ただひたすらにずっと(1)
ヒロキの生まれた西浦家は、代々続く農家だった。この村では、月緒の家に次いで古い歴史を持っている。ヒロキはそこの長男だ。大人になれば、親の仕事を受け継ぐようにと幼い頃から教えられてきた。
農業の重要性については、ヒロキ自身も良く理解しているつもりだった。人間が生きていくには、必ず栄養を摂取しなければならない。世間一般の流行の中で、やれサプリメントだ十秒チャージだなどが持て囃されたとしても。自然食品の類の需要がなくなるということは、まずあり得なかった。
一時期大きく話題になった、遺伝子組換え食品についての顛末がその好例だ。コスト的にはあれだけ便利で、しかもクリーンな食品であるのに。それで市場が席巻されるような事態は起こらなかった。内容的には品種改良にかける時間を、単純に短縮しただけの代物にすぎなくても――消費者は結局のところ、印象だけで全てを判断してしまう。『合成』と頭に付いただけで、何となく否定的な感情が生まれてしまうのは、如何ともし難いものがあった。
市場から求められているのは、結局のところは畑で丁寧に栽培された農作物だった。『有機栽培』なんて聞こえだけは良いが、ヒロキに言わせれば肥をぶっかけられて作られた野菜だ。ホコリどころか雑菌一つない潔癖な世界に住んでいる都会人が、欲しがるものは『それ』なのだからちゃんちゃら可笑しかった。
農家を生業とすることに、特に異存はなかった。それともう一つ、ヒロキの意思とは無関係に決定付けられた人生の決定事項が存在した。西浦家が今後も安泰であるためにと、ヒロキには配偶者の候補があてがわれていた。
その相手がこの村最大の豪農である月緒家の末娘、月緒ユミコだった。
地方の嫁不足は、ヒロキの地元でもご多分に漏れず大きな問題となっていた。都会の方ではIターンだとかスローライフだとか、耳触りの良い言葉が飛び交っている。しかしそういった内容を喧伝している連中の大部分は、自分で畑を耕したこともない頭でっかちのエセインテリ層ばかりだ。そういう奴らに限って、草むらからコオロギが飛び出してきただけで腰を抜かして逃げていく。とんでもない『もやし』しかいない。
スマホより重いものを持ったことがないお嬢様たちには、農村というのは到底耐えられる世界ではなかった。広い耕作地を機械化によって効率的に管理しているのは、農家の中でも一部の金持ちたちだけだ。それに都会にお住いの皆様の大好物である有機農法野菜は、非常に手間のかかるものだった。
無駄に意識だけは高くて生意気ばかり口にするひよっこを、イチから鍛え直すのと。農業の現実を最初から日常として目にしている地元の娘なら――普通に後者の方が好まれる。こういうのは理屈ではない。理想論で食べていけるのなら、誰もこんなことで困ったりはしなかった。
今後十年先も二十年先も、この村では農業が必要とされる。月緒家を中心としたその長期的な計画の中に、ヒロキの家も当然のように組み込まれていた。長男のヒロキは、親から農地の全てを受け継ぐ。それをサポートするのは、妻となるユミコの役割とされた。
月緒の家の娘は、色が白くて器量良し。
おべっかも多分に含まれているのだろうが、村では昔からそう言われていた。ユミコの親族の女性たちはみんなきびきびと作業をこなす人だったし、姉も綺麗でヒロキも思わず見惚れてしまう程の美人だった。ヒロキは幼い頃から、そこの末娘であるユミコと結婚するのだと教えられ続けてきた。お互いのことを良く知っておくようにと、週に一度は顔を合わせて遊んでいた。
ユミコはヒロキにとって、不思議な魅力を持つ女の子だった。
小学校に上がるくらいになると、ヒロキも異性と一緒にいることを少しは意識し始めてきた。男の子たちは山へ虫を捕りにいったり、禁止されていても川に飛び込んだりするのが常だった。それに対して、女の子の方はままごとだなんだとあまり動き回ることをしない。そんな遊びなんて、ヒロキには何が面白いのかてんで見当がつけられなかった。
果たして、月緒ユミコはヒロキの想像を遥かに超えて――男勝りも甚だしい性格の女子だった。
