ただひたすらにずっと(4)
薄い桜色の生地を通して、白い肌が透けている。ユミコをこんな眼で見るのは、初めてのことだった。ヒロキは男で、ユミコは女だ。その事実が、今目の前でありありと示されている。甘だるい香りに包み込まれて、ヒロキの思考にはぼんやりとした霞がかかっているみたいだった。
「ユミコ……」
「ヒロキ、こっちにこないで。お願い……」
その時何が起きたのかをヒロキが正確に知ったのは、後で聞いた話によってだった。中学生になったユミコは、初潮を迎えた。これから月緒家の女として、ユミコはヒロキの元に嫁いでいく準備を始めなければならない。しかし当のユミコは相変わらずのお転婆で、自らが女であるということの自覚ですら足りていない有様だった。
それならば、多少の荒療治であっても構わない。ユミコは西浦家にもらわれて、将来的にはその後継ぎを産む者であるという事実をしっかりと身に刻んでもらおう。なぁに、見ている限りにおいて、当人たちもまんざらではなかろうよ。
そんな大人たちの思惑によって、ユミコはこの離れに軟禁された。そこにヒロキがのこのことやってきて、何も教えられないままに連れ込まれた、ということだった。
部屋の中に漂っている臭気は、フェロモン的な効果を持つ香なのだそうだ。子孫を残すためには、こういったやり方もまた必要になる。月緒家に限らず、この地域の家では古くからおこなわれていることであり、取り立てて珍しい話ではなかった。
ただそれがこの現代において、まだ中学生のヒロキとユミコに受け入れられるものなのかどうかというのは――別な問題だった。
「ユミコ、俺は――」
びくん、とユミコが肩を震わせた。喉が渇く。唾液がねとねとと絡み付いて、口の中で糸を引いているのが判る。この場所は、妙にヒロキの心を惑わせた。小さく身を丸めるユミコが、今のヒロキにはとても愛しいものに思えてたまらない。
抱き寄せて、その感触と匂いを確かめたかった。柔らかさと、湿り気と。その全てを腕の中に収めて、自分だけのものにしてしまいたい。湧き上がってくる強い欲望が、ヒロキを支配しようとしていた。心臓が跳ね上がる。冷静でなんて、いられる方がおかしかった。
なぜなら――ヒロキは、ユミコのことが好きだから。
「心配するな。何もしない。一晩ここに居れば良いだけなんだろう?」
ヒロキのこめかみの奥で、ぶちん、と何かが千切れる音がした。危ない危ない。何をやっているんだヒロキ。そこにいるのは、ユミコだ。例えヒロキがそれを望んでいたとして。
「俺は三和土の方で寝るからさ。不安なようなら、心張り棒でもかましておいてくれ」
笑って引き戸を閉めると、ヒロキはどすんとその場に尻もちをついた。戸板に寄りかかって、天井を見上げる。大丈夫だ。ちょっとずつ落ち着きが戻ってきている。ヒロキには、正しい選択をしたという自信があった。
こんな形でユミコと関係を持つのは、絶対に間違っている。
外に続く扉の隙間から、夕陽が差し込んでいるのが判った。月緒家を訪れたのは学校帰りだったので、もうそんな時間だ。ユミコの父親は、本気でここに一晩中二人を閉じ込めておくつもりなのだろうか。水とトイレはあるみたいだが、食事抜きで励めとはまたひどい話だ。動物の番のような扱いに、ヒロキは段々と腹が立ってきた。
「ヒロキ」
ごとん、とヒロキの背中に振動が感じられた。ユミコの声は、近くから聞こえる。恐らく引き戸の向こう側に、ユミコはヒロキと同じように寄りかかっていた。
「トイレにいきたくなったら言えよ。そのぐらいの間なら、ちゃんと我慢出来るから」
「うん。ありがとう」
ユミコの返事は、さっきよりもずっと穏やかな口調だった。ああ、良かった。ヒロキは全身から力を抜いてぐったりとした。あと一歩判断が遅ければ、きっと間違いを犯していたに違いない。
