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愛人契約はじめました  作者: NES
第6章 ねむりにおちるまで
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ねむりにおちるまで(4)

 この家に上がるのは、テルアキの母親の葬式の日以来だった。手伝わなければならないことがいくらでもあったのに、何も出来ずに帰されてしまった。ヨシヒコが良く動いてくれていたと思う。そのヨシヒコももう、鬼籍きせきに入ってしまった。ミヨコは物のないリビングの空間を、目を細めて見つめていた。


「こっちに戻ってきてからは、何年も経っていなくてね」


 キッチンの方から、テルアキの声とコーヒーの香りが流れてきた。「おかまいなく」今日も、そんなに長くはいられない。テルアキが勤め人なら、今までの時間帯では出会うことが難しいと判断したのは正解だった。ミヨコも午後からは仕事がある。無理をしてここまできている関係上、可能な限り早く戻る必要があった。


「ヨシヒコくんは、残念だったわね」

「本当にな。ヨチコにだけは、まともな人生を歩ませてやりたかった」


 ダイニングのテーブルにつくと、テルアキはコーヒーを一口(すす)った。ミヨコはその正面に立って、椅子には腰掛けずにカップを手に取った。行儀が悪いと思われるだろうが、仕方がない。ミヨコはかつてここで――死の場面に出くわしたのだ。

 転がっている薬瓶と、ぴくりとも動かないテルアキの母親。半狂乱になったミヨコを、テルアキが支えてくれた。叫び出したいのは、テルアキの方であったろうに。今にして思えば、情けない限りだった。


「でもテルアキが元気でいてくれて、私はほっとした。ずっと、心残りだったから」


 この家からテルアキとヨシヒコがいなくなって、二十年以上の月日が流れていた。ミヨコはあれ以来、テルアキの前に姿を見せることが出来なかった。大学を辞めていないことは知っていたので、その気になれば訪ねることは難しくなかった。ただどうしても、自分の中で踏ん切りを付けられなかった。


 そうこうしているうちに、ミヨコ自身も家庭の事情で転居を余儀なくされた。テルアキのそばにいたい。そう思ってはいても、ミヨコにはその資格があるのかどうか。苦悶の念をいだきながら、ミヨコはこの町を去ることになった。


「俺も、ミヨコには会いたかった。会って、伝えたいことが沢山あったんだ」


 中学高校と、ミヨコは毎日のように内藤家に通っていた。洗濯をして、料理をして。まるで母親がもう一人いるみたいだった。その行為に対して、テルアキは純粋に感謝の気持ちを持っていた。


「ありがとう、ミヨコ。俺は――ずるい奴だったな」


 テルアキの言葉に、ミヨコはふるふると首を横に振った。そんなことはない。自分がやりたいと思ったから、ミヨコはそうしていただけだった。動機が不純と言われれば、それはお互い様だ。テルアキと一緒にいるために、ミヨコは内藤家の事情を利用したにすぎなかった。

 最後にはそこから逃げ出してしまった自分を、ミヨコはずっと責め続けていた。


「いいの。私が、勝手にしていたことだから」


 そうだ。結局は、自分勝手のわがままだった。ミヨコは黒いコーヒーの液面を見下ろした。今だって、そう。テルアキがここに戻っているという話を聞いて、実際に会いにきて。


 ……それで、どうするつもりだったのか。


「テルアキ、私ね――」


 銀色の光が、視界の隅できらめいている。あきらめと、裏切りの象徴。ミヨコはぐっと奥歯を噛み締めた。テルアキが、ここにいる。いてくれる。それなのに、ミヨコが告げなければならないのは、テルアキを傷付けるだけの言葉だった。



「私、結婚したの」




 家族と共に小田原に転居したミヨコは、看護師をこころざした。テルアキの母親を救えなかったことが、ずっとわだかまっていたという理由もあった。誰かの命を助けることで、そのつぐないをしたい。その想いから、毎日必死になって勉強した。


 夫となる男性とは、病院で知り合った。若い外科医だった。人一倍努力家で、自身のことなどかえりみずに働くミヨコのことを心配して、声をかけてきたのが始まりだった。


「私は、私のことを簡単に許してしまってはいけないんです」


 かたくななミヨコに対して、医師は根気強く説得を繰り返した。ミヨコはそれだけ、周りからは無理を押しているように見受けられていた。実際に、相当に疲労が溜まっていたのだろう。体調を崩して病院のベッドで寝込んでいるところに、医師は何度となく見舞いに足を運んでくれた。

 そんな中で、ミヨコは少しずつ過去にあった出来事をぽろぽろと口にするようになった。初恋の人、テルアキの存在。その父親と、母親の死。打算的で、いざとなればそこから消えてしまうしか出来なかった――情けない自分。医師はミヨコの語る全てを、黙って聞いてくれていた。


