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愛人契約はじめました  作者: NES
第6章 ねむりにおちるまで
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ねむりにおちるまで(3)

 斎場の外に出ると、テルアキは駐車場にあるベンチに腰を下ろした。白い包みにくるまれた箱入りの弟を、そっと隣に置く。昔ベッドの上でプロレスごっこをした時と比べて、どちらが重たいだろうか。「馬鹿なことを考えているな」と苦笑しながら、テルアキは空を見上げた。

 青空の中に、綿菓子に似た柔らかそうな雲がいくつか浮かんでいた。夏の日の、晴天だ。最近の火葬場は、性能が良くなって煙も上がらないのだという。近隣からの苦情のせいもあるそうだが、それはそれで風情というものがない。ヨシヒコは今頃、どの辺りにいるのか。そんな想像を巡らせることですら、困難になってしまった。


 親族以外には誰もこないと思っていた葬式には、ヨシヒコが最後に一緒にいた女の子の両親が訪れてくれた。「本当に、ありがとうございました」「とんでもない、弟は力が及ばなかったんです」「いいえ、感謝しております」そんな会話を交わしていると、テルアキはヨシヒコのことがとてもほこらしく思えてきた。


 大きな火事だった。死んだのはヨシヒコやその女の子だけではない。火元がなんだとか、原因がなんだとか。補償がどうしたという話には、テルアキは一切興味がなかった。


 テルアキの心の中に唯一留まったのは、警察から聞かされたヨシヒコの遺体が発見された際の状況説明――それだけだった。


 ヨシヒコの死体は、丸くうずくまった姿勢で見つかった。その身体の下にはもう一人、小さな女の子の焼死体があった。二人の遺体の状態から察するに、ヨシヒコはその女の子を助けようとしていたと思われる。その一連の情報を知らされて、テルアキは身体中から力が抜け落ちてしまった。


「まだ燃やし足りないんだな」


 火葬場の中に棺が消えていく際に、テルアキはぼそりとそうつぶやいた。ヨシヒコはあんなに熱い思いをしたというのに。理不尽なことこの上ない。お互いに、たった一人だけ残されていた家族だった。テルアキよりも年の若い弟のヨシヒコが、テルアキよりも先に死んでしまった。その残酷な事実を突きつけられて、テルアキには最早何をする気力も沸いてこなかった。


 大学の時に駄目元で始めたミニ株が思ったよりも成果を上げて、テルアキは一財産を築き上げた。これは運以外の何ものでもなかった。その証拠に、一緒に株をやっていた連中はことごとく外して脱落していった。それを元手にして本格的に株券を買う段階になって、テルアキはようやくまともに投資関係の勉強をしだしたくらいだった。

 両親が死んだ後は、二人は遠い親戚の家で暮らしていた。テルアキは通っている大学に卒業まで通わせてもらえることになったが、ヨシヒコの方は厳しかった。ヨシヒコにだけ、みじめな思いはさせたくない。そう思っていた矢先に、株取引でまとまった額の財産が手に入ったのは僥倖ぎょうこうだった。


「金のことは気にするな」


 この言葉を口に出来たのが、どれだけ嬉しかったことか。テルアキとヨシヒコの父親は、会社の経営難のせいで命を絶った。家族がきしみ出した原因は、まさしくこの『お金』だった。同じ問題は、もう二度と起こさせない。テルアキは持っている資産を慎重に分類し、向こう十年は安定した生活がたもてる仕組みを作り上げた。


「兄さんもそろそろ、自分のことを考えないと」


 テルアキはヨシヒコに、何度となく似たようなことを言われ続けていた。しかしテルアキにはそれで何を考えれば良いのか、まるで判らなかった。テルアキにとってその時一番大事なのは、唯一の家族であるヨシヒコでしかなかった。


 父親と母親に代わって、兄であるテルアキは弟ヨシヒコの面倒を責任を持って見てやらなければならない。だったらせめて、ヨシヒコが無事に大学に入学して、卒業して。自分一人の力で生きていけるというところまで、見届けてやりたかった。

