ねむりにおちるまで(5)
目が覚めた。真っ暗な中で、ユミコはむくりと身体を起こした。エアコンの静かな作動音だけが、微かに耳に届いていた。枕元に置いた携帯を確認すると、まだ夜半過ぎだった。
やはり慣れない環境だと、ぐっすりとは眠れないものなのか。うん、とユミコは伸びをしてみた。今日は一日色々とあって疲れているはずなのに、ちっとも眠くならない。すっかり覚醒してしまって、手持ち無沙汰だった。
日が暮れると、ケンキチがチカを伴って夕食の配達に訪れてきた。チカはユミコからの連絡を受けて、ユミコのサイズの着替えを持ってきてくれた。それを見て、流石のテルアキも腹を括った様子だった。嫁入り前の女性がどうのこうのとぶつぶつ呟いていたが、説得力皆無、戯言もここに極まれり、だ。
ご飯を食べてお風呂に入って。何もない内藤家での夜は、いつもと変わらない二人の生活だった。一つだけ違うのは、このまま朝を迎えるということだ。ユミコには二階の一室があてがわれた。
「テルアキさんのお部屋でも構いませんよ?」
「客用の布団があるって、知ってるんですよね?」
残念、情報を出す順番を間違えたか。何もない、がらんとした六畳の和室だった。まだ緑色の残る畳から、イグサの匂いがふんわりと感じられる。生家のことを思い出して、ユミコはすぐにその部屋が気に入った。
以前、何度かケンキチが泊まりに来たことがあったらしい。「布団がおじさん臭かったら言ってくれ」と、テルアキも結構ひどい言い草だった。そういう憎まれ口が叩けるなら、もう大丈夫だ。ユミコも「テルアキさんで慣れてますから」と応戦しておいた。
テルアキはこの家に一人で住んでいるのに、どの部屋もきれいに片付けられていた。ユミコは家中を掃除して回ったが、汚れらしいものはほとんど見当たらなかった。テルアキの性格、なのだろう。わざわざここに帰ってきて、綺麗にして。失ってしまった何かを取り戻そうとして、必死になっているのかもしれなかった。
家族全員と死別したテルアキの悲しみは、ユミコには推し量ることが出来なかった。ユミコの家族は、みんな元気にしている。祖母なんて九十を超えてまだピンピンとしていた。親族の葬式には出たことはあっても、本当に近しい人を亡くした経験は持ち合わせていなかった。
頼もしかった父親が、ある日突然自分の目の前で首を吊って死んでいた。後を追うようにして、母親がダイニングで睡眠薬を飲んで息を引き取っている。唯一残された弟は、火災現場で見も知らない女の子を助けようとして炎に包まれた。
たった一人になってしまったテルアキの心は、暗闇に飲み込まれた。「何も覚えていない」と語る、十年以上の月日がそれを如実に表していた。人生の恐らくは最も輝かしい時期の大部分を、テルアキは虚無で埋め尽くしてしまった。
そして――ミヨコの存在だ。
くさくさと悩んでいても仕方がない。ユミコは勢いをつけて立ち上がった。冷蔵庫に麦茶を作っておいたはずだ。それでも飲んで咽喉を潤したら、もう一度眠ろうとしてみよう。テルアキを起こさないようにそうっとドアを開けると、ユミコは一階に降りる階段へと足を運んだ。
「……何やってるんですか、テルアキさん?」
「ユミコさん、眠れないんですか?」
ダイニングの方から灯りが漏れていたのを見て、まさかと思ったらやっぱりだった。テルアキが一人、テーブルに向かってグラスを傾けている。その前には、既に空になったワインの瓶が数本置かれていた。
「テルアキさん、お酒飲むの珍しいですよね」
ユミコが知っているのは、最初に出会った夜の夕食の時ぐらいだった。あの時テルアキは、グラス一杯のワインをちびちびと口にしていた。それ以来、テルアキがユミコの前で飲酒をしたことは一度もなかった。
「実はそうでもないんです。飲まないと、眠ることが出来なくて」
テルアキはバツが悪そうな顔をして、それからグラスになみなみと注がれたワインを一息に飲み干した。酒に馴染みのないユミコでも判るくらい、不健康な飲み方だった。ユミコはテルアキの正面にある椅子に腰かけた。
「いつもこうなんですか?」
「そうですね、大体二本も飲めば眠れるんですけど……今日はどうしてか、うまく酔えない」
その理由には、お互いに共通の心当たりがあった。ユミコはグラスをもう一つ持ってくると、半分くらいの位置まで深紅の液体を注いだ。酒はあまり飲み慣れていないが、子供の頃は神社の御神酒を二合ほど拝借して平然としていた過去がある。こんなアルコール度数のぬるいワインぐらいで酔い潰れるとは、到底思えなかった。
チン。
