ただひたすらにずっと(5)
きた時と同じ、トランク一つを持ってヒロキは新幹線のホームまで上がった。この空気には、どうしても慣れることが出来ない。ホコリとゴミが入り混じった、都会の臭いだ。ヒロキは地元の土や草の匂いが恋しくてたまらなかった。
「忘れ物とか、ない?」
「これだけだから。ホテルでもほとんど広げなかったし、大丈夫」
今朝になって、ユミコが見送りにきたいと連絡を寄越してきてくれた。そんな程度のことでも、ヒロキは飛び上がるくらいに嬉しかった。ユミコが東京に出ていってしまってから、一年と数ヶ月。全てを忘れてしまうには、まだまだ短か過ぎる期間しか経っていなかった。
大学に入ってから、ヒロキは二度見合いの席を設けられた。娘の不始末に、月緒家が気を遣って準備してくれたものだ。どちらも申し分ない家柄の、美しいお嬢さんだった。農家に嫁ぐという事情も、ちゃんと承知してくれている。どちらの家に対しても、ヒロキは断る理由を探すのが大変だった。
ユミコがいなくなって、それですぐに次の相手を探すような気にはなかなかなれそうになかった。ユミコが東京に出ていったという話は、瞬く間に村中に知れ渡っていた。ヒロキの元にはお悔やみだか何だか判らないようなコメントが数多く寄せられて、高校時代の同級生の女の子たちからはちらほらと告白もされる始末だった。
その全部に対して、ヒロキは丁寧にお断りを述べて回った。
許嫁がいなくなったところで、今のヒロキに何か大きな影響がある訳ではない。結婚をするにしても、まだ当分は先の話だ。少なくとも大学生の間は、ヒロキは学業と家の手伝いに集中していたかった。
それに――きっとユミコ以上の女性なんて、見つかるはずがない。
「これ、今の彼氏から。お土産に、どうぞって」
高そうなお菓子の入った紙袋を、ユミコが渡してきた。今日こうやって見送ってもらえるのも、恐らくはその彼氏のお陰だ。良い人、なのだと思う。昨日も感じたことだが、ユミコは少しも無理をしている様子がなかった。この土地で、自らの意思で自由に羽ばたいている。ヒロキにはその事実を受け入れることが、たまらなく辛かった。
「ユミコ、ごめんな」
ホームに、白い車体が滑り込んできた。乗ってきた客が降りて、車内清掃が始まる。数分もすれば乗車の時間だ。ヒロキはユミコの眼を、正面から見つめた。これで最後になっても、後悔のないように。ユミコの顔がこんなに近くにあるのは、久しぶりのことだった。
「俺はやっぱり、あの村の人間だ。村から離れて、農業以外のことをやって生きていくことは出来ない」
「ヒロキ……」
ユミコがヒロキに何を望んでいたのか。ヒロキには、判っていたつもりだった。あの村に――月緒の家と西浦の家に、愛想をつかして。二人で手に手を取って、外の世界へと飛び出していきたかった。ユミコと並んで、苦しみを分かち合う関係でありたかった。
ユミコの望みを、ヒロキだって叶えてやりたかった。それがヒロキに実現出来るのなら、苦労はなかった。両親のこと。弟や妹のこと。そして自分にある力と、現実になせること。
それらをひっくるめて考えた時、ヒロキには村に残る以外の選択肢は持てなかった。
「ユミコは俺とは違う。立派な東京の人間だ。元気でいてくれて、安心した。もう誰も、無理に帰ってこいなんて言わない」
伝えなければならない言葉を、ヒロキはぐっと飲みこんだ。ユミコの父親と兄の顔が脳裏に浮かんだが、無理に振り払ってしまった。それは今のユミコにとっては、必要のない事実だ。ユミコがこれからの人生を送っていくのはあの村ではなく、この場所なのだから。
「帰ってくるな、とも言わないからさ。いつでも遊びに来てくれよ。歓迎する」
『彼氏も一緒に』という言葉は、流石に咽喉を通らなかった。ヒロキもそこまでは割り切れない。ユミコのことを完全に諦めるのには、まだまだ沢山の時間が必要そうだった。
許嫁なんて条件を与えられなくても、ヒロキはきっとユミコのことを好きになった。むしろその方が、おかしな拗れ方はしなかったとも思う。ヒロキが西浦家の長男で跡取りではなくて、ユミコが月緒家の人間でなければ。そんな『もし』があったなら、二人の未来は全く違った結末を迎えていたに違いなかった。
尤もその場合、ヒロキはまずユミコの視界に入って、存在を認めてもらうところから始めければならないが。ユミコは奔放な鳥だ。今の彼氏とやらは、そもそもどうやってこのユミコを繋ぎ留めておいているのか。その点についてだけは、一度会って話をしてみたいかもしれなかった。
「ありがとう、ヒロキ」