 テルアキが自身をかえりみる余裕が持てるようになるとすれば、恐らくはその後のことだ。


 ――でもそうなったら、自分には何にもなくなってしまいそうだな。


 平穏であるとは、そういうことなのかもしれなかった。テルアキの予感は、最悪の形で具現化することとなった。ヨシヒコのいなくなったこの世界には、生きている意味がない。家族と呼べる人間は、みんな死んでしまった。あんなに欲しかった金だけが、ふところに残って。


 『自分のこと』とは、何だ。テルアキはどうすれば良い? 誰も答えを教えてくれなかった。青い空が、急速にその色合いを失っていく。ここでずっと、じっとしていようか。テルアキが目指すべき道は、全て閉ざされてしまったのだから。


 もう、歩くことですら苦しいんだ。


 その弱音ですら、聞いてくれる人はいなかった。テルアキの記憶は、そこで一時途切れた。覚えていることは、何もなかった。砕ける波頭と、潮風。朧気おぼろげなそのイメージに包み込まれた後で――テルアキは自分が生まれた家に一度戻ってみようと、そう感じた。


 気が付けば十数年の月日が過ぎていることを知って、愕然がくぜんとした思いをいだきながらも。テルアキは重い足を引きずりながら、故郷の街に帰ってきた。




 夕方なのに、まだ陽射しが強い。夏も真っ盛りだ。短大が夏休みに入ると、客足の傾向が微妙に変化した。それでも学校に通う学生たちは結構な数がいる。今日も忙しかった。無事にピークを乗り切って、チカはカウンターの椅子に座り込んだ。


店長マスター、ユミコさん、ちゃんとオーナーの家に着いたかな?」

「ああ、大丈夫だろう」


 便りがないのは、良いしらせ。それが当てはまらないのは、オーナーのテルアキぐらいだ。三日前に訪れてきた、あの女性客。確か六月にも、チカが一人で店番をしている時にやってきていた。再びこの店を訪れてきた際にケンキチが驚いて固まって、親しげに話し始めたのをチカはぼんやりと眺めていた。

 その晩に、ケンキチはテルアキの様子を見に内藤家に向かった。嫌な予感がしたのだそうだ。その結果が、これだった。


「もっと早く、ユミコさんに連絡すれば良かったんじゃないの?」

「そうだな。今となっちゃそう思うわ。テルアキにもそこまで未練があったとは思わなかったんだが」


 未練があったのは、むしろケンキチの方だ。チカの眼にも、それは明らかだった。あの女性と言葉を交わしているケンキチは、見たことのない表情を浮かべていた。娘さんや、奥さんにだって向けたためしがないであろう奴だ。後で言いつけてやろうと思いつつ、チカは黙って二人のやり取りを見届けていた。


「あたし、あの人嫌いだな」


 以前チカは、その女性がユミコと雰囲気が似ていると感じていた。年の割には若く見えるし、そこはかとなく上品だ。着ているものも高価そうに思える。良いところの奥様、といった印象がぴったりだった。

 でもその考えは、あっさりとてのひらを返して百八十度回頭した。ユミコとは、似ても似つかない。ユミコが年を取ったのなら、もっとほがらかで親しみやすい婦人になるだろう。


「ユミコさんの方がずっと素敵だよ。テルアキさんが引っかかるって、意味が判らない」

「そりゃ、幼馴染だからな」


 ケンキチは、何かとあの女性の肩を持ちたがった。面白くない。チカは「ふん」と鼻を鳴らした。


「そりゃ店長マスターにとっては、初恋の相手ですからね。色眼鏡も極まってることでしょう」

「思い出補正がかかっていることは、否定しないさ」



 最後に会ってから、どのくらいの時間が流れたのだろうか。二十年以上だ。お互いに、一目で良く判ったものだ。顔かたちもそうだが、基本的なところは変わらずにいるということか。


