ねむりにおちるまで(2)
ダイニングテーブルに突っ伏したまま、ユミコはじっと時計を見つめていた。秒針が、もったいをつけながらぐるりと一周を終えた。一分が過ぎて、分針がかちりと動く。つられて時針がほんの少しだけ、傾いた。
十一時二十三分。それを過ぎて、秒針の駆け足は続いていた。午前中はもうすぐ終わりだ。どうしようかと悩んで、ユミコは諦めてお昼ご飯の準備を始めることにした。
テーブルの上には、テルアキの分のピザトーストが残されていた。すっかり冷め切って、チーズが固くなってしまっている。まだ温め直せば、食べられるだろう。でもテルアキには、作り立てを食べてもらいたかった。
重い身体を起こすと、ユミコは冷蔵庫にピザトーストをしまおうとして動きを止めた。昨日の分と、一昨日の分はどうしようか。朝ご飯だけじゃなくて、お昼と夜の分もある。大きな冷蔵庫の中に、作り置きばかり溜まっていくのはひどく寂しかった。手に持った皿の上に視線を落として、ユミコは深く溜め息を吐いた。
テルアキがマンションの部屋にやってこなくなって、今日で三日目だった。元々テルアキは電話やメールの返事をしないタイプの人間だ。こういう場合には、連絡が付かなくて不便なことこの上なかった。
何か急な仕事でも入ったのだろうか。
それとも、体調でも崩したのだろうか。
本当にまずいことが起きているのなら、ケンキチ辺りから報せがくるのではないか。初日はそんなつもりで過ごしていた。次にテルアキがやってきたら、非常用の連絡先を教えてもらわなければ。ユミコはテルアキの愛人候補で、テルアキの助けがなければ何もできない身分なのだ。しっかりと責任を持って面倒を見てもらいたい。
――そうじゃなければ、九月にはここを出ていってやるんだから。
心配すると同時に腹を立てていられたのは、二日目の昼までだった。相変わらず、テルアキはマンションに顔を出さなかった。どこからも何も、連絡は入ってこない。マンションの部屋の中で一日を過ごして、まんじりともしない時間ばかりが流れていって。ユミコは底知れない不安に襲われ始めた。
『翡翠の羽』のチカとは、個人的に連絡先を交換し合っていた。現役女子高生のチカは、テルアキとは対照的にメールやメッセージの返信が迅速だ。それとなく訊いてみれば、何か事情があったのかどうかはすぐに知れるだろう。
携帯を手に持って電源を入れて、そのまま置くという動作をユミコは何回繰り返しただろうか。ユミコの中ではきっと大丈夫という気持ちと、すぐにでも尋ねるべきだという焦りが葛藤を繰り広げていた。テルアキはいつだって、ユミコのことを大切に思っていてくれた。ここで誰かにテルアキのことを尋ねてしまうのは、テルアキへの信頼を裏切るような気がした。
「気まぐれなんじゃないの? ひょっこり帰ってきたら、いっぱい文句言ってやりなさいよ」
ヨリは楽観的にそう口にして、ユミコを元気づけてくれた。ユミコもそうだと思いたかった。ヨリの言葉を飲み込もうとしても、胸騒ぎがおさまらない。二日目の夜は、このマンションにきて初めて不安を覚えた。テルアキがここにいないことが、たまらなく怖かった。
もしこれが悪戯の類なのだとしたら……ユミコは一生テルアキのことを許さない。好きになんかなってやらない。愛人になんかなってやらない。こんなマンション、出ていってやる。テルアキの顔なんて、二度と見たくない。
ベッドの上で丸く縮こまって、ユミコは泣いた。
そして今日、いよいよ三日目だ。ユミコはぼんやりと昼食の準備を始めていた。ちらり、ちらりと時計の方に視線を投げる。今日の午後三時。それを過ぎたら、『翡翠の羽』に電話してみよう。いくらなんでもこれだけ時間が経てば、連絡がないのをおかしいと思うのは自然なことのはずだ。ユミコはそう心に決めて、刻一刻とその時が訪れるのを待ち焦がれていた。
料理なんてとてもしている気分ではなかったが、ひょっとしたらテルアキが戻ってくるかもしれなかった。そうしたら、今度こそ泣かせてやるんだから。自分を鼓舞するつもりで、ユミコはオムライスの制作に取り掛かった。
あの日、テルアキが垣間見せてくれた隠された本当の姿。テルアキにとって、ユミコというのはどういう存在なのか。愛人になることを決める刻限が近付いてきている中で、ユミコはそれを明らかにしておこうと心に決めていた。
午後二時。今日も昼食を一つ、無駄にしてしまったのか。すごく、上手に出来たんだけどな。テルアキが食べたら、絶対にぼろぼろと涙をこぼして。ユミコにすがりついて、どうか愛人になってくださいお願いします、なんて頼み込んでしまうくらいに。しょうがないなぁ、そのかわり、精一杯大事にしてくださいよって。独りぼっちにしないでくださいねって。
――笑って、許してあげられるのにな。