ユミコの掌が、ヒロキの手に触れた。懐かしい、ユミコの感触がした。カエルでも虫でもヘビでも、平気でつまみ上げるユミコの指。そのくせ白くて細くて、節ばったヒロキのものとは全然異なっている。
ユミコの友人のヨリも綺麗な手指をしていたが、あれはダメだった。あんな爪では、米だって研げないだろう。一体全体、どうやって普段の食事を作っているのか。東京での暮らしというのは、ヒロキには謎で満ち溢れていた。
「最後に一応確認させてくれ」
一番肝心な質問だ。昨日にも訊いていたはずだが、何度でも確かめておきたくなる。これでもうユミコには会えなくなる可能性があるのならば、尚更のことだった。
「ユミコは今、幸せか?」
ヒロキの幸せは、少なくともこの東京にはなかった。どこを向いても人の群れが足早に歩いていて、数える程の緑しかなくて。心を落ち着かせてくれる、土の匂いが感じられない。
同じ場所で育ったユミコには、ここで何かを得られるものがあったのだろうか。もしユミコがほんの僅かにでも、『無理をしている』と感じられたのなら。ヒロキはユミコを強引に説得して、村に連れ帰ろうという覚悟も持っていた。
そしてそれは――
「うん。すごく幸せだよ。とても大事にしてもらってる」
杞憂だった。
ヒロキがユミコの笑顔を取り違えることなんてない。一年ちょっとのブランクなんて、瞬き程度の時間と変わらなかった。その証拠に、今だってこんなに胸が苦しい。ユミコの手を離さなければいけなかった自分に、ヒロキは無性に腹が立ってきた。
非力で、色々なしがらみに囚われたヒロキには、ユミコを追いかけることなんて出来なかった。
「さようなら、ユミコ」
「さようなら、ヒロキ」
あの田舎の駅で別れた時は、ヒロキは見送る側だった。今度は、ヒロキがユミコを置いていく。失意と、諦めに包まれて。一人で運転した車の中で、ヒロキは泣いていた。新幹線の席では、涙は見せられない。忍耐が必要だ。
遠ざかっていくホームの上で、ユミコはその姿が見えなくなるまでずっとその場にいてくれた。
新幹線ホームから東京駅の地下広場に降りてくると、相変わらずの混雑だった。待ち合わせの場所は、『銀の鈴』だ。一度やってみたかった。いそいそとそこまでやってくると、グレーのスーツを着たテルアキが不機嫌そうに立っていた。
「お待たせしました、テルアキさん」
「ああ、うん。じゃあ移動しようか」
テルアキも、この人の洪水はあまり得意ではないらしい。世の中的には、夏休みが始まろうとしていた。みんな大きな荷物を持って、あちらにこちらにと大混雑だ。テルアキの後ろについて歩きながら、ユミコはその背中をじっと見つめてみた。
初めて会った時からそうだが、テルアキは不思議な人物だった。うちのマンションで暮らさないかとか、誘い方にはある種のいかがわしさしか感じられなかったのに。本人からは、少しもやましい気持ちが感じ取れなかった。ユミコがつい油断して踏み込み過ぎてしまっても、それをテルアキの方から窘めてくるくらいだ。
それなのに、九月になればユミコを愛人にすると豪語している。冷静に考えてみれば、怖い話だ。四十を過ぎたおじさんに飼われて、何を要求されても逆らうことが許されない。本当なら、期日が決められていたとしても到底受け入れられるものではない。
ユミコは昔、ヒロキと一緒に閉じ込められた離れでの出来事を連想した。イメージ的には、あんな状態で良いのだろうか。ヒロキはあの時、ユミコを前にして踏みとどまってくれた。優しくて、素敵な許嫁だったと思う。だから好きだった。初恋であったと、胸を張って言うことが出来た。
対して、テルアキの方はどうかといえば。ユミコを鳥籠に入れると宣言していた金持ちのおじさんは――あろうことか、その蓋を開け放つつもりであると申し出てきた。
自由にしてくれて構わない。
海外旅行の手配もする。
ユミコの夢を叶える手伝いがしたい。
そこまで言っておきながら、未だにテルアキはユミコの手を握ることすらしなかった。問い質してみると、「これらは全て善意ではない」とムキになって否定してくる。こんがらがって訳が判らないが、確かなことは一つだけあった。
「テルアキさん、はぐれてしまいそうなので、くっついて良いですか?」
「まあ、これでは仕方ないですね」
差し出された掌を無視して、ユミコはテルアキの腕をぎゅうっと抱き締めた。以前風呂場で見て、筋肉質なのは知っていた。がっしりとしていて、逞しい。スポーツでもやっていたのか、それとも他に何か事情があったのか。
