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愛人契約はじめました  作者: NES
第1章 ここであなたと
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ここであなたと(3)

「最後の台詞せりふ、意味深でしたよね」


 誰もいなくなったと思っていたところで突然話しかけられて、ユミコは驚いてそちらに顔を向けた。最初からそこにいたのか、隣の席にはグレーのスーツ姿の男がゆったりと背もたれに体を預けていた。

 ユミコが姿勢を正しても、男は何も映っていないスクリーンの方をじっと見つめたままだった。男がユミコと同じであることに、ユミコはすぐに気が付いた。男の視線の先には、ヒロインと主人公の生きる世界がある。ヒロインの発した言葉の意味を探って、男もまたその場から離れられなくなってしまっていた。


「そうですね。ちょっと考えさせられます」


 誰もいない劇場の雰囲気に魅せられて、ユミコは男との会話に乗ることにした。今夜はどうせ、一人で帰って寝るだけで終わってしまう。それならば、わずかばかりの楽しみがあったとしても悪くはなかった。


「映画の字幕って、時間との兼ね合いであまり難しい表現は出来ないって聞いてます」


 アルバイトで翻訳の仕事をしている関係上、ユミコはその手の話にはある程度明るかった。秒単位で目まぐるしく場面が切り替わる映画では、観ている人の注意を字幕が引き付け過ぎてはいけない。そのため字幕翻訳には、一瞬でその意味が読み取れるような絶妙な言い回しが要求された。

 それが時に、『超訳』などと揶揄やゆされるような微妙な言葉選びへと繋がってしまう。これはそういった映画字幕ならではの制約に起因した、翻訳者たちの怨嗟えんさの叫びの現れなのだそうだ。


「だとすると、あの字幕は絶妙なのか、手抜きなのか……判断が難しいところですね」

「『愛してる』って表現は、すごく具体的でもあるし、同時に抽象的でもありますからね。あの台詞せりふの訳としては、実はそれが一番正しいのかもしれません」


 どう受け取るべきか判らない言い回しで、けむに巻いて終わっている。そう考えてみると、英語でも日本語でも得られた結果は同じことだ。それならばあの場面で『愛してる』という訳語をチョイスしたのは、理にかなった判断なのではなかろうか。

 実際に、ヒロインと主人公があの後どう生きていくのかを想像してみれば。そこには、相当な苦しみが待っているはずなのだ。その未来予想図を、『愛してる』のたった一言で片付けてしまおうだなんて。この荒唐無稽こうとうむけいな映画の最後をいろどるのには、最も相応ふさわしい台詞なのかもしれなかった


「すいません、突然話しかけてしまって。でも、同じようなことを考えている人がいてちょっとホッとしました」


 男は屈託くったくのない笑みを浮かべて、初めてユミコの方に目線を投げた。第一印象は相当なおじさんだったが、よくよく見るとそこまでではないかも知れない。声が低くて落ち着いていたのも、年齢の判断を誤らせた要因の一つだ。ユミコはぺこり、と小さく頭を下げた。


「あの、大変不躾(ぶしつけ)な申し出だとは思うのですが――この後お時間はいただくことは出来ますでしょうか?」


 清掃の係が入ってきて、いい加減そろそろ席を立とうかというところで男が声をかけてきた。ユミコは軽く首をかしげて、それから頭の中で鳴り響いている警戒信号をオフにした。男は物言いも丁寧だし、こちらの領域への入り方も大変ソフトだった。繁華街の客引きなんかよりは、よっぽど信頼が置けるだろう。


「……まあ、そんなに遅くならないのであれば」

「良かった。では一緒に夕食を摂りながら、お話に付き合っていただくことはかないますか? こちらのわがままなんですから、帰りのお車代ぐらいは出させていただきますよ」


 ユミコは少しだけ考える素振りをした。結論は、とっくに出ている。高い食事をおごると言われたら断るつもりだったが、どうやらそうではないらしい。男とおしゃべりすることを、ユミコは正直ちょっと楽しいと思い始めている。変なところに連れ込まれそうになったら、その時改めて逃げ出せば良いか。