ユミコの携帯が、けたたましく呼び出し音をがなりたてた。うっかり聞き漏らさないように、音量を最大に設定しておいたのだ。慌てて掴み取って画面を確認すると、電話をかけてきたのはチカだった。
「はい、ユミコです。チカちゃん?」
憔悴しきった自分の声に、ユミコはびっくりした。ああ、こんなに苦しかったんだ。だからといって、取り繕うつもりもなかった。通話口の向こうに意識を集中させると、数秒の沈黙の後に言葉を発してきたのは、少々予想外の相手だった。
「……あー、ごめん、ユミコさん。ケンキチです。番号を聞いちゃうのはアレなんで、チカに携帯を借りてます」
「ケンキチ、さん」
ケンキチの話しぶりはもごもごとしていて、何だか要領を得なかった。緊急事態なら、電話番号のやり取りぐらい気にしないでバンバンかけてきてほしい。ユミコは別に、そんなことでいちいち文句を言ったりはしない。
それよりも、テルアキだった。ケンキチが連絡してきたということは、何かがあったのだ。それは間違いない。ユミコは携帯を強く握り締めた。時間の流れが、恐ろしく遅かった。ケンキチの次の声が開こえるまでに、ユミコにはまるで数分以上はかかったみたいに感じられた。
「事情を説明したいんだけど、まずはやっぱり、テルアキだよな?」
「はい。テルアキさんに何かあったんですよね?」
やっぱり、そうなんだ。ユミコの心臓に、冷たい掌が触れてきた。全身が、凍り付いたかのように重い。血液の流れが止まっている。落ち着け。まだ、倒れてしまう訳にはいかないんだ。
「ユミコさんは嫌がるかもしれないけど――今からテルアキの住所を送るから」
「ありがとうございます。すぐに向かいます」
通話を切ると、ユミコはキッと顔を上げた。こんなこともあろうかと、身だしなみはきちんと整えてあった。テルアキがいる時なら、いくらでも緩んでいられたのに。ユミコは、テルアキの愛人候補だ。自分を養ってくれているテルアキのためなら、いついかなる時でも馳せ参じてみせなければならない。
「テルアキさん、今いきます」
ケンキチからの情報を待たずに、ユミコはマンションの部屋から飛び出した。まずは『翡翠の羽』を目指せば、間違いはないはずだった。一分一秒でも良い。ユミコは少しでも早く、テルアキの近くに辿り着いていたかった。
入り組んだ路地の先にある、静かな住宅街だった。雑な区分けがされた中に、ごちゃごちゃとした二階家が立ち並んでいる。開発から取り残された、古めかしい街並みだ。『翡翠の羽』とは、目と鼻の先だった。ほとんど誰ともすれ違うことなく、ユミコはその家の前までやってきた。
一般的な、オレンジ色の瓦屋根の一戸建てだった。レンガ敷きの玄関先は綺麗に片付いているが、殺風景と呼ぶ方がしっくりとくる。表札があったであろう辺りには、剥がされた痕跡だけが残されていた。
ケンキチが教えてくれた場所は、ここだった。住所でも、地図上でも一致している。ユミコは二階の窓を見上げてみた。カーテンが引かれていて、中の様子を窺い知ることは出来ない。一人で住むにしてはあまりにも広すぎるその佇まいに、ユミコは胸の奥がざわついた。
ユミコは移動中に、ケンキチからテルアキの事情をさわりだけ教えてもらっていた。テルアキは天涯孤独だ。昔はこの家に、家族と一緒に暮らしていた。それが父親の死を引き金に、あれよあれよという間にバラバラに分解してしまった。
『勝手な言い草で申し訳ないんだけどさ。テルアキには、ユミコさんが必要なんだ』
数年前にふらりとこの町に戻ってきたテルアキは、借家になっていた実家を買い戻して再びここでの生活を始めた。デイトレーダーとしてまとまった資産を持っていることもあって、金銭的に困るようなことはなかった。
ただ――テルアキの心は空っぽだった。
『ユミコさんに会ってから、テルアキはだいぶ変わった。あんな風に笑うテルアキを見るのは、久しぶりだった』
ケンキチの話の中には、ユミコの知らない『本当の』テルアキがいた。それは多分、あの日ユミコのオムライスを食べて泣き崩れたテルアキだ。いつだったか、チカが口にしていた。テルアキの中心には、ぽっかりと大きな黒い穴が開いている。それはきっとこの悲しみの詰まった家に、たった一人で住んでいるテルアキのことを示しているだろう。
『愛人だなんだって言ってるけど……テルアキはユミコさんを失いたくないだけなんだと思う。頼む、テルアキに会って、傍にいてやってくれ』
そんなこと――言われるまでもなかった。ユミコは自ら望んでテルアキのマンションにやってきた。その理由は東京での生活を続けていくためと、もう一つ。キザでカッコつけたがりなくせに純粋で、自称おじさんなのにちっともおっさんぽくない、普通の人。内藤テルアキという男性に、興味を持ったからだった。
