ただひたすらにずっと(2)
からん、とドアベルの音が『翡翠の羽』の店内に響き渡った。客か、とケンキチは疲れ切った表情でそちらに目をやった。短大の試験期間中は、毎日が戦場のような忙しさだった。今日の分のケーキセットは、もう終わりだ。チカに頼んで表のボードには『売り切れ』と書いてもらっていた。それが目当てであるのなら、残念ながら諦めてもらうしかない。
「いらっしゃい――ってなんだ、テルアキか」
「やぁ」
外は相当に暑いのか、噴き出した汗を拭いながらテルアキが入ってきた。ユミコを伴っているかと思ったが、どうやら独りのようだ。カウンター席に腰を下ろしたテルアキの前に、チカがお冷を注いで置いた。
「オーナー、今日はユミコさんとデートじゃなかったっけ?」
「うん、そのはずだったんだけどね」
「試験が終わったら、外で待ち合わせてどこかに遊びにいきませんか?」そう声をかけてきたのは、ユミコの方だった。それが当日になって、突然のドタキャンだ。メッセージの文面では平謝りだったし、細かく詮索するのは男らしくない。余裕を見せて「大丈夫です」と返信をして……それからテルアキは盛大に落ち込んだ。
「これは――いよいよかも判りませんね」
チカの言葉が、テルアキの胸にグサグサと突き刺さってきた。ユミコとはここ最近、試験前ということであまりコミュニケーションが取れていなかった。大学が忙しくなってくれば、ふと冷静になって自分自身を見つめ直す機会も増えてくるだろう。その過程において、ユミコの方でテルアキとの関係について考えを改めることもあるのではなかろうか。
「ユミコさんみたいな女性が、オッサンの愛人になるって方がおかしいんです」
「チカちゃん、あんまりテルアキをいじめるなよ」
情け容赦のない口撃にさらされて、テルアキは段々と背中が丸まってきた。後数センチで、カウンターと口づけを交わしてしまいそうな勢いだ。自分がいい歳の中年男性だということは、テルアキだってちゃんと自覚している。それが女子大生と関係を持とうとか、上手くいかなくて当たり前。それを今時の若者の代表、女子高生のチカに明言されてしまうと、現実の重圧がずっしりとのしかかってくるのが感じられた。
「ユミコさんモテそうだし、ひょっとしたら他に彼氏とか出来たりするかもしれませんよね。金持ちの中年か、将来性だけはある若いイケメンか。いやぁ、難しい判断だ」
「チカちゃん! テルアキが息してないから」
ケンキチに何を言われようが、チカはお構いなしだった。一方的なラッシュ。見えない拳に打ちのめされて、テルアキは思わず「ぐっ」と変な声を発した。
今のテルアキは、ユミコの力になれるのであれば何でも良かった。見返りなんて期待していない。ユミコが望むのなら、テルアキは出来る限りの力を尽くして実現を試みる腹づもりだった。
もしユミコにテルアキ以外に好きな人が出来たのならば、その相手と付き合うことは阻害しない。ユミコとは、そういう約束も交わしていた。なので仮にそうなってしまったとしたら、テルアキには文句を言える筋合いはこれっぽっちもなかった。過去の自分が憎い。なぜそこまでの譲歩の姿勢を見せてしまったのか。
テルアキはいよいよごつん、とカウンターに額をぶつけた。撃沈、1ラウンドTKO。勝者、リアルJKチカ。
「でもユミコさん、オーナーのことを振ってもお店にはきてほしいですね。今回期末の成績、すっごい良かったんですよ」
ユミコに教えてもらうようになって、チカの英語の成績は目覚ましく伸びていた。苦手科目の筆頭だったのが、今回の試験では学年でも上位三分の一に食い込む結果を示している。この短期間で、驚くべき成果だった。
「店長の奥さんに数学を見てもらって、ユミコさんに英語を見てもらって。いっそのこと、個別指導学習塾とかやった方が儲かるかもしれませんね。オーナーもユミコさんに、個人指導とか受けてみたくないですか?」
チカがニヤニヤと下卑た笑いを浮かべてみせた。そこまでマニアックな趣味は持ち合わせてはいない。テルアキはむすっとした表情で上体を起こした。しかし今の話の中で、塾のアイデアに関しては悪くはなかった。実際にユミコは、塾のアルバイトを検討していたこともあったと聞いている。チカの今後の成績次第では、真面目に検討してみても良さそうな内容だった。
「ユミコさんの性格的に、俺のマンションを出たからって周りとの人間関係を完全に断ち切るってことはないだろうさ。よっぽど嫌われない限りね」
「そうそう。だからなるべく綺麗に、後腐れなく振られるように頑張ってください」
「振られるのは前提なのかよ」