ユミコが女性であることを、ヒロキは初めて意識した。夫婦とは、そういうことだ。まだ子供だったヒロキには、そのイメージを漠然としてでしか掴めていなかった。
西浦家を農家として続けていくためには、ユミコと結婚して子供を作らなければならない。それが意味する正確な事実を、この場所でまざまざと思い知らされた。
ユミコのことを、好きで良かった。
正直な感想は、それに尽きた。何の想いも抱いていない相手に、こんな行為は出来っこない。ヒロキは自分がユミコの許嫁であることを、今日ほど有難いと思った日はなかった。
「ヒロキ?」
「ん?」
「……ごめんね」
ヒロキは笑った。そこに居るのがユミコであることが嬉しかった。ユミコはヒロキの大切な幼馴染だ。
そして、いつかはヒロキの妻になる女性。今はそれで、充分だった。
「気にすんな。こういうのは良くない。こんなことしなくたって、俺はユミコの許嫁だ」
戸板の向こう側に、ユミコの体温を感じる。まるで背中から、そっと抱き締められているみたいだった。これはこれで、生殺しも良いところだ。まだ陽も沈んでいないのに、長い夜になりそうだった。
ユミコの寝息が聞こえ始めるまで、ヒロキはずっとその場を動かなかった。遠い未来のことを考えているうちに、ヒロキも知らぬ間に睡魔に襲われていた。
意気地なしと謗られようが何だろうが――それがヒロキの出した結論だった。
陽が落ちてからユミコがマンションに帰ってくると、どったんばったんという物音が聞こえてきた。さてはと思ってキッチンに足を踏み入れると、腕まくりをしたテルアキが汗をかきながら悪戦苦闘をしている真っ最中だった。
「ただいま、です」
「やぁ、ユミコさん。おかえり」
夢中になっていたせいか、テルアキはユミコの帰宅に気が付いていなかった様子だった。慌てて萌黄色のエプロンを取り外す。熊が料理をしているみたいで可愛かったのに。くすり、とユミコは微笑を零した。
「どうしたんですか? お腹が空いて、ご飯が待ちきれなかったんですか?」
「そうじゃないよ。その、もののついでに、と思ってね」
「へぇ」と相槌を打って、ユミコはキッチンの状況を確認した。試験期間中にも、テルアキはユミコのために何回か夕食の準備をしてくれたことがあった。その時から変わらない、典型的な男の料理スタイルだ。
凝ったものを作ろうとしている割に、基礎の方が出来ていない。道具類は片付けながら使うことが大前提だ。生ゴミも適時ちゃんと処分しつつ動かないと、どんどん自分の作業スペースを圧迫していく。後はおかず作りに集中しすぎて、米を炊き忘れている。うーん、三十点。
「ハンバーグですね。どうします? 引き継ぎますか? それともお任せしましょうか?」
テルアキは困ったように眉根を寄せてみせた。やり遂げたいのはやまやまだが、自身の限界も見えてきた、といったところか。ユミコは荷物を椅子の上に置くと、エプロンを持ったテルアキの手にそっと触れた。
「じゃあ、一緒にやりましょう。折角テルアキさんがご馳走してくれるんですから」
ユミコの言葉に、テルアキは嬉しそうに首肯した。
「急な用事とやらは、片付いたのかい?」
ちょっと表面が焦げ付いたハンバーグを食べながら、テルアキはそう質問してきた。なるほど、それを気にしていたのか。テルアキには悪いことをしてしまった。ユミコは申し訳なさそうに頭を下げた。
「はい。今日はすいませんでした。一応、これで片付いたつもりではいます」
実家には電話で散々釘を刺しておいた。ユミコはユミコで、東京で自分の力で生活していくつもりだ。これ以上余計なちょっかいを出されたらたまったものではない。肝心の父親とあまり話せなかったのはやや不満だったが、苦情はガッツリと述べてやった。