「ミヨコさんは、もう充分に苦しんだじゃないですか」


 そうだろうか。ミヨコには納得がいっていなかった。テルアキの人生は、壊れてしまって二度と戻ってはこない。それを差し置いて、ミヨコはどうして普通に暮らしていけるというのか。


「僕が貴女あなたを幸せにします。罪も罰も、全部一緒に背負います」


 今は無理でも、いつかは誰かを愛せるようにはなれるかもしれない。それが明日なのか、数年後なのか、それとも遠い未来のことなのか。

 ミヨコは悩むことをやめた。差し伸べてくれた手を取って、その医師の言葉を信じることにした。ミヨコのテルアキへの贖罪しょくざいの人生は、終わりを告げた。


 ただ――その決心は、どうしても根本のところでぐらついていて。温かな家族の姿を目の当たりにしていても、ミヨコはどうしても忘れ去ることが出来なかった。




「子供もいるのよ。男の子と、女の子。上の子は、今年中学生になったわ」

「ケンキチのところは、来年小学校にあがるんだそうだ。後でお店に挨拶にいくと良いよ」


 まるで何事もなかったかのように、テルアキは優しく笑ってみせた。カップを置いて、ミヨコに背を向けた。ミヨコの視線を感じる。大丈夫だ。胸元まで静かに右(てのひら)を持ち上げて、ぎゅうっと握り締める。大丈夫なんだ。


「テルアキ――」

「良かったじゃないか、優しい旦那さんみたいで。俺もここでまたやっていけそうだし、みんな元気で、万々歳だ」


 ミヨコは、ミヨコの幸せを掴んだ。テルアキというくさりに縛られていた時代は終わったのだ。それは誰にとっても、喜ぶべきことだった。


 当然――テルアキにとっても。


「仕事、あるんだろ? 俺のせいで人命に影響があっちゃいけない。頑張ってくれ」


 笑ってる。顔の形がそうなっているのは、ちゃんと自覚出来ていた。感情と、外面を切り離す。半年くらい前には、得意だった奴だ。人と話すのに、自分の内側を見せるのはどうしても苦手だった。こうやって、見てくれだけでも友好的フレンドリーさをアピールしておければ問題はない。


 それで良いんだ。


 それで――




「いい加減、観念してくださいテルアキさん」


 腕組みしたユミコが、ずいっと一歩前に進み出た。階段の途中で、テルアキがへっぴり腰で通せんぼをしている。いつまでここでこんな押し問答を繰り広げるつもりなのか。往生際が悪いったらなかった。


 一階の掃除は、一通り完了していた。男やもめとはいえ、数日もほったらかしにすればそれなりに汚れは溜まるものだ。洗濯物も、全てきっちりと畳んで衣装棚に仕舞い込んだ。別に今更、男性物の下着ぐらいできゃあきゃあ騒いだりはしない。テルアキがトランクス派なのは、とっくに知っていることだった。


「テルアキさんの寝室は二階ですよね。一番散らかってるのはそこなんですから、掃除しない訳にはいかないんです」

「いやいくらユミコさんでも、それはちょっと……」


 今回ばかりは、テルアキも最後まで抵抗の姿勢を見せてきた。自宅を知られて、上がりこまれて。後は自分の部屋くらいしか秘密は残されていない。過去も、初恋も。ユミコは全てをあばき立ててしまった。こうなってしまうと、テルアキはユミコに対して全裸をさらしてしまっているも同然だった。


「オカズが散乱してても、別に軽蔑けいべつしたりしませんから。むしろどういうのがお好みなのかなって、今後のためにも知っておきたいくらいです」

「ないよ! ないですよ!」


 必死になって否定されると、逆に怪しかった。ユミコはつん、とテルアキの足を指先でつついた。テルアキは「うわぁ」と声を上げて、一段上に昇って逃げる。まるでバイ菌みたいな扱いだ。失礼極まりない。


「今夜は私もここに泊まるんですから、こんなことしたって無駄ですよ」

「え、ちょ……」

「来客用のお布団があるんですよね? ケンキチさんがメールで教えてくれました」


 テルアキが、うぬぅ、と顔をしかめた。夕食の買い物をどうしようかと持っていたところに、ケンキチからは何かを作って持っていくというしらせが入っていた。有難くお世話になるという返信と共に、ものはついでと訊いてみたらそういう回答だった。

 ユミコはしばらくの間は、テルアキのそばから一瞬でも離れたくなかった。しかし買い物をしたり、一旦マンションに戻っていたりしていたら大きなタイムロスになる。ケンキチからもたらされた情報は、まさに渡りに船の素晴らしいものだった。