ケンキチのツッコみを待つことなく、カウンターの上でがしゃん、と派手な音を立てて食器類が躍った。さっきよりも激しく、テルアキの頭部が打ち付けられたせいだ。チャンピオン、リアルJKチカ1度目の防衛に成功。挑戦者テルアキは再びの1ラウンドKO負け。
「オーナーがこんなに面白くなっちゃうユミコさんとは、是非今後とも親しくさせてもらいたいです」
チカの成績だけではなく、『あの』テルアキからここまで感情の波を引き出すことが出来るのだ。チカにとってユミコの存在は、どこまでも偉大だった。
テルアキがそこまで入れ込むのも、チカには判らないでもなかった。ユミコは単純な美人とか、そういうのとは一線を画している。言葉で表現するのは難しかったが、少なくともチカはテルアキとユミコの関係を応援しようと決めていた。
それがきっとテルアキのためにもなるし、ユミコのためにもなる。チカは二人から、不思議な波長の一致のようなものを感じ取っていた。
ヒロキは、落ち着きなく辺りをぐるりと見回した。これで何度目か判らない。とにかく、居心地が悪くてたまらなかった。正面に座ったユミコは、不機嫌を隠そうともせずにそっぽを向いている。その隣では、ヨリが引きつった愛想笑いを顔一面に貼り付けていた。
三人がいるのは、講堂教室のすぐ近くにある杜若女子大学の学生食堂だった。値段も安いし、綺麗で落ち着ける空間とあって、普段は多くの学生たちで賑わっている。期末試験日程が一段落したこともあって、今日に限っては広いスペースの中にいる利用者の数はまばらだった。
しかし、だからこそヒロキの存在は人一倍目立っていた。
女子大学とはいっても、男の職員や出入りの業者も結構いる。完全に女性だけの世界、という訳ではない。ただ、男性が『珍しい』ということに変わりはなかった。その場にいる人の絶対数が少なくなれば、より一層浮いて見える。ましてや若い男ともなれば、興味の対象としてはピカイチだった。
目が合ってしまったのが、運の尽きだ。そうでなければ、ユミコはあのまま他人のふりをしてとっとと通り過ぎてしまうつもりだった。ヒロキは大学の守衛に、変質者として疑われて詰問されていた。当たらずとも遠からず、だろう。今更ユミコを追いかけて、こんなところにまでやってきて。どうせよからぬことを企んでいるに違いない、
ヨリが可哀想だというので、ユミコは仕方なくヒロキの身元保証人となった。知り合い、ということにしておいてやる。疑いが晴れたところで、それじゃあ、とすぐに別れてしまいたい気持ちも多分にあった。だが、放っておけばまたユミコの近くで変なトラブルを引き起こす可能性は高かった。なら一度腹を据えて話し合いを持って、円満にこの場から引き取ってもらうのが最善の策であると思われた。
「……あの、私もいなきゃいけないのかな?」
「そりゃあもう。だってそうしないと、私、ヒロキと二人っきりになっちゃうんだけど?」
仮のその状況を顔見知りにでも目撃されてしまって、デートなんかと勘違いされた日にはたまったものではなかった。大体、ヒロキに情けをかけたのはヨリだ。動物を拾ったなら、最後まで責任をもって飼育する義務がある。野良猫もヒロキも、ユミコの中では全く同列の扱いだった。
「で、何の用があってここまできた訳?」
つっけんどんな言い様に、ヒロキはようやく現実に帰ってきた。東京の空気に圧倒されて、女子大の雰囲気に圧倒されて。精神的なショックに次から次へと襲われて、ヒロキは朝から休まる暇もなかった。その中で唯一の顔見知りである、ユミコの姿を見つけることが出来たのだ。ヒロキは誇張でなく、地獄で女神に出会った気分だった。
「何って、ユミコがほとんど連絡を寄越さないから、その、おやじさんに頼まれて様子を見にきたんだ」
なるほど、実家の差し金か。ユミコはあからさまに音を立てて舌打ちした。花の女子大生がして良い仕草ではない。とはいえ、本当ならハリウッドの映画よろしく、オーバーアクションを交えて考えつく限りの罵詈雑言と悪態を並べ立ててやりたいところだった。
「それでなんでヒロキがくるのよ。ヒロキだって家の仕事があるでしょう?」
ヒロキはユミコがいたのと同じ地元の、県内にある四年生大学に通っているはずだった。時期的にはユミコたちと同じく前期課程の試験期間が終わる辺りで、余裕があるなら実家の農業の手伝いでもしているのが日常だ。この時期の農家は忙しい。ユミコだって実家にいた時から、それぐらいのことは見て知っていた。
「家のことは……ハジメさんが任せてくれって言うから」
ハジメというのはユミコの兄、月緒家の長男だ。つまり、家族全員でグルになっているということなのか。ユミコは呆れて言葉も出てこなかった。だったら、何でハジメがこっちにこないのか。月緒家の事情に、都合良くヒロキを利用しているだけじゃないか。それに乗っかってホイホイとやってくる、ヒロキもヒロキだった。