 どちらにしろ、その夜のユミコは近日中にアパートから退去しなければならないという事情もあって、半ば自暴自棄になっていた。むしろ派手に何らかの事件にでも巻き込まれてしまった方が、実家の連中には幾ばくかのダメージを与えられるのではなかろうか。そんな馬鹿げた妄想ですら浮かんでくる。破れかぶれ、とまでは言わないが。

 それでも、大きな波の中に自分から飛び込んでしまいたいような、そんな気分であったことだけは確かだった。


「じゃあ、近くのあまり高くないお店なら」

「はい。了解いたしました」


 男はにっこりと微笑んで、丁寧に一礼してみせた。これが、ユミコとテルアキの出会いだった。



 テルアキがユミコを連れて入ったのは、本当に映画館のすぐ横にあるイタリアンレストランだった。ディナータイムで、席にはグラスに入ったキャンドルのあかりが揺れている。薄暗いムーディーな空気の中で、ユミコはさりげなくメニューの値段を確認した。


「大丈夫ですよ。本当に普通のお店です」

「助かります。今夜は持ち合わせが少なくて」


 映画の券は、たまたま友人のヨリから貰い受けたものだった。アパートで腐っているとむしゃくしゃしてくるだけなので、ユミコは気分転換にでもと思って劇場に足を運んだのだ。夕食は作る気にもなれなかったので、はなから外食の予定だった。このレストランのパスタなら、きっちり予算の範囲内で済ませられる。


「ピザも一枚頼みます。これは一人では食べきれないので、適当につまんでいただけた方が助かります」


 てきぱきと、テルアキはウェイターにオーダーを済ませた。すぐにユミコが格好付けて頼んだアイスジャスミンティーと、テルアキのワインが運ばれてくる。かちん、というグラスの触れ合う音があまりにもわざとらしくて、ユミコはつい噴き出してしまった。


「慣れてるんですか、こういうの?」

「いやいや、正直に白状してしまうと、初めてなんですよ。こういう風に女性に声をかけるのは」


 それはそれは。大変お上手でいらっしゃる。どの程度割り引いて聞けば良いのやら。ユミコのもの言いたげな顔を見て、テルアキはやれやれと肩を落とした。


「解釈はお任せします。あの映画の、最後の台詞せりふのようにね」


 そうだ。この縁を取り持ったのは、ヒロインの発した不可解な一言だった。今はその共通の話題について語った方が、お互いにとって有意義な時間を過ごすことが出来るだろう。キャンドルのあわい炎に照らされながら、ユミコはテルアキと先ほど観た映画の感想話に花を咲かせた。




 杜若かきつばた女子大学は、テルアキのマンションからは地下鉄で数駅の距離にある。その気になれば、ぶらぶらと徒歩でも通えるくらいの近さだ。部屋の向きが逆側なら、窓からキャンパスの全域を望むことすら出来ただろう。

 敷地面積はそれほど広くはない。数棟の建物がまとまって並んでいるだけで、キャンパスと呼ぶよりはビル群といった感じがする。それでも体育館や講堂、生協に食堂まで完備している立派な四年制大学だった。


 ユミコが午後の講義の教室に入ると、待ちかねたようにヨリが近付いてきた。先頭の席は、大体ユミコとヨリの専用スペースだ。英文学科なんて、余程の物好きでもなければ単なるモラトリアムの受け皿でしかない。それが女子大ともなれば、その色合いはより一層濃いものになる。ユミコもヨリも、まじめに勉強をしているという点では共通した変人扱いだった。