「ミヨコにはミヨコの事情がある。彼女だって、沢山苦しんだんだ」


 テルアキの母親の、葬式の帰り道。ケンキチは今でも、その光景をありありと思い浮かべることが出来た。守ろうとしてきたものが、音を立てて崩れていってしまった瞬間。あれからミヨコとは疎遠になって、知らない間にこの町からいなくなってしまっていた。

 それが、急に帰ってきた。正確には、テルアキが戻ってきたという噂を聞きつけて、何度か様子を見にきていたのだそうだ。ミヨコは今小田原に住んでおり、東京とは近くもないがそこまで遠い訳でもないという距離だった。


 何回かのすれ違いを経て、ミヨコはケンキチと――テルアキに再会した。ケンキチにとってそれは嬉しいものである反面、つらく悲しい現実を見せつけられることとなった。


 そして恐らくその事実は……テルアキにとっては、より残酷な仕打ちとなる。

 ケンキチはテルアキが深く傷ついた場合には、ユミコに頼るつもりでいた。テルアキを助ける役目を負っているのは、今やケンキチではなかった。テルアキにはテルアキを支えてくれる、ちゃんとした相手がいる。ユミコならきっとそれを成し遂げられると、ケンキチには信じることが出来た。


「奥さんに言いつけてやりますからね」

「ちゃんと報告したよ。すっげぇ不機嫌だった」


 誰だって、配偶者の初恋話だなんて聞きたくはない。その相手と会って話をしたともなれば、尚更だ。チカがべぇ、と舌を出すのを、ケンキチは苦虫を噛み潰したような表情で見やった。どうせ当時から失恋していたのに、何でここまで非難を浴びせられなければならないのか。


 それよりも、テルアキだった。ユミコがいるなら、大丈夫か。もう少ししたら、ケンキチは今日の夕食をどうするべきかをユミコにメールで訊いてみることにした。電話だなんてとんでもない。馬に蹴られて死んでしまう。


 あの二人には、ゆっくりと話し合う時間が必要だった。




 3つ並んだ位牌に、ユミコは手を合わせて黙祷もくとうを捧げた。テルアキの父と母、そして弟だ。ユミコはテルアキに、生活全般の面倒を見てもらっている。お礼を述べるのと同時に、これからのことについてもきちんと報告しておくべきだった。


「ユミコさんには、六ヶ月の期間が過ぎるまでは話すつもりはなかったんです」


 風呂に入って着替えて、テルアキはユミコの知っているテルアキの姿になっていた。自宅なのだから、もっと自然体にしてくれていても構わないのに。しゃちほこばって澄ましたテルアキも、だらしなくておろおろしているテルアキも。ユミコにとってはどちらのテルアキであっても、嫌いになることなんてなかった。


「同情を誘って、気を引いているみたいな感じがして。俺はただでさえ住む場所のことで、ユミコさんの弱みに付け込んでいるから。それ以上は、良くないかなって」


 不思議なことを気にする人だ。ユミコは静かに後ろを振り返った。テルアキが、ユミコに向かってじっと正座している。目線はユミコの方ではなく、どこか斜め下の何もない場所に注がれていた。バツが悪そうな、母親に叱られている子供みたいだった。

 いや、子供なのだ。それで間違いない。ユミコはテルアキの前に歩み寄った。つまらないことで意地を張って。いざとなったら、こんなに傷付いて寂しがって。助けてほしいくせに、最後まで平気なふりをして誤魔化そうとして。


「テルアキさんは、私をどうしたかったんですか?」


 夜の映画館で見初みそめた、若い女子大生。字幕の和訳について軽く意気投合して、そのまま勢いでマンションの部屋に住まわせて。テルアキはユミコのことを、愛人にしたいと申し出てきていた。


「俺は――俺は、ユミコさんのことを」


 テルアキの頭を、ユミコはそっと両手で抱き締めた。髪が少し濡れている。ちゃんと乾かさないと風邪をひくと、いつだったか注意したような気がする。

 ずっと一人で生きてきたテルアキは、何かで満たされたかった。お金があれば消えなかったはずの、お金では取り返すことの出来ない何か。ユミコの作ったオムライスを口にして泣き崩れたテルアキの気持ちを、ユミコはようやく理解出来た気がした。