それもいつか、聞かせてもらおう。ユミコが正式にテルアキの愛人になったのなら、テルアキは自分のことをもっと話してくれる。ユミコには、そんな予感がしていた。
「ちょっと、ユミコさん」
「ヒロキには『今の彼氏』って説明しましたから。ああでも、恋人同士には見えませんかね?」
髪を黒く染めて、テルアキも少しは若作りになった。それでもユミコとのニ十歳以上の年の差は、いかんともしがたい。親子、にしては距離感が近い。恋人、というには年が離れ過ぎている。
結果は――愛人か。
ユミコに寄り添われて、テルアキは耳まで赤く染めていた。無理に振り払うことはしないが、がちがちに緊張して固くなっているのが判る。喜んでいるくせに。ユミコは悪戯っぽく笑うと、テルアキの二の腕に顔を擦り付けた。
「傷心なんです。慰めてくれても、罰は当たりませんよ?」
ヒロキと同じだ。テルアキは、真剣にユミコのことを好きでいてくれている。ヒロキはユミコの故郷で、変わりない日常を共に歩んでいく道を。テルアキは東京で、思うままに生きられる自由な道を示してくれた。
どちらにも、素晴らしい魅力が感じられた。ヒロキがユミコを大事に想ってくれているのは、判り切っていたことだった。ユミコだってこれまで、ちゃんとヒロキのことを見て、理解してきている。ヒロキは許嫁という肩書に振り回されず、そうであるために常に努力を怠らなかった。
結婚相手がヒロキなら、ユミコを単なる労働力とか子供を産む機械としては扱わないだろう。きちんとユミコの意思を尊重してくれて、お互いに助け合って生きていけたと思う。
でも、それだけでは足りなかった。
「昨日も訊きましたが――ユミコさんは結構大変な目に遭っているのに、何で俺のマンションにこようと思ったんですか?」
ヒロキがやってきたことを話す過程で、ユミコはテルアキに昔のことも語っていた。虐待寸前のやり口について、テルアキは憤慨し、ヒロキの行動を高く評価した。
そして同時に、テルアキはユミコの現状についても疑問に感じた。のこのこと見知らぬ男の部屋にやってきたら、普通はひどいことをされると思うものではないのか。ましてや、ユミコは一度その寸前にまで追い込まれている。それでもなお、テルアキのマンションに飛び込んできたのには……何か特段の理由があったからなのか。
「実家に腹を立てていたというのもありますが……後は、恥ずかしい妄想をしてました」
「妄想?」
ユミコはふふっ、と相好を崩した。本当に、恥ずかしい。テルアキがこれを聞いたら、気分を害しはしないだろうか。それでも、その時の反応を見てみたいという欲求にはかなわない。振り回してしまって、ごめんなさい。心の中でそっと、甘えた声で詫びておく。
「いざとなったら、ヒロキが助けにきてくれるんじゃないかって。もしそうなったら私は田舎に帰って、観念してヒロキのお嫁さんになっていたと思います」
ヒロキはいつだって、ユミコの味方だった。ユミコの危機に、遠く離れたこの東京の地にまで飛んできてくれたとしたら。流石のユミコであっても、わがままはここまでだと諦めざるをえない。色々とあった後のことを考えると、汚されてしまった自分を貰ってくれる相手はヒロキぐらいしか思いつかなかった。
「実際に、きてくれたじゃないですか」
「残念ながら、お呼びじゃなかったですけどね」
悪い男は、ちっとも悪くはなかった。ユミコのことを愛していると口にして、お金でも何でも与えてくれた。時間的な猶予ですらも、だ。九月までにテルアキの元を去るなら、その後は請求も何も一切おこなわないとも約束してくれた。仮にそれを裏切られたとしても、ユミコには後悔はなかった。それだけのものを、テルアキはユミコに示してくれていた。
ユミコは今、新しい場所にいる。テルアキの腕を、強く抱く。テルアキの匂いは、マンションの部屋と同じだった。ユミコの居場所は、あそこだ。恐らくは、これからも――
「六ヶ月の約束ですからね。忘れないでください」
テルアキが、努めてユミコの方を見ないようにして嘯いた。こういう時、テルアキはいつも意固地になる。嬉しいのなら、素直に「嬉しい」と言ってしまえば楽になるのに。
ユミコはテルアキの肘の辺りに、目いっぱい胸を押し当ててやった。大きくはなくても、存在ぐらいはアピール出来る。テルアキが目を白黒させたのを、ユミコは満足げに見上げてちろりと舌を出した。
「テルアキさん、それこそ『Don't be true』ですよ?」
愛する人と書いて『愛人』。それで良いじゃないか。期日なんて関係ない。
大切なのは、今どう想っているか。それだけだった。
第5章 ただひたすらにずっと -了-




