ねむりにおちるまで(1)
夏がやってきた。去年は唸るばかりで風の一つも生み出せないポンコツエアコンのせいで、ユミコは脱水症状を起こしかけていた。それが今は、汗一つかかずに快適な毎日を過ごせている。夜中に咽喉がカラカラになって、うなされながら目を覚ますこともない。冷蔵庫の中に大量の麦茶を作って備蓄しておく必要も、当然のごとくなかった。
窓の外に視線を向けると、夜でもところどころに陽炎が立ち昇っているのが判った。間違いなく、今夜も熱帯夜だ。それを見下ろしながら食べる冷やし中華の、何と美味いことか。
こんな素晴らしい逸品を、「料理なんかではない」と言い捨てた馬鹿な美食家がいたらしい。だったら食べなくてよろしい。ユミコが全て、美味しく頂戴する。ずるる、と麺をひと啜りすると、ユミコは満足げに「うーん」と一声上げた。
「ユミコさん、行儀とか色々悪すぎです」
見かねたテルアキが注意してきたが、顔はまるで明後日の方角に向けられていた。理由は単純かつ明解だ。テルアキはユミコの服装があまりにラフすぎて、目のやり場に困っている状況だった。
七月も中旬を超えて暑くなってくると、ユミコの部屋着も楽なものに変わっていた。テルアキのことはだいぶ理解出来てきたし、それなりに気も許せるようになっている。ヒロキを追い返した以上、そういう覚悟だってきちんと持っておく必要があるだろう。ユミコとしては、テルアキとの関係を次のステージへと一歩進めた気分でいた。
地元にいた頃は、ユミコは自宅ではいつもこんな格好だった。タンクトップに、ショートパンツ。手足に衣服が汗で貼り付く感触が、たまらなく嫌だった。ただ一度、変な虫に刺されてふくらはぎが倍ぐらいに腫れて高熱を出してからは、虫除けだけは欠かさないようにしている。尤もテルアキのマンションにおいては、いくらなんでもそれは不要であろうとは思われたが。
「そんな服装だと、あれこれと見えちゃいますよ」
「別に今更、良いですよ。テルアキさんしかいないんですから」
ここで暮らし始めて、四ヶ月が経過した。ユミコもようやく、高層マンションでの生活に慣れ始めてきたところだった。ここはアパートと違って、防音がしっかりしていて近所付き合いに煩わされることがない。買い物は配達が頼めるし、宅配便はボックスで預かってくれるのでまとめて取りにいけば一回で済む。洗濯機と乾燥機の性能が良いから、物干しの手間も必要ない。ここまで便利だと、ユミコは自分が堕落していく過程が手に取るように判るくらいだった。
「私がダメな人間になっているとしたら、それはテルアキさんのせいです。そうやって何も出来なくさせて、ここで飼い殺すつもりなんですね。怠惰で、ころころと太っている娘がお好みなんですか?」
「そんなつもりはないですが――しないで済む苦労ならユミコさんに負わせる必要はないかな、と考えたまでです」
本当に、どこまでも至れり尽くせりだった。ヨリの言っていた通り、こうやって飼い慣らされていくのか、とユミコは他人事みたいに感心した。これでまた以前住んでいたアパートの部屋に戻されると言われたら、そりゃあ「愛人だろうが何だろうがなってやろう」となるだろう。
「お部屋探しの方はどうなってますか? この前ご提示した物件とかはどうです?」
「えーっと、はい、すごく良いとは思うんです」
テルアキがおかしいのは、ユミコに愛人としてこのマンションに残ってほしいくせに、引っ越し先を探す手伝いまでしてくれるところだった。杜若女子大学に通うのにアクセスの良い場所で、それなりに家賃の安くて綺麗なレディースマンションとか。テルアキの紹介してくる物件は、外観や室内の写真を見る限り申し分のないものばかりだった。
おまけに敷金と礼金に加えて、大学在学中の家賃までも肩代わりすると申し出てきた。ここまでくると、もう訳が判らない。それに対してユミコがペイしなければならない条件は、何一つ求めないとのことだった。
「もう愛人でもなんでもないじゃないですか」
「はい、その場合は、そうですね。俺が好きで、ユミコさんのためにお金を使うんです」
ユミコが愛人になるようにと、テルアキは一切の強要をするつもりはなかった。ユミコの下した最終的な決断に、全面的に従う。その結果がノーであった場合には、せめて生活の援助だけはさせてほしいのだそうだ。こうなってくると、テルアキの愛はなかなかに重いと感じられた。
「それは流石に悪いですよ」
「便利過ぎる生活におとしめてしまった責任を取らせてもらうだけですよ。後は、半年とはいえ『愛人』なんていう不名誉な立場にいてくれたことに対する、補填の意味もあります」
テルアキのマンションにいるだけで、そこまでの不利益を被った記憶はユミコにはなかった。充分に良い思いはさせてもらったし、今だって楽しい。どうにもテルアキは自己評価が低すぎて、ユミコは相変わらずその取扱いに苦慮していた。
