ただひたすらにずっと(3)
どうしてこうなった。
もう何回目か判らない溜め息を、ヨリは胸の奥底から吐き出した。その正面には、テーブルに両肘を付いて掌で顔を覆い隠したヒロキが座っている。こちらも優に、三十分以上はその体勢を保持していた。
『彼氏が出来たの』
おそらくはユミコのその台詞が、ヒロキの脳内では何百回となくリピート再生されているに違いない。たまに、鼻をすする音が漏れ聞こえてきた。こうなるともう哀れを通り越して、ただひたすらに無残だった。
食堂に入ってきた他の学生たちが、ひそひそと小声で噂しているのが聞こえてくる。ユミコがいないこのシチュエーションでは、まるでヨリがヒロキを手酷く袖にしたみたいだった。勘弁してほしい。どうして初対面の、それも友人の元婚約者を相手にそんな勘違いを誘発されなければならないのか。
当のユミコはといえば、少し離れた場所でスマホに向かって怒鳴り散らしているところだった。ついさっきまではヨリの隣に座っていたのが、段々と会話内容がエスカレートしてくるのが判った。口調が随分と穏やかなものではなくなったな、と思っていたら「ちょっと失礼」と言い残して、ユミコは一人で今の場所に移動するに至った。後は猛烈な家族喧嘩の様相だ。取り残されたヨリの身にもなってくれ。ヨリにとっては、実に理不尽極まりない状況だった。
――それにしても。
このヒロキが、ユミコの許嫁だったのか。ヨリはじろじろとヒロキを眺め回して観察した。
一言でいってしまえば、ヒロキは単純な真面目クンだった。服装地味、髪型地味、地味地味地味の金太郎飴。遊んでいる感、全くナシ。付き合ってみて楽しそうかと問われれば、疑問符以外に何も浮かんではこなかった。最終的な結婚相手としてならまあアリだが、彼氏となると相当に厳しいものがある。
純朴な、田舎の農村に住む青年。ユミコとは、ある意味お似合いではあると思う。ただし、ユミコ自身は絶対に選ばないであろう相手だった。
「あの……北上さん」
「はい、何でしょう?」
ぼそり、とヒロキに名前を呼ばれて、ヨリは自分の返事がひっくり返るのを感じた。見事なファルセットだ。カラオケでだってこんな声は出せない。ヨリはさっきから、恥ずかしい思いをさせられてばかりだった。ユミコには今度絶対に何かを奢ってもらわなければ、割に合わなかった。
「ユミコの彼氏って、ご存知ですか?」
「ええ、まあ。年上の、大人の人です。ユミコとは三月に知り合ったばかりで、最近親密になってきたみたいですね」
嘘は言っていない。その代わり、肝心なことは抜かしてある。ユミコの彼氏は四十二歳のおじさんで、正確には彼氏じゃなくて準愛人関係だ。しかもユミコはそのおじさんの所有するマンションの一室に住まわされていて、半同棲生活を送っている。
……そんな話をしたら、ヒロキはすぐにでも道路に飛び出して車に轢かれて死んでしまいそうだった。今もヨリの発した『親密』という単語に反応して、ぐらり、と上体が揺らめいている。テルアキの存在が、余程のショックな様子だった。
「ヒロキさんって、ユミコの許嫁、だったんですよね?」
親同士の決めた縁談だと、ユミコはその話をするといつも憤っていた。ヒロキは悪い人間ではないが、デリカシーに欠けるところがある。実家を継ぐことばかり考えていて、ユミコとの婚約だって半分義務のように感じている節すらあった。
「はい。幼い頃から、俺はユミコと結婚するのだと教えられてきました」
ヒロキはその言いつけに対して、盲目的に従ってきたということか。それならそれで、ヨリにはちょっとは同情出来るところもあった。ユミコの方も、ヒロキとは仲の良い幼馴染という関係は保ってきたのだ。だったら、このまま成長していけばいずれは……と思ってしまうのは、仕方のないことなのではなかろうか。
「ユミコは、俺のことを何て言っていましたか?」
「うーんと、どう表現すれば良いのかな……」
正直に伝えれば、それこそ再起不能なまでに打ちのめしてしまうかもしれない。過干渉とか、粘着質とか。その辺の言葉をオブラートとかお薬ゼリーでくるんだ、マイルドな言い方に改めなければ。うざいとか。しつこいとか。ユミコのことなら何にでもすぐに関わってこようとする――とか? ああもう、語彙力!