「ユミコ、おはよ。今日はどうだった、何もなかったの?」

「おはよう、ヨリ。本日も平穏かつ健全な朝を迎えられましたよ」


 カバンからテキストとノート、筆記具を取り出して机の上に並べる。出席にうるさくない講義なので、学生の数はパラパラとまばらだった。遅れてくることが常態の教授なので、講義の開始までにはまだ時間がある。それまでは、ヨリの質問タイムに付き合わなければならなそうだ。

 ヨリとは、大学に入ってからの友人だった。何がきっかけで仲良くなったのか、ユミコははっきりとは記憶していない。確か学食で好きな本だったか映画だったかの話で盛り上がって、それから並んで授業を受けるようになった。

 テルアキとのことを話したのは、ヨリの他には誰もいない。というより、ユミコの交友関係は極めて限定的だった。ほとんどの同級生たちは大学生活を部活や恋愛にと、自らの青春に捧げている。

 東京に出てきてから、ユミコはあまり人間関係の構築には興味が持てなかった。周りにいる同年代の相手と、どうにも波長が合わないというのもある。しかし何よりも決定的なのは、生活のためのアルバイトに奪われる時間が非常に大きいということだった。

 そう考えると、テルアキのところで資金援助を受けられる今の状態は転換点となりえるのか。ユミコは自分の中に沸いたその雑念を、すぐに否定して消し飛ばした。テルアキのマンションは、半年という期限付きだ。出ていくにしても残るにしても、その先のことまでは判らない。


「じゃあ、本気なのかな、六ヶ月は何もしないって」

「そういうところは信頼出来る人だと思ってるよ。最初から『絶対に何にもしないから』とか言い出す男よりはね」

「そりゃそうかもだけどさ」


 ヨリの交友関係は、ユミコよりもずっと広い。ユミコはヨリに、実家と折り合いが悪い中での独り暮らしという事情については既に打ち明けている。その流れで、テルアキのマンションに転がり込んだ際も、ついぽろっと口を滑らせてしまっていた。

 すわ、あっという間に噂になるのかと思いきや――意外にも、ヨリは誰にもその事実を口外していない様子だった。見た目はちょっと遊んでる系の女子大生なのに、妙なところで義理堅い。今もヨリはユミコの相談に乗りながら、他に良い物件がないかと不動産の情報収集までしてくれていた。


「でも危ないことには変わりはないんだから、なるべく早くそのマンションからは出た方が良いよ」

「うーん、そうは思っているんだけど、なかなか、ね」


 実際のところ、ユミコはテルアキのマンションでの生活に取り立てて何の不満も持っていなかった。他人から見れば中年男性との半同棲生活なんて、言語道断も良いところだろう。実家辺りが知れば、泡でも吹いて倒れてくれるかもしれない。それはそれで是非とも拝んでみたい状況だ。

 現実には、ユミコは一日のうちでテルアキと顔を合わせる機会は一度あれば良い方だった。ユミコが大学に出かけてからテルアキはやってきて、ユミコが帰る頃にはいなくなっている。今日はたまたま食事を一緒にしたが、これはかなりのレアケースだった。

 着替えや風呂を覗かれたりとか、寝込みを襲われたことも全くない。テルアキには「心配なら内鍵をかけておいても良い」とまで言い渡されていた。これだけ接点がない状態では、半同棲どころか名義上同棲とでも表現した方が良さそうなレベルだ。


「ハウスキーピングのアルバイトだと思えば、それに近いかな?」


 テルアキはユミコに部屋を使ってもらって、そこに生活感が満ちあふれることを喜んでいた。あの場所に人が暮らしている、という実態が大事なのだろう。であるのならば、これはそういう仕事であると割り切ることも可能なのではなかろうか。


「六ヶ月の話がなければ、でしょ?」

「うん。そこなんだよね」


 単純な住み込みでないことは、最初にテルアキから明言されていた。男女が二人で同じ屋根の下に住むのだから、これはある意味当然の帰結ともいえる。ただし、今はまだ何事も起きない。テルアキが約束を守るタイプの男性であることは、この一ヶ月でユミコは良く理解していた。