「愛人にならなくても、テルアキさんとは良い関係でいたいとは思ってます。その、お金の切れ目が縁の切れ目だなんて、そんな考えは持っていませんから」
「気持ち、として受け取ってもらえればそれで構いません。次にヒロキくんが上京してきた時に、みすぼらしい家に住んでいては困るでしょう」
「ヒロキは関係ありません!」
なんだかんだ言ってテルアキは、ユミコの元許嫁、ヒロキの存在を気にかけている様子だった。こういう時には、必ず引き合いに出してくる。ユミコにしてみれば、それは既に終わった話だ。今のユミコはかなり真剣に、テルアキのところに残るかどうかを考えている最中だった。
「テルアキさんのことは、ちゃんと普通に好きですよ。自分で言う程おじさんじゃないですし、すごく大切にしてもらってるし。これからもそうなんだろうなって、信じることも出来ます」
嫌いな相手なら、とっととこんな場所からはおさらばしていた。一緒に食事をして、寝泊まりして、何回かデートもして。油断しきった格好をテルアキの目の前に曝け出している時点で、推して知るべしだ。
ただし、『好き』にも色々ある。恋愛ではなくて、敬愛だったり友愛だったりもする。ユミコがテルアキに抱いている愛情の正体は、今一つ掴み切れていなかった。
「何をされても、テルアキさんなら受け止められます。テルアキさんが欲しいのは、そういう私――ですよね?」
ユミコに見つめられて、テルアキはぐっと言葉を咽喉に詰まらせた。猶予期間も、段々と残りが少なくなってきていた。そろそろ切り込んでいく時期なのかもしれない。ユミコはテルアキの方に、一歩踏み出した。
「とりあえず、後のことは後に回してしまいましょう。今は、テルアキさんのことだけ考えさせてください」
固まっているテルアキの胸板に、ユミコはそっと頬で触れた。うん、嫌じゃない。テルアキは何かに耐えるような表情を浮かべながら、じっとしていた。多分、このまま抱き締められてもそれで良い。
愛人――愛人、かぁ。
東京にきた時には、思いもしなかった響きだった。お金持ちの男性に見初められて、こんなことになってしまうなんて。しかもユミコは、そんな自分をここまで受け入れてしまっている。人の縁とは不思議なものだった。
結局その日も、何事もなくテルアキはマンションを去っていった。もういっそのこと、何か起きてしまえば良いのに。ユミコが自分の意志で決断するまでもなく、全てがなし崩し的に決まってしまった方がずっと楽だった。
テルアキのことを考えながらベッドに入るのも、もうそろそろ飽きてきた。テルアキ改造計画は未だ進行中だ。髪は黒く染めたし、今度は服装を変えてみようか。でもスーツも捨てがたいんだよな。テルアキは紳士然としている方が、やはりお似合いだ。
ふかふかの寝床と快適な空調のお陰で、今夜もまたぐっすりと眠れそうだった。明日になれば、またテルアキがやってくる。今度はどうやってテルアキの心を揺さぶって……
どのタイミングで、告白すれば良いのだろうか?
だいぶ陽が長くなってきた。テルアキは寝床から起き上がると、一息にカーテンを開け放った。外の世界は、光に満たされ始めている。庭の雑草が伸び始めているので、そろそろ草刈りをする必要がありそうだった。
ユミコのいるマンションで朝食を摂るようになってから、テルアキの朝はかなり早くなった。先月などは夜明け前に家を出ていたくらいだ。もう少し自宅の近くに借りるべきだったか。しかしそれでは、ユミコが大学に通うのに不便になってしまう。最早何のためにあの部屋を所有しているのか判らなくなってきて、テルアキは思わず失笑した。
誰もいない二階屋は、一人で暮らしてみると意外に広かった。貸家になってからもほとんど借り手が付かなかったので、綺麗なものだ。昔自分の部屋として使っていた洋室を、テルアキは寝室として使用していた。
部屋を出たら、まずは全ての部屋のドアを開ける。空気を入れ替えておかないと、すぐに淀んでしまうからだ。弟のヨチコの部屋、父親の部屋、母親の部屋。今はどれも、がらんとしていて何もない。それでも、無意識のうちに「おはよう」と声をかけてしまう。知らない人が見たら、気味の悪い思いをさせてしまうだろうか。
それから、一階に降りて洗濯機を動かした。ユミコのマンションにあるものと同じで、乾燥までしっかりとやってくれる最新式だ。最初は物干しもしてみたかったのだが、想像以上に大変だしマンションに通っていると急な雨に対応出来ないのでやめた。母親は偉大だ。それから、ミヨコも。懐かしい名前を思い出して、テルアキはぼんやりとその場に立ち尽くした。
――何をしているんだ、俺は。
