはご無沙汰になってしまっていた。ユミコはもう、三回もテルアキと夜を共にしている。半同棲生活から、同棲生活に格上げだ。家族そろって祖母の家に帰省中のヨリにその話をメッセージで送ったら、どう解釈するべきなのか良く判らないスタンプを返してきた。祝福、であると受け取っておこう。
それでユミコが晴れてテルアキの愛人になったのかといえば、残念ながらそんなことは全然なかった。相変わらずを通り越して、むしろ数歩ばかり後退してしまった雰囲気だ。スキンシップが出来るようになったのは前進。心の距離が今ひとつ測れなくなってしまったのが、判別に困るところだった。
幼馴染で初恋の相手だったミヨコとの再会は、テルアキの中に暗い影を落としていた。二十年以上の時間をかけて、テルアキはようやくその想いに応えられる自分を見つけられそうだったのに。ミヨコはテルアキとの関係を諦めて、新しいパートナーと人生のやり直しを始めていた。
何もかもは、遅すぎた。こんなのは、よくある男女の擦れ違いの一つでしかない。しかし人生のありとあらゆるものを失っていたテルアキにとっては、ミヨコの存在は格段に特別なものだった。
『テルアキには、ユミコさんが必要なんだ』
テルアキの家まで食事を配達してきた際に、ケンキチはそう言ってユミコに頭を下げてきた。甘く見られたものだ。『翡翠の羽』の特製出前料理を受け取りながら、ユミコはケンキチに向かってむすっとむくれた表情を浮かべてみせた。
「ケンキチさんは、私のことを何だと思ってるんですか?」
ユミコはテルアキの――愛人候補だ。愛していると請われて、テルアキのもとにやってきた。ならばユミコが帯びている使命は明確だった。
目いっぱいに愛されて、それ以上の愛をもってお返しをする。テルアキは既に、溢れんばかりの愛情をユミコに注いでくれた。だったらユミコがしなければならないことは、考えるまでもなく決まり切っていた。
まずは、不健康な生活の改善からだ。大切なユミコの飼い主様が、アルコール中毒で死んでしまっては洒落にもならない。ユミコはテルアキの傍について、飲酒量を減らすように努めることにした。
具体的には、夜寝る前に一緒に話をする。たったそれだけでも、テルアキに対する効果は抜群だった。テルアキの深酒の一番の要因は、孤独だ。この広い家の中で過去の思い出にばかりすがって、自分の内面にこもってしまうことがそもそも良くない。一ミリも秒針が動いていないこの家の空気を、ユミコが僅かずつでも変えてやる必要があった。
「ユミコさん、いつまでうちに泊まる気なんですか?」
「夏休みですからね。合宿、ということで」
最初は難色を示していたテルアキも、結局はユミコに押し切られて白旗を上げざるを得なかった。炊事洗濯テルアキの身の回りの世話。ユミコはそれらを全部こなして、テルアキの生活を支える基盤をあっさりと手中に収めてしまった。こうなってしまっては、反抗をしようにも何一つ言い返せない。比喩表現ではなく、朝起きてから夜眠るまで、テルアキはユミコを見ないですごすことは不可能だった。
「マンションの部屋はどうするんですか。着替えとかも、いつまでもケンキチとかチカちゃんに頼ってはいられないでしょう」
「そこなんですよねー」
チカもケンキチも、快くユミコのやることに協力してくれた。お陰様で、現在この家には引きこもりが二人いる状態だった。働き者の引きこもりと、自称傷心のやる気のない引きこもり。やる気がない方も、徐々に快方には向かっている様子だ。テルアキはお酒を飲まなくても、ユミコが横にいて手を繋いでいれば眠れるようになった。たったそれだけの行為なのに、ユミコはすっかりテルアキの愛人にされている気分だった。
「じゃあ一度マンションに戻って、片付けとか必要なものを取ってきたりとかしますけど、お酒は飲まないでくださいね」
「判りましたよ」
玄関を出る時に、一度きゅっと掌を強く握りあった。大したことでもあるまいに、それはまるで特別な儀式のようだった。普通こういう場合は、いってらっしゃいのキスとかではなかろうか。この調子では本当の意味での『愛人』になるのなんて、まだまだずっと先のことだった。
――まあでも、恋ってこんなもんかな。
何でもないことが気恥ずかしくて、どきどきとする。テルアキの傍を離れるのが不安で、もっと近くにいたいと願ってしまう。それで何かをする訳でもない。ただ、一緒にいることが幸せに感じられる。
ああ、そうか。
テルアキがユミコのいるマンションを訪れる際には、こんな気持ちだったのだ。
久しぶりに自分の部屋に入って、ユミコはベッドの上に倒れ込んでみた。帰ってきた感が半端ない。ここはもう、ユミコの場所だった。ただいま。シーツを手繰り寄せて、抱き締めてみる。テルアキが来てくれれば、もっと最高なのにな。「おかえりなさい」という言葉が、こんなに懐かしくなるとは思いもしなかった。
さて、のんびりしている暇はない。下着とか部屋着、すぐに使うものはカバンに押し込んでいく。後は宅急便でまとめて送り付ける予定だ。このベッドはお気に入りではあるが、いくらなんでもやめておくか。テルアキが引っ繰り返る姿が、瞼の裏に浮かび上がってきた。「ユミコさんは何がしたいんですか」「そうですよね、ベッドならダブルですよね」うん、そんな感じかな。
彼氏に家にお泊りとか、本当ならどっきどきのわっくわくでなければならないイベントだ。唐突にやってきたそれを、ユミコはなし崩し的に数日もこなしてしまっていた。なんというもったいなさだ。テルアキには是非ともそれを補償してもらわなければならない。もちろん、現金以外の手段で。
余計なことばかり考えて、ユミコは自分でも感情が上滑りしているのが良く判った。冷静になってみれば、夜ずっと手を繋いで寝ているのなんて、充分にすごいことだ。こんなの、誰にだって出来る訳じゃない。
――好き、なんだろうな。
認めてしまえば、なんてことのない感覚だった。ウキウキして楽しい。ユミコは部屋に置かれた鏡の方に、ちらりと視線を向けてみた。なんと無防備で、だらしのないにやけ面か。ちょっと気を引き締めておかないと。
今のユミコは、テルアキを救う大切な役割を担っている。くるり、と一回転して全身を確認した。若さしかなくても、それだけは盛り沢山。テルアキを幸せにするにはこれが一番大事な要素であり、ユミコにとって最大の武器だった。