「テルアキさんは、私のことがお気に入りなんだって」


 下心があることは否定しない。それだけではなくて、もうちょっとまともな好意も持っている。テルアキは自らの気持ちを率直にそう述べて、ユミコに対して目に見える形での援助を提供したいと申し出てきた。

 それがテルアキの所有している、あの部屋だ。テルアキはユミコがそこで何不自由なく生活出来るように、便宜べんぎはかってくれるとのことだった。


「六ヶ月を超えてそこに居続けるのなら、私はテルアキさんの気持ちを受け入れた、とみなされる。ぶっちゃけ、愛人になるってことだよね」


 テルアキはこれまで、ユミコが嫌がることは極力避けてくれていた。会話の内容一つをとっても、恐ろしく気を遣っているのがありありと判ってしまう。ユミコと顔を合わせないようにしているのも、それが原因だと思われた。

 その点については、ユミコの側にも少々物申したいことがあった。本気で嫌なら、最初からこんな常識外れな提案に乗ったりはしない。仮にあの約束を交わした際には、ひと時の気の迷いが生じていたのだとしても。それならそれで、今頃はさっさとネットカフェやら何やらに避難している。ユミコは他ならぬ自らの意志に従って、テルアキのマンションに留まっていた。


「テルアキさん、どうも悪い人じゃないっぽいんだよね」

「ユミコ、それまずい。おかしくなりかけてるから」


 そうなのだろうか。一ヶ月間何もなかったのだから、そろそろ信じても良いのではないか、などと思い始めている。今日テルアキと話をしてみて、あれこれと好奇心が首をもたげてきたのも確かだ。その辺にごろごろしている脂ぎったおじさん連中なんかと比べれば、テルアキはずっとダンディで素敵な男性だった。愛人は無理でも、現状程度の共同生活をこなすくらいならば何の問題も感じられない。


「今日は久しぶりに一緒にお昼ご飯を食べてね、そこでわがままを聞いてほしいって言われちゃった」

「んなっ!」


 ヨリの顔色が、赤くなったり青くなったりと目まぐるしく変化した。ヨリの中では、テルアキの口から果たしてどれだけ破廉恥はれんちでふしだらな要求が発せられたことになっているのか。テルアキにはむしろそうはっきりと言ってもらえた方が、ユミコもある意味とても対応が楽だった。

 もしそんな事態になったとしたならば……安心して、テルアキを力いっぱいにひっぱたいてやって。それで、何もかもはオシマイだ。住む場所だって、その気になれば何とか出来るだろう。


 残念なのか何なのか、テルアキはユミコに対してそんな態度を取るとは微塵みじんも思えなかった。むしろ、どうにも奥手過ぎるきらいすらある。仮に今のテルアキのその姿勢が、そうやってユミコの心に少しずつ入り込んでくるための戦略なのだとしても。その先に待っているものを見てみないことには、ユミコはどうにも気が済まなかった。


「晩ご飯を作ってほしいんだって。とりあえず今夜は、マンションで食べるんだってさ」


 昼食だけでも珍しいのに、夕食までとなるとスーパーレアだ。お昼のパスタのリベンジには、丁度良かった。メニューのリクエストも貰ってあるので、大学が終わったらスーパーに寄ってから帰るつもりだった。


「その後で、ユミコまで美味しくいただくって算段じゃないよね?」


 ヨリの発想があまりにもオッサンしていて、ユミコはケラケラと声を上げて笑ってしまった。それと同時に、講義室に初老の教授が入ってくる。ぎろりと鋭い眼光で睨み付けられると、ユミコはばっくんと口を閉じてうつむいた。

 当のヨリの方は、ふいっと素知らぬ顔をしている。ずるい。もし今夜テルアキとの間にロマチックな何かがあったとしても、報告は絶対に明日まで遅らせてやる。黙ってテキストを開きながら、ユミコは固く心に誓っておいた。


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