「勘違いしないでくれ。俺が東京までユミコに会いにいきたいって、無理を言ってお願いしたんだ。ハジメさんは悪くないし、おやじさんだって――」
「お父さんが何よ?」
何かを言いかけて、ヒロキはそのままもごもごっと口ごもって沈黙した。「心配していた」なんて、やっすい言葉で誤魔化されてなんかやるものか。ユミコは腕組みすると、じろり、とヒロキを睨み付けた。やり場のない怒りが、ふつふつと込み上げてくる。ユミコが叱りつけてやりたいのは、眼の前で萎縮しているヒロキじゃない。それが判っているだけに、ユミコの欲求不満は溜まっていく一方だった。
「まあまあ。せっかくここまで会いにきてくれたんだから。そんなにきつく当たらなくても良いんじゃない?」
最早交通事故にでも遭った気分で、何もかもを諦めたヨリが仲裁に入ってきた。どこをどう見ても、ヒロキからは悪気のようなものは感じられない。心細い思いをして東京の女子大までやってきて、ユミコに怒鳴り散らされたのでは流石に哀れだった。
「でも何で大学に?」
「時間的に、講義とか試験とかやっているかなって。学生課で訊いたら個人情報は教えられないって断られて。大きな建物の方を覗いてみようとしたら、警備員に引き留められた」
「それは……」とヨリは言葉を詰まらせた。それはまごうことなき、不審者の行動パターンだ。彼女に振られた男が、腹いせにやってきて復讐相手を探して回っていると思われても、言い逃れは出来ない。あそこでヒロキと出会えたのは、かなりの幸運だった。後数分ユミコが出てくるのが遅ければ、今頃ヒロキはパトカーに乗せられて留置場の中だったかもしれなかった。
「北上さんのお宅に伺うには、少し時間が早いかな、とも思いまして。あ、これ、つまらないものですが」
ヒロキは慌てて足元に置いてあった紙袋を拾うと、菓子折りの包みを手に取ってヨリに差し出した。ヨリは何のことかさっぱり判らず、ユミコの方に顔を向けた。ユミコも心当たりがなさそうな表情だ。二人の様子を見て、ヒロキは恐る恐る口を開いた。
「ええっと、ユミコは今、北上さんのところでお世話になっているんですよね?」
ああ、とユミコとヨリは同時に膝を打った。そういえば、そうだった。ユミコは現在、ヨリの家に下宿させてもらっている、という体裁になっていた。
ユミコは内心で、どっと冷や汗をかいた。これは危ないところだった。もしヒロキが先にヨリの家に寄っていたのならば、何らかのボロが出てしまっていた可能性がある。ヒロキも運が良いが、ユミコはもっとか。ここでヒロキに会えたのはユミコにとっては不幸中の幸い、素晴らしい星の巡り合わせだった。
「いえ、その件につきましてはお気になさらず」
菓子折りの箱を、ヨリは丁寧に受け取った。嘘を吐くなら、最後まできっちりと。中途半端にバレるのが、最も性質が悪い。事情を知らないヒロキは、二人の奇妙な態度にきょとんとしていた。大体ヨリがこんなプチ修羅場に参加していなければならないのも、元を正せば全部がユミコのせいだった。お菓子は北上家で美味しく頂くことにする。異論は認めない。
「ユミコ、こっちの生活はどうだ? 何か困ったこととか、変わったこととかはあるか?」
「あぁ?」
ユミコは思わず、ぼろっと本性を外に漏らしてしまった。困ったこと、大アリだ。月緒の家の使いできたのだし、その辺の話はヒロキだって耳にはしているだろう。
父親の紹介で入居したアパートはとんでもないオンボロで、引っ越して一年で取り壊しの予定だとユミコは住み始めてから伝えられた。月緒家は最初から、ユミコの東京暮らしを応援するつもりなんてなかったのだ。
放っておけばそのうち、耐えられなくなって帰ってくる。ユミコはそんなふうに、甘く見られていたということだ。やり口があまりにも汚い。汚すぎる。
それが今度は、ヒロキを寄越して情に訴えるつもりか。ユミコは怒りに燃えた瞳でヒロキを凝視した。隣に座るヨリが、びくんと身を震わせる。それはまずい、とユミコに向かって声に出さずに訴えていたが。
もう手遅れだった。
「そうね。こっちで彼氏が出来たの。とっても優しくてお金持ちで、毎日よろしくやっているわ」
「んなっ!」
椅子を跳ね飛ばして立ち上がったヒロキは、今度はその姿勢のまま硬直した。食堂中の視線が集中する。澱んだ水槽の中に無理矢理に押し込められて、空気を求めてぱくぱくと口を開けて喘いでいる金魚みたいだ。他人事のようにそう考えながら、ヨリはこの後更に悪化するであろう大嵐の到来を予感して天を仰いでいた。