「俺はユミコさんと――恋がしてみたかった」



 ほんの小さな、なんてことのない望みだった。ユミコはテルアキの告白を聞いて、微笑ほほえんだ。マンションのあの部屋に、居てくれるだけで良い。それは判ってしまえば実に幼稚で、そして純粋な願いでしかなかった。

 他の、ほとんどの人たちが当たり前のようにすごしてきた毎日を、テルアキは持っていなかった。家族の形を守るために、一心不乱になって戦い続けてきた。その甲斐なく、全てをうしなってしまった時……テルアキは自分を支えていた何もかもまた、くしてしまった。


「ユミコさんに初めて会った時、俺はこの人を離してはいけないと思った。理由は判らない。でも、ユミコさんじゃなきゃ駄目だったんだ」


 女性に声をかけたことなんてない。それは本当だった。ナンパだって未経験だった。テルアキは必死になってユミコをエスコートした。一生懸命に外面そとづらを取りつくろうので、精一杯だ。それなのに。


 とても、楽しかった。


 一緒にいることが、素晴らしく幸せだった。もっと話していたい。もっとそばにいたい。誰かに奪われてしまいたくない。ユミコが住む場所に困っていると聞いて、テルアキはすぐに自分のマンションのことに思い至った。


「我ながら馬鹿な提案でした。ユミコさんも、まさかそれを飲んでくれるとは想像もしてませんでした」


 その夜に別れて、テルアキは激しく後悔した。これで、二度とユミコとは会えないのかもしれない。後ろ髪を引かれるとは、こういうことなのか。自分の中に生まれた痛みに戸惑いながら迎えた翌朝に、まさかのユミコの方から連絡を入れてきて度肝を抜かれた。

 それどころか、ユミコはテルアキのマンションを訪れて、その場で愛人候補となることを受け入れてしまった。嬉しくて舞い上がるのと同時に、一体全体どういうことなのかと混乱した。ケンキチに相談しなかったのも、何がどうなっているのかをテルアキ自身が整理しきれていなかったからだった。


「ユミコさんとすごす毎日は、夢のようでした。俺はユミコさんのことが、どんどん好きになった」


 六ヶ月経ったら、正式な愛人になる。つまり今は、愛人でも何でもない。テルアキはただ、大好きなユミコのために何かをしてあげたかった。

 『愛人にしたい』という欲望が、『ない』とは言わなかった。まぎれもなく、テルアキはユミコに『恋』をしていた。その感情は、しっかりと男性としての欲求にも繋がっている。

 ただそれ以上に、テルアキはユミコに幸せになってほしかった。自分のような年の離れたおじさんを相手に、大切な青春の時期を犠牲にするべきではない。ユミコが幸福であることを望むのなら、テルアキは単純に親切な出資者パトロンの役に徹するつもりだった。


 誤算があったとすれば、たった一つ。テルアキが思っていた以上に、テルアキはユミコのことを好きになってしまっていた。


「このままユミコさんが愛人になってくれたら……それが一番なのかな、なんて。俺は浅はかで、愚かでした」


 ユミコの物件を探しながらも、考えているのはその先のことばかりだった。愛人になんて、ならなくて良い。テルアキの近くから、消えないでいてほしい。海外旅行でも何でも、ユミコが欲しいものは惜しみなく与えてみせる。どうせ一度は、空っぽになった身なのだ。ユミコが幸せになってくれるのなら、それで。


「でも……俺は……」


 ユミコはその場に膝をつくと、テルアキの頬にそっと両(てのひら)を添えた。涙で、ぐしゃぐしゃだ。誠実なテルアキには、嘘をくことが出来ない。だからこれ以上の問いかけはきっと、テルアキとユミコの関係に残酷な結果をもたらしてしまうだろう。


「テルアキさん」


 それでも――ユミコは訊かなければならなかった。



「教えてください、ミヨコさんのこと」



 真っ赤な夕日が、畳の上に二人の影を長く伸ばした。


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