ふぅ、と一つ息を吐き出す。今更、こんなことを考えても仕方がない。洗濯が終わるまで、コーヒーを淹れて飲むことにした。こちらもマンションに置いてあるのと同型のコーヒーメーカーだ。マンションではユミコがすっかりこのマシンと豆を気に入ってしまって、テルアキが触る機会が激減してしまった。自宅のこいつだけは、テルアキの専用機だ。よろしく頼むぞ、とばかりに軽くひと撫でしてやった。
ダイニングは採光が良くて、居心地の良い空間となっていた。あの頃のテーブルとは違うが、似たものを探し出して購入して置いていた。色も、形も。椅子の数も、揃って同じだ。テルアキは自分の席に腰かけると、ぐるりと食卓を見渡した。
『テルアキ、夏休みには釣りにいかないか? お父さん、久しぶりに休みが取れそうなんだ』
その約束が果たされることは、ついになかった。テルアキの父親は、物言わぬ屍となって天井からぶら下がっていた。母親と一緒にその光景を目撃して、最初に思ったのが「ヨチコに見せてはいけない」だった。泣き崩れる母親を残して、テルアキは扉を閉めた。ヨシヒコに自分の部屋から出ないようにきつく言い含めると、動けないままの母親に代わって救急車を呼んだ。救急隊の大人たちに「落ち着いている」などと評されても、手の震えがいつまで経っても止まらなかった。
『テルアキ、ヨチコがくるまでおやつは待ってなさい』
父親が死んでから、母親はすっかり生気を失くしてしまった。あんなに元気で、あんなに明るかった母親の豹変ぶりに、テルアキもヨシヒコもショックを隠せなかった。父親の存在は、この家にとって何よりも重要なものであった。経済的な助けになれればと、テルアキは学業の合間を縫ってアルバイトに精を出した。テルアキ自身は、兄として充分に満たされた生活をここまで送ってきた。それよりもヨシヒコだ。弟のヨシヒコにだけは、惨めな思いをさせたくなかった。
『ごめんなさい……ごめんなさい、テルアキ』
母親の死体を最初に見つけたのは、ミヨコだった。一人でこの家のことを全てこなすのは大変だろうと、ミヨコは毎日通ってきてくれていた。テルアキも、ミヨコにはとても助けられていた。もし今の生活が、もう少しだけ余裕のあるものになったのなら。厚かましいと思いながらも、テルアキはミヨコに自分と一緒になってほしいと願い出るつもりだった。
『兄さんはさ、自分のことも考えないとダメなんだよ』
生意気なヨシヒコも、テルアキより先に逝ってしまった。こんなことになるなんて、想像もしていなかった。何が「自分のこと」、だ。テルアキによく似た性格のヨシヒコは、最後まで誰かの命を守ろうとして死んでいった。
ヨシヒコのために蓄えた財産は、立派な葬式代に化けてしまった。これがないせいで家族はバラバラになって、みんな死んでしまって。テルアキ一人が残されたら、馬鹿みたいに手元に溢れ返った。これは一体、どういった類の皮肉なのだろうか。数字が増えていく様を、テルアキは無感動に眺めていることしか出来なかった。
『そろそろさ、前に進めそうなんじゃないか?』
テルアキを救ってくれたのは、ケンキチの言葉と――とある一人の女性との出会いだった。深い理由もなく入った夜の映画館で、隣の席に座った女子大生。スクリーンの正面中央という場所は、取り立てて珍しいポジションでも何でもなかった。
彼女の何が、それ程までにテルアキの心をくすぐったのか。言葉で説明を試みようとしても、なかなか上手くいかなかった。ただここで何も言わずに別れてしまえば、二度と彼女と巡り会える機会は訪れない。その事実だけが、テルアキの中で今までにないくらいに激しく騒ぎ立てていた。
月緒ユミコという若い女性に、テルアキは魅せられた。不思議な感覚だった。素晴らしい美人という訳でもなく、目が見張る程に知的ということもない。恐らくは極普通の、その辺りを見渡せば掃いて捨てるくらいに大勢いる女性のうちの一人にすぎなかった。
それでもユミコはテルアキにとって、唯一無二の女性だった。
――ドアチャイムが鳴らされた。
その音で、テルアキは現実の世界に帰ってきた。コーヒーが出来ていた。キッチンの中を、温かい湯気がゆらりと漂っている。もう一回、玄関の方から無機質な機械音が鳴り響いた。
今日は注文しておいた荷物が届く予定があっただろうか。それにしては時間が早すぎる。ケンキチ辺りが気を利かせて、何かを持ってきてくれたのかもしれない。やれやれ、とテルアキは腰を持ち上げた。
後十分もしたら、ユミコのいるマンションに出かけなければいけない。ゆっくりとコーヒーを楽しむ時間ぐらいは、残しておいてもらいたいものだ。「はい、今いくよ」一声かけて、開け放った扉の向こうにいたのは……
「テルアキ、テルアキなのね?」
失くしてしまったはずの、遠い過去だった。