ヒロキに迷惑をかけることも、金輪際やめてもらいたかった。ヒロキは東京で、ビジネスホテルに部屋を取ってあるらしい。明日の午後の新幹線で地元に帰る予定だ。やってきてすぐで忙しないが、家の仕事もあるのでは仕方がなかった。
ヒロキは初めて東京にきたということで、あの後は軽く観光に連れて歩いた。あれだけ責め立てておいて、その後は「はい、さようなら」と別れてしまう程ユミコも鬼ではない。同行をお願いしたヨリが最後まで文句を言っていたが、それは聞こえなかったことにしてあった。
「地元から急に知り合いがこちらに来て――」
テルアキの顔を見て、ユミコはそこで言葉を詰まらせた。テルアキはいつもと変わらず、にこにこしながらユミコの話を聞いている。その向こう側には、沢山の不安が隠されているのが見て取れた。
いきなり夕食の準備をしようとしていたのも、きっとそうだった。毎度のことながら、ユミコはテルアキに気を遣わせてばかりいた。負い目を感じなけれなならないのは、本来ならばユミコの方であるべきなのに。この人の良いおじさんが、ユミコを愛人として飼うだとか言っているのだから――ユミコはなんだか可笑しかった。
「ごめんなさい、テルアキさん。今日こっちにきたのは……以前話してた許嫁の人なんです」
テルアキの動きが、ビデオ再生の一時停止みたいに完全に止まった。包み隠さず、正直に話そう。ユミコは居住まいを正すと、背筋を伸ばしてテルアキと対峙した。テルアキはしばらく黙って手元を見つめていたが、やがて小さく「うん」と呟いた。
「それは外せない用事だったね。了解した。彼は今夜はこちらに?」
「新宿のビジネスホテルに泊まるそうです。明日の午後には新幹線でこちらを発ちます」
「そうか……じゃあ、まだ片付いていないじゃないか」
今度は、ユミコが固まる番だった。テルアキの視線が、真っ直ぐにユミコに向けられている。にこやかな表情のままでいることが、逆に緊張感を増していた。ユミコはごくり、と唾を飲み込んだ。
テルアキとの約束では、マンションの外では彼氏を作ろうが何をしようが自由、ということにはなっていた。ただし、それは当然建前上のものだ。ユミコがここにいさせてもらえるのは、現時点ではテルアキの善意以外の何物でもない。もし仮にユミコがテルアキの気分を害するようなことがあれば、その時にはそれ相応の因果が報いてくることになるだろう。
「きちんとお見送りをして差し上げるべきだし、ユミコさんもちゃんと答えを出しておく必要があるんじゃないですか?」
「答え、ですか?」
テルアキの言葉は、あくまで静かだった。その内面が、隠れてしまって掴めない。昨日までは、もっと手に取るように判っていたはずなのに。突然現れた分厚い壁の存在に、ユミコはきゅうっと胸の奥が締め付けられた。
「どのような形であれ、彼はユミコさんを追ってここまできてくれたんです。彼の行動を、きちんと評価してあげてください」
たった二日であっても、ヒロキにしてみれば大変なことだった。大学の定期試験もあったし、家業のこともあった。それらを一時置いてきてでも、ヒロキはユミコの様子を確かめにきてくれたのだ。
そう考えてみると、今日のユミコの態度はあまり良くなかったかもしれなかった。もっと優しく接してあげることも出来た。一言でも良いから、お礼を述べてあげるべきだった。テルアキに諭されると、ユミコの中には急にヒロキに対する罪悪感が込み上げてきた。
――ただ、それでも。
「答えは、決まっていますよ」
ユミコは、きっぱりと宣言した。いくべき場所も、いるべき場所も明確だ。ユミコの世界は、外に向かって開かれている。あんな狭い小屋の中に閉じ込められて、子供を産むために契りを結ばされるなんてまっぴらだった。