「ちょっとばかり、絡み過ぎかなって」
「ははは。ですよね。大丈夫です。判ってますから」
ヒロキの顔は、ちっとも笑っていなかった。ヨリは頬骨をピクピクと痙攣させた。この針のむしろの上に、いつまで座らされていなければならないのか。ユミコ、マジで許さんぞ。ヨリがユミコの方をちらりと見やると、「お兄ちゃんじゃお話にならない! お父さんに代わって!」と丁度延長戦の宣言がなされたところだった。
本当にもう――どうしてこうなった。
「ユミコとは色々あって、多分俺と結ばれることは一生ないんだろうなって、判ってはいたんです。東京でユミコが元気にやっていけて、その、か、彼氏も出来たっていうのなら……俺は、喜んでやらなきゃいけない」
あ、これ、長くなるヤツだ。
ぽつりぽつりと、ヒロキが昔語りを始めた。ユミコは次の電話の相手に向かって怒号をぶつけている。掃除のおばちゃんが、物珍しげにこちらの方をちらちらと横目で窺っていた。二つ離れたテーブルに陣取った学生の集団は、明らかに全員で聞き耳を立てているのがバレバレだった。
ヨリは何もかもを諦めて、まるで菩薩のような心持ちでヒロキの話に耳を傾けた。取り敢えず『ヒロキは空気が読めない』というユミコの評価は正しかったのだと、身に染みて理解することが出来た。もちろん、自らが実践して理解してみたいなどとは一切望んではいなかったが。
小学校も中学年、高学年となると、ヒロキとユミコの関係性にも変化が訪れてきた。
ヒロキは労働力として家の手伝いをする機会が増えて、あまり友達と遊ばなくなった。もちろん農家の子供たちがみんなそうなのかというと、そうではない。ヒロキは西浦家の長男であり、人一倍責任感が強かった。それが両親や兄弟たち、村のためになるのならと率先して作業を覚えようとした。
ユミコとは、相変わらず週に一度は月緒家を訪ねて顔を合わせていた。思えばこの頃から、義務としての色合いが濃くなってしまっていたのかもしれなかった。学校ではほとんど口をきかないし、一緒にいても特別に何かをする訳でもない。ユミコも少しずつお転婆な遊びからは足を洗い始めて、二人で枝豆の筋を取ったり、小豆を煮たりして過ごすようになった。
許嫁という言葉がどういうことを意味するのか、ヒロキも段々と理解が及んできた。ヒロキはユミコと世帯を持って、実家の農業を継いでいく。地元の有力者である月緒家の娘を貰い受けるのだから、失礼があってはいけない。ユミコの気持ちを無視することにだってなりかねないだろう。
だから出来るだけユミコには優しく、大切に接するようにしなければならない。両親からも、ヒロキは口を酸っぱくしてそう言い聞かされてきた。
そんなの、当たり前のことだ。夫婦として助け合っていくのに、粗雑にして良いはずがなかった。
明確に言葉に出すことはなかったが、ヒロキはユミコのことが好きだった。目が覚めるような美人ではなくても、ヒロキの目にはユミコは誰よりも可愛らしくて、魅力的に映った。ただそれを周りに悟られるのは気恥ずかしかったので、ヒロキはいつも誤魔化してばかりだった。
「ユミコは、親が決めた許嫁だから」
それもきっと、良くなかった。ヒロキは自分でも判っていた。そうやってユミコに本当の気持ちを打ち明けてこなかったから、ユミコの心は離れてしまったのだ。ヒロキは臆病者だ。農家になるしか能のないヒロキには、許嫁という繋がり以外にユミコを引き留めておく材料が思い付かなかった。
ではユミコの方は、ヒロキのことをどう想っているのか。ヒロキはそれを知るのが怖かった。月緒の家にいけば、ユミコは幼い頃と同じようにヒロキを迎えてくれた。交わす言葉の数は減ったが、一緒にいることを嫌だとは一度も口にはしなかった。
ユミコもまた、ヒロキを大人たちによって決められた相手だと認識しているのか。それとも、それ以上の感情を持っているのか。ヒロキにはそれを訊いて確かめるだけの――勇気がなかった。
将来、その時がきたのなら。ユミコと契を結んで、晴れて夫婦の関係になることが出来たとして。そうなったら初めて、ヒロキはユミコに正直な気持ちを打ち明けようと決めていた。
――許嫁とか、そういうのは関係なく……ユミコのことが好きなんだ。
このまま村で暮らしていけば、いつかはその日が訪れる。慌てる必要なんて何もない。ヒロキはユミコと穏やかな時間を過ごしながら、大切に想い続けていれば良い。
そう、信じていた。
中学に入って、しばらく経った日のことだった。この年頃になると、男女の間で何があっただのでからかわれる機会が増えていた。許嫁という関係は、思春期の中学生たちにとっては格好の好奇心の的だった。