三ヶ月も一緒にいれば、充分すぎるくらいだ。ユミコはテルアキという人物を、理解出来ているつもりだった。優しくて、思いやりがあって。ちょっとばかり自己評価が低くて。自分のことを、あまり語りたがらなくて。
でも本音はひどく寂しがりやで。ユミコといる時間を、何よりも大切に思っていてくれた。
そんなテルアキだからこそ、ユミコはこれまでずっとあの部屋に居続けていた。もっと識りたかった。言葉を交わしたかった。触れてみたかった。
愛人になればもう一歩踏み込んできてくれるというのなら、そうしても構わないとさえ思えた。恐らくはもう、抜け出せないくらいのところにはきてしまっている。呼び鈴のボタンに指を伸ばしながら、ユミコは自分の中にある気持ちを整理し始めていた。
――これで、戻れない。戻らない。
ヨリは怒るだろうか。ヒロキはなんて言うだろうか。ただユミコ自身の裡には、後悔しないという確信だけはあった。
四十二歳の男性の、愛人か。年の話をするのは可哀想だ。たまたまその時に生まれて、こんな形で出会ってしまっただけなのに。普通の恋人として始めるには、ハンデが大きすぎた。
でもちゃんと、手は届いたのだから結果オーライだ。乾いた電子音が、玄関のドアの向こうに響くのが聞こえた。さあ、覚悟はオッケイ? ここから先は、何をされても文句は言えない。全てを受け入れて……
素直に認めてあげよう。貴方のものですよ、って。
「ユミコさん、どうして?」
テルアキはヨレヨレのシャツに、ぼさぼさの髪という状態だった。ユミコの前ではいつもスーツでばっちりとキメていたので、なかなかに新鮮な姿だ。ドアが開いた瞬間に、ユミコはするり、と家の中に侵入した。実家に押しかけてきた愛人の図、正にそのものだ。異論は認められない。
「ケンキチさんに聞いてきました。テルアキさんの、引きこもり病が発症したって」
靴を脱いで、さっさと上がり込む。テルアキはわたわたとしながらユミコの後ろについてきた。この期に及んで、ユミコの身体に触れるのを躊躇っているのだ。腕でも肩でも、好きなだけ掴めば良いのに。自分の家に飛び込んできた小娘一人くらい、なんとでもしてみなさいって。
一階にあるリビングとダイニングの惨状を見て、ユミコは予想が的中して腰に手を当てて派手に溜め息を吐いてみせた。掃除、してない。洗濯物、山積み。ケンキチが持ってきてくれたと思しき食事類、手付かず。不健康、不摂生。負の連鎖、悪循環も甚だしかった。
「まずはお風呂とお食事ですね。お料理を温め直しておきますから、シャワーでも浴びてきてください。テルアキさんの匂い、嫌いじゃないけどちょっと不衛生ですよ。キッチン、借りますね」
テルアキの返事など待たずに、ユミコはさっさと動き始めた。キッチンには、微かにコーヒーの香りが漂っている。これだけは飲んでいたのか。そう考えてテーブルの上に目線を落とすと、汚れたカップが2つ置き去りにされていた。
白い縁に、ほんのりと赤い口紅の跡が残っている。ああ、そうなのか。ケンキチの話を思い出して、ユミコはまた胸の奥が苦しくなった。
「ユミコさん、その、俺は――」
「ダメですよ、テルアキさん。囲っている愛人のこと、ないがしろにしちゃ」
すぐ後ろに、テルアキが立っている。こんなに近いのに、すごく遠い。ユミコはテルアキのことを、何も判っていなかった。テルアキがマンションの部屋にいない時、何をしているのか。たった一人で家に帰った後、どうやって夜を過ごしているのか。
ユミコと出会うずっと以前に、テルアキに身に何が起こったのか。
「寂しくなったら、勝手に出ていっちゃうかもしれないんですからね。逃げられてから残念がっても、手遅れなんですから」
この場所で、テルアキは誰と会って。誰と話して。
どのような結末を迎えたのか。
ユミコは悔しかった。何も知らない。知らされていない。これからずっと一緒にいても良いと思った人のことを、何も――
カップを乱暴に引っ掴むと、ユミコは流しの中に放り込んだ。がしゃん、と硬質な音が静寂を切り裂く。水道の蛇口をひねって、どばどばと全開で放出させた。嫌だ。こんなことで泣いている顔なんて、絶対に見せたくない。
「ユミコさん」
耳元で、テルアキの声がした。ぞくり、と鳥肌が立つ。吐息がくすぐったい。テルアキの掌を、肩に感じた。やっと決心してくれたんだ。遅すぎるよ、まったく。
「きてくれて、ありがとう」
小さくうなずいて、ユミコはカップをごしごしとこすり続けた。落ちてしまえ、流れてしまえ。嫌なことなんか全部、消えてなくなってしまえ。
初めてテルアキに優しく抱き寄せられて、ユミコは大声をあげて泣いた。じんじんと痛む指の間からカップが零れ落ちて、取っ手の部分にひびが入った。そのまま、砕けてしまえば良いのに。それでテルアキの過去が消えてしまうのなら、ユミコにとってはこの上なく望ましいことだった。