ガラスの触れ合う、静かな音が広い家の中に響き渡った。テルアキの顔色は、驚くほどに青白かった。酔っているにしても、これはあまり筋の良いものではなさそうだ。ユミコは水みたいに軽いワインを口に含むと、あっさりと嚥下した。酒には詳しくはなかったが、上等な代物に間違いなかった。
「――情けない男ですよね」
テルアキのグラスは、また空っぽになっていた。放っておけば、無尽蔵に飲み続けてしまいそうだ。テルアキには、こんな側面もあったのだ。それを知って、ユミコは悲しくなった。テルアキはユミコに対して、自分の内面に忍ばせてある数多くのことを見せてくれていたと思っていたのに。テルアキの中にある闇は、どこまでも深かった。
「俺は心のどこかで、ひょっとしたらミヨコは俺のことを待っていてくれてるんじゃないか……なんて。そんな甘ったれたことを考えていました」
テルアキの言葉は、ユミコの胸に深く突き刺さった。テルアキの心の中にいるのは、どうしてもミヨコだ。テルアキが、内藤家が苦しい時に傍に寄り添って、甲斐甲斐しくあれこれと手伝ってくれた存在。そんなミヨコのことを、テルアキの方だって意識しないはずがなかった。
いつか、テルアキの周りの全てが落ち着いたのならば――テルアキはミヨコの想いを受け入れるつもりでいた。
「家族のこともあったし、ケンキチのこともあった。俺はミヨコの気持ちを利用するばかりで、何も報いてやれなかった。それでも――」
それでも、ミヨコならテルアキのことを一番に考え続けてくれている。
実に虫が良い発想だった。テルアキ自身、そう思った。ユミコのことをあれだけ愛していると語ったのと同じ口で、ミヨコへの未練をだだ漏れにしている。情けなくて、テルアキにはユミコに合わせられる顔なんてなかった。
ミヨコはテルアキから離れて、自分の幸せを見つけた。正しいことだ。テルアキ自身も、そうであるべきだと判っていた。
しかし判ってはいても――納得は出来なかった。
「今頃になって、俺はミヨコを失うことの意味を思い知らされた。それと同時に、ユミコさんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。俺は何をしているんだろうって……」
恋がしたかった。
誰かを好きになる感情を、テルアキはユミコの中に見出した。失くしていた、大切な気持ちだった。ユミコがいてくれれば、テルアキはきっとそれを取り戻すことが出来る。ユミコと一緒にいるだけで、テルアキの毎日は光に満ち溢れていた。
忘れた頃に手に入れた遅すぎる財産は、この時のためのものだと信じられた。惜しいものなんて、何もない。テルアキはユミコに全てを捧げると誓った。テルアキの人生は、ユミコそのものになった。
だがそれは、気の迷いであったのかもしれない。
テルアキには、ミヨコがいた。いつも寄り添って、テルアキのことを慕ってくれて。テルアキだけでなく、テルアキの家族のためにも手を尽くしてくれて。
最後には、深く傷付けてしまった幼馴染の女性。
「ユミコさん。俺はユミコさんを、ミヨコの代わりにしているのかもしれない」
テルアキの声は、震えていた。その考えは、テルアキにとってはあまりにも恐ろしいものだった。
無意識のうちに、テルアキはミヨコのことを求めていた。映画館で出会ったユミコの中に、テルアキはミヨコの面影を見たのではなかろうか。ユミコに対して抱いたこの恋心は、本当はミヨコに向けられたものではないのか。
二度と離したくないという願い。それが、過去の自分がミヨコに持っていた劣情の表れでしかないのであるとすれば。テルアキのしていることは、一体何なのだろうか。誰も喜ばない。誰も幸せにならない。あまりの愚かしさに、テルアキは自分の殻の中に閉じ籠ってしまった。
「お金が補償になるとは考えていません。でもユミコさんには、払えるだけの額を支払います。だから――」
これで終わりだ。テルアキはユミコを傷つけたくなかった。ユミコには、自由と幸福を手にしてほしかった。自分の中にある『好き』という気持ちまで、否定したくはない。テルアキの愛人としてではなく、もっと別なカタチで。その方が、きっとユミコのためにもなる……
「馬鹿言わないでください!」
ダンッ、とユミコはグラスをテーブルに叩き付けた。驚いてテルアキが飛び上がる。このおじさんは、どうしてさっきから好き勝手に自分語りをしているのか。ユミコは不愉快でたまらなかった。
テルアキの話には、テルアキしか出てこなかった。テルアキと、死んでしまった家族と。後はテルアキの妄想上のミヨコだ。現実に生きている人間は、実はテルアキしか登場していないのだ。後は全部、テルアキが考えた架空の世界の物語でしかなかった。