「ユミコさんは、怖くないんですか?」

「何がです?」


 テルアキに襲われるのが、か? そんなのはもう、今更を通り越してマンネリだった。逆に、ここまで何もされていないことの方が奇跡みたいに感じられる。ユミコがどんな悲壮な覚悟を持ってこの家の玄関をくぐったのか。テルアキも男なら、ちゃんと察して理解しておいてもらいたかった。


「この家は、二人も人死ひとじにが出ているんですよ?」

「ああ、そういう」


 なるほど、そっちか。ユミコはようやく合点がいった。テルアキの父親は二階の自分の部屋で。母親の方は一階のダイニングで。それぞれ自ら命を絶っていた。一度テルアキたちがこの家を退去した後、借り手が付かなかったのはそういった事故物件という事情もあったからだ。ユミコは真剣な表情のテルアキを、じっと見つめ返した。


「出てくるなら、テルアキさんのご両親ですよね。だったら私、失礼のないようにちゃんとご挨拶しておかないと」


 ずる、っとテルアキがすべって体制を崩した。チャンスとばかりに、ユミコはその横を抜けて二階に駆け上がった。お化けが怖くて、中年男性の愛人候補になんて名乗り出れるものか。自慢ではないが、ユミコの育った田舎の薄暗い木造家屋に比べれば、都会の狭苦しい建物など恐るるに足りなかった。


 階段を昇り切ると、開け放たれたドアの群れが視界に飛び込んできた。隙間から覗く部屋の中身は、がらんとしていて物悲しい。使っているのは、恐らくはテルアキが寝室にしている奥の一部屋だけだった。

 昔は、この家も賑やかであったに違いなかった。テルアキの父親と、母親。それに、弟のヨシヒコがいた。テルアキは裕福な生活をしていて、欲しいものは何でも買ってもらっていたらしい。お下がりばっかりだった末娘のユミコにとっても、うらやましい限りの状態だった。


 それが電灯のスイッチを消したみたいに、あっという間に何もかも吹き飛んでしまった。この家を買い戻したところで、テルアキの手元には何も返ってはこない。家族の団欒だんらんも、沢山の玩具おもちゃも。


 叶えられなかった――初恋の痛みでさえも。


「お世話になっております。月緒ユミコと申します」


 大声でそう口にすると、ユミコは呆然としているテルアキの前で深々と頭を下げてみせた。ただっぴろい家の中で、柱の一つ一つにユミコの言葉が染み込んでいく。この家は、テルアキにとって何よりも大切なものだ。それが判っているから、ユミコはないがしろにするつもりなんて毛頭なかった。


「テルアキさんとは、懇意こんいにさせてもらっています。どうか、末永くよろしくお願いいたします」


 共にすごした時間なら、はなから勝負になんかならなかった。きっとこの家が明るかった頃から、テルアキのことを知っていたに違いない。ユミコがテルアキの過去を聞かされたのは、つい一時間くらい前にすぎなかった。


 しかし、だから何だというのか。


 ユミコは一番近い部屋から中に入って、掃除を始めた。これから、刻み込んでいく。テルアキといるのは、ユミコだ。未来を創っていくのも、想いを受け止めるのも。全部、ユミコの役割だった。


 思い出なんかに、負けてたまるか。それこそテルアキにりついて離れない――亡霊の癖に。


 一部屋一部屋を順番に巡って、ユミコは丁寧にホコリを払って、室内に向かって一礼をして回った。最後に入ったテルアキの部屋には、脱ぎ捨てられた衣類以外には何もなかった。テルアキが慌てて隠したのか、それとも初めからこんなものだったのか。

 きっと、それだっていずれ判る。ユミコは汚れ物を抱えて持つと、一階の洗濯機の方に戻っていった。どこにいてもテルアキの匂いがする。その空気に触れていると、不思議とユミコは落ち着いた気分でいることが出来た。


「ご両親も、まさかテルアキさんが愛人候補を連れ込むとは思いもしなかったでしょうね」

「連れ込んだんじゃなくて、上がり込まれたんです」


 テルアキが憮然ぶぜんとしている様子を見て、ユミコはやっと心の底から安堵出来た。そこにいるのはまぎれもなく、ユミコの知っているテルアキだった。洗濯機が、今日だけで何周も仕事をまかされている。その回転を二人でぼんやりと眺めている間に、ユミコはふと顔を上げた。


「そういえば私、着替えを持ってきていませんでした。お風呂から出たら、テルアキさんのシャツとか貸していただけます?」

「それは構わないですけど、下着とかはどうするんですか。マンションの部屋に帰るべきですってば」

「どうせ脱がされると思ったんですけど?」


 赤面したテルアキが、ぐっと言葉を詰まらせた。そんな度胸があるのなら、こんな事態にはおちいってはいない。ユミコはテルアキの身体に寄りかかった。ようやくユミコの飼い主様が戻ってきてくれたのだ。


 このくらい甘えたって、テルアキの両親が化けて出て説教をかましてくることなんてないだろう。


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