ヒロキもユミコとのことで何かといじられたが、「親が決めた話だから」と応えるだけに留めておいた。ユミコだって、あることないことをあれこれと詮索されるのは嫌だろう。ヒロキ自身も、勝手なことばかり影で噂されるのはあまり嬉しくはなかった。
学校では、努めてユミコとは顔を合わせないようにしていた。話がしたいのなら、週に一度月緒の家でゆっくりとすれば良い。わざわざ人目のある学校で、ユミコに不必要な恥をかかせる必要はなかった。
窮屈で不自由に思うことはあっても、それは仕方のないことだとヒロキには簡単に割り切れた。どんなに今苦しくても、ユミコとの未来が壊れる訳ではない。この毎日も、いつかはセピア色の美しい思い出に変わってくれるはずだった。
ヒロキは良く覚えている。その週は、珍しくユミコは学校を休んでいた。元気が一番の取り柄で、小学校の頃は皆勤賞を貰っていたユミコが、だ。次に月緒の家を訪ねる際には、見舞いに何か持っていかなければならないかと考えていた。
ユミコに会いに家を出る時、両親はヒロキに「頑張ってこい」と声をかけてきた。それがどういう意味なのか、ヒロキには全く理解出来なかった。後にも先にも、そんなことはこれ一度きりだった。大人たちの間に、どのような思惑があったのか。当時それを知っていれば、ヒロキはその日ユミコのところにいこうとはしなかった。
そう予想したからこそ、ヒロキの両親は何も告げなかったのだ。
月緒の屋敷に着くと、ヒロキを待っていたのはユミコの父親だった。やはりユミコはまだ具合が悪いのか。見舞いの言葉だけ述べて、早々に立ち去ろうとしたヒロキをユミコの父親は引き留めた。
「まあ、待ちなさいヒロキくん。ユミコは実は、病気とかじゃないんだ」
それではどうして、ユミコは学校を休んでいるのか。ヒロキは首を傾げた。どこかで怪我をした、ということでもないだろう。あのユミコが部屋でふさぎ込むとか、そういうことがあるのだろうか。
ユミコの父親は、黙ってヒロキの姿を眺めていた。いつも家の手伝いをしているので、ヒロキは同級生たちの中でもがっしりとしていて筋肉質だ。たまにクラスで腕相撲の勝負を挑まれたりしても、相手が同い年ならば負けることはまずない。勉強の成績は今ひとつだったが、真面目で愚直なので先生からの評判もそこそこだった。
「ヒロキくんは、ウチのユミコを嫁に貰ってくれるつもりはあるのかね?」
唐突にそんなことを訊かれて、ヒロキは面食らった。元より、そうなるようにと幼い頃から言い含められてきた。その腹積もりに変化はありませんと、正直にそう応えた。ヒロキの返事に満足したのか、ユミコの父親はうむ、と満足げにうなずいた。
「あれはとんでもない跳ねっ返りでな。西浦の家に迷惑をかける訳にもいかない。良い機会であるし、ここらでしっかりと己のことを判らせておくべきかもな、と」
ヒロキの両親もそうだが、ユミコの父親も何を言っているのかさっぱりだった。「ついてきたまえ」とユミコの父親は席を立った。ヒロキは無言でその後ろに付き従った。母屋を出て少し歩いたところにある、離れの一つに向かっている。ユミコは、そこにいるのだろうか。それを尋ねるのも、ヒロキにはなんだか憚られる雰囲気だった。
「ここだ」
懐から、ユミコの父親は鍵を取り出した。施錠されている。閉じ込められているのか。ヒロキはぞっとした。まさか、ユミコはこの中に?
「心配はいらん。これは今日のために、特別に準備したものだ」
ヒロキが言葉を発する前に、がちゃり、とスチールのドアが開けられた。ふわっと、不思議な香りがした。ユミコの部屋の匂い。それを、ぎゅっと圧縮して濃くしたような。何だ、と考える間もなく、ヒロキは背中を強く押されて離れの中に入り込んだ。
たたらを踏んだそのすぐ後ろで、今度は施錠される音が聞こえた。振り返ってドアノブを見ると、鍵穴もサムターンもない。ヒロキが青くなって握って回そうとしても、がっちりとした手応えが返ってくるだけだった。
「ユミコはそこにいる。明日の朝には迎えにくるから、好きにしたまえ」
――ユミコが、ここに?
確かに、誰かがいる気配はした。甘くて、ほんの僅かにつんとくる刺激を含んだ臭気。狭い三和土の先には、洗面所に続く扉と、引き戸が一つあった。
足元に目をやると、ピンク色のサンダルが無造作に転がっていた。ユミコのものだ。震える手で、ヒロキは引き戸をそっと開け放った。
薄暗い六畳程の室内には、布団が一組み敷かれていた。その先、部屋の隅で誰かが膝を抱えてしゃがみこんでいる。いつも元気いっぱいで、ヒロキのことを振り回してばかりの女の子。親同士が決めた許嫁。
ヒロキと将来において、共に添い遂げることを約束された月緒家の末娘。
「ヒ……ヒロキ!」
怯えた目を向けてくるユミコの姿に、ヒロキはただ呆然とするばかりだった。