「そうやって引きこもってばかりいるから、良からぬ想像を働かせるんです。その証拠に、テルアキさんはちっとも私のことを見ていないじゃないですか」
そこが一番の問題点だった。テルアキが語った内容には、これっぽっちもユミコが含まれていなかった。それなのに、やれユミコのためだ幸せがどうのこうだ何だと。テルアキの言葉は、どこまでいっても独りよがりの偽善でしかなかった。
大体ユミコの気持ちをちゃんと理解しているのならば、そんな結論は導き出されないはずだった。
「テルアキさんは、私を何にするんでしたっけ? 愛人ですよね?」
六ヶ月を超えて、テルアキの下に残るのであれば愛人になる。ユミコはテルアキと、そう約束していた。それを反故にした覚えは、とんとない。ならばその約定は、まだ『生き』だろう。
「良いですよ。私はそれだけの覚悟を持って、今まだテルアキさんのところにいるんです。テルアキさんの中にある全部、それが綺麗でも汚くても、ありったけ私にぶつけてくださいよ」
それが例え、ミヨコという女性の代理であったとしても。ユミコがテルアキの『愛人』となるなら、受け入れなければならない。欲望の捌け口でも、何でも良かった。見返りを貰っている以上、ユミコはそれをこなすだけだった。これは他でもない、『愛人』になる契約なのだから。
「それでもテルアキさんのところになら……残っても良いって……思ってるんですよ……」
内藤テルアキという男性になら、このまま何をされても構わない。数ヶ月をかけて、ユミコはテルアキという人物をそう判断していた。テルアキは、ユミコをユミコでなくすような無茶な要求はしてこない。むしろユミコを大切に扱って、一緒に歩いていこうとしてくれる。『愛人』なんて言葉に惑わされないくらいの、本当の意味での愛情を与えてくれる人だった。
かつてテルアキは、ミヨコという女性に恋をしていた。だから何だ。ユミコだって、ヒロキのことが好きだった。ヒロキと結婚して、農家で暮らす未来を夢想しなかった訳じゃない。テルアキが自分の相手として不適格だったら、ヒロキに助けてもらうつもりですらいた。
もうそんなこと、関係ないじゃないか。ミヨコはテルアキを諦めて、どこか遠くの地で自分のパートナーを見つけた。テルアキの中に後悔の念があることは、ユミコに止められることじゃない。それはきらきらと輝く過去の宝物として、心の金庫にでも仕舞っておけば良い。
「テルアキさん、手を出してください」
おずおずと差し出された右の掌を、ユミコは優しく握った。アルコールのせいか、僅かに火照っている。身を乗り出して、自分の頬に触れさせた。テルアキの手指は、年齢の割には肌理が細かくてすべすべとしていた。嫌な気分はしない。むしろ、とても心地好かった。
「私は――ここにいますよ。忘れないでくださいね」
戻らない過去を嘆くよりは、これからのことを考えるべきだ。テルアキなら、それが出来る。いや――
ユミコなら、きっとテルアキを導いていける。このままこの人を、暗闇の中に置いていく訳にはいかない。テルアキの掌のぬくもりを、ユミコは自らの身体の奥深くにまで染み渡らせようとした。
「まだ、眠れそうにありません。ユミコさんは先に部屋に戻ってください」
「いいえ、傍にいます。テルアキさんがちゃんと眠りに落ちるまで、きちんと見届けさせてください」
片時でも、ユミコはテルアキから離れるつもりはなかった。テルアキは多分、まだ判っていない。ユミコがどんな意志を持ってこの場所にいるのかを。
恋がしたかった。結構な話だ。それならそうと言ってくれれば、ユミコだってそれなりのことはしてあげられたのに。ユミコはその要求を、上手く満たせていたのかどうか。テルアキを惑わせて、振り回して。マンションの部屋で過ごした日々は、テルアキに素敵な恋の夢を与えられただろうか。
テルアキは黙って右手をユミコの好きにさせていた。片手では自由がきかないせいもあって、ワインを飲むペースはぐっと落ちた。その代わりに、ユミコの掌を握る力が、たまに強くなることがあった。
良い傾向だと思う。ユミコはちゃんとそこにいて、現実のテルアキを待ち続けている。テルアキが眠って、目が覚めた時にもそこにいる。一番近くで、誰よりも早く「おはよう」と声をかける。
「テルアキさん」
呼びかけてみて、返事がないのを確認した。テルアキは椅子に座ったまま、舟を漕いでいた。二階まで運ぶのは無理だから、布団を降ろしてこないといけない。手間のかかるおじさんだ。
ユミコはにっこりと微笑むと、誰にも聞こえないような小さな声でそっと囁いた。
「私は貴方に恋をしましたよ、テルアキさん」
第6章 ねむりにおちるまで -了-