愛人になった方が自由が得られるなんて、皮肉が過ぎて笑えなかった。そこに、例えどんなに強い思い入れがあったのだとしても。
ユミコには、後ろを振り返るつもりはまるでなかった。
翌朝、日の出と共にヒロキとユミコは解放された。月緒家での朝食は、かつてない程の賑やかさ――というよりも、家族大戦争が勃発した。怒り狂ったユミコが父親に飛びかかり、父親もそれにまともに応戦するものだから食卓は滅茶苦茶だった。勝手知ったるユミコの兄と姉は、自分たちの茶碗を持ってさっさと別な部屋に避難してしまった。
「ヒロキくんも『あれ』を嫁に貰うとか、大変だなぁ」
二人とも、まるで他人事のようにのほほんとそんなことを口にしている。確かに何かある毎にこれを繰り広げなければならないのでは、命がいくつあっても足りなさそうだ。ヒロキは「はぁ」、と気が抜けた返事をするので精一杯だった。
だが――問題はこの後だ。事態はより深刻な方向に傾いてしまった。
どこからどう話が漏れ出たのか。学校ではヒロキとユミコが一晩褥を共にし、一線を越えたとの噂がそこかしこで囁かれていた。狭い村社会では、こういったゴシップはパンデミックのごとく急速に拡大する。一日も経たないうちに、二人が肉体関係を持っているという根も葉もない醜聞が学校中を席巻していた。
周囲からの好奇の視線に晒されながら、ヒロキは自分のことよりもユミコが心配だった。口さがない者たちは、思わず耳を覆ってしまいたくなるような淫らな言葉でユミコの尊厳を傷つけた。
その全てを躍起になって否定して回っても、埒は明かない。ヒロキもユミコも、この猛烈な嵐が一刻でも早く過ぎ去ってくれることを願うばかりだった。
「よう、お前月緒とヤッたんだって? どうだったよ?」
学校の廊下で、見知らぬ上級生からそう声をかけられた時。ヒロキの忍耐は限界に達してしまった。ヒロキはユミコの許嫁だ。そのユミコがこんなに侮辱されて、黙っているなんて出来るはずがない。
かっと血が昇って、気が付いたら一番近くにいる上級生の顔面に拳がめり込んでいた。手が痛い。身体が痛い。心が痛い。痛くて、涙が溢れ出す。ヒロキは何も見ずに、手と足を乱暴に振り回し続けた。
顔中痣と絆創膏だらけで月緒家にやってきたヒロキに、ユミコはぎょっとした。何があったのかなんて、火を見るよりも明らかだった。ヒロキは無言で縁側に腰かけて、遠くの空を眺めた。
これもまた、思い出に変わってくれるのだろうか。ユミコと一緒に、あの頃は大変だった、と笑い合える日が。ユミコもヒロキも、充分に傷ついた。それは未来において、どんな形で報われるというのか。
「――それでも俺は、ユミコの許嫁だから」
人の噂も七十五日、とも言われる。実際、三ヶ月もすれば学校の方は落ち着いてきた。そもそも月緒家のすることだ。この近隣で表立って悪く言える者など、いるはずもなかった。
この一件で、ユミコは今まで以上に家族との折り合いが悪化した。特に父親に対しては、険悪を通り越して憎悪に近いものとなった。ユミコは父親と同じ家の中にいても、口をきかないどころか顔も合わせないようになった。
また、ヒロキはユミコからやんわりと避けられ始めたのを感じていた。嫌な思いをさせられたのだから、当然の結果だ。ヒロキと結婚すれば、農家の嫁として果たすべき義務が生じる。ユミコはそれを毛嫌いして、村の外に希望を見出そうとしている様子だった。
ヒロキは――何も変えられなかった。
今までと同じようにユミコと接して、同じように傍に居続けた。それ以外に、何が出来ただろうか。愚直に、ただひたすらに、ずっと。ヒロキがユミコにしてあげられることは、他には何もなかった。
それがどんなに悔しくても、もどかしくても。
ヒロキは、ヒロキ以上の何者にもなり得なかった。