見てくれは、噂通りの月緒の娘だ。可愛らしくて、肌も艶々としている。その辺にいる村娘たちとは一線を画した、何とも言えない魅力を持つ女の子だった。ヒロキもなかなか見慣れる、ということが出来なくてどぎまぎとした。小学校の中学年を過ぎた辺りから、まともに目を合わせるのも難しかった。
その中身が、もう驚くくらいに農家の子供……野生児の極みだった。
猫を追いかけて藪の中に突っ込むなど、日常茶飯事だ。水を張った田んぼに平然と入り込んで、カメやらカエルやらを素手で捕まえて持ってくる。冬眠中のアオダイショウを掘り起こして、放り投げて寄越された際にはヒロキの方が悲鳴を上げてしまった。
ツバキの花の蜜を吸って腹を下し、桑の実をむさぼり喰らって口の周りを紫色にして。他所の家の山でタケノコを採ろうとした挙句、野良のイノシシにちょっかいをかけて追い回された。これならヒロキは男の子と遊んでいる方が、ずっと健全かつ安全であった。
ユミコはとにかく、冒険を望んでいた。同世代の女の子が相手では、そこまでの無茶には同行させられない。そういった理由もあって、ユミコのお守りは常にヒロキの役割だった。
「ヒロキ、きたきた!」
ヒロキが月緒の家を訪ねると、ユミコはいつも満面の笑みで迎えてくれた。ヒロキにとっては、その日も地獄の行軍が開始させられるのだと覚悟を決めさせられる瞬間だった。
でも――ヒロキはユミコのことが、好きだった。土いじりに抵抗はないし、虫も動物も怖がらない。ユミコは農家の奥さんになるのに、ぴったりの素質を持っていた。黙っていれば可愛らしいし、姉を見ていれば将来的にも美人になることが予想された。ユミコと一緒なら、ヒロキはこの村で農業を頑張ってやっていける。そんな自信が湧いてくる気がした。
「私はヒロキの、お嫁さんになるんだよね」
ユミコの方も、ヒロキと結婚するという未来をそれとなく意識してくれている様子だった。その時はまだ、仲の良い友達の延長線という域を出ない感じではあったが。幼いヒロキには、それで充分すぎるくらいだった。
臭い。空気が汚れている。
東京の第一印象は、それに尽きた。むわっ、と全身に纏わりついてくるような粘性のある風。それに包まれると、ヒロキの背中にぞわぞわっと怖気が走った。こんなところにいて、みんな何で平然としていられるのか。とにかく息苦しい。ヒロキは新幹線から降りると、足早にホームの階段の方に向かった。
ぞろぞろと連なっている無秩序な雑踏に、何度となくぶつかってしまいそうになる。人の数が、圧倒的に多かった。五メートルの距離を進むのにも、気が遠くなる程の時間を要する。べちゃべちゃとしたおしゃべりの声がそこかしこから聞こえてきて、そこに駅のアナウンスやら発車ベルやらが畳み掛けるように混ざり込んでいた。耳栓でもしていなければ、雑音が脳味噌にまで到達してシッチャカメッチャカに掻き回されてしまいそうだ。
地下に降りると、混沌は更に勢いを増した。行き交う人々は、一様に手元の小さな画面に目線を落としている。前を見ないまま、誰もがかつかつと早足に通り過ぎていった。何で衝突してしまわないのだろう。あの画面に、レーダーでも映っているのか。東京を代表する大型ターミナル駅の光景に、ヒロキは呆然と立ち尽くした。
「ユミコは、こんなところにいるのか」
山の雑木林とは訳が違う。この人の濁流の中に飛び込んでいくとか、ユミコは本当に恐れを知らなかった。ヒロキなどは一瞬ここに立っただけで、もうギブアップ寸前だった。
とはいえ、いつまでもこんなところでぼんやりとしていても仕方がなかった。ヒロキは使命を帯びて、東京までやってきた。圧倒されるだけされて、手ぶらで帰ってしまっては面目が丸つぶれだ。
気合を入れて踏み出した足がスーツ姿の女性の女性の靴にぶつかり、ヒロキはじろりと睨みつけられた。ぺこぺこと頭を下げているうちに、女性は無言のままふいっとどこかに去っていってしまった。前途は多難だ。とりあえずはもう少しばかり人のいない場所で落ち着きたい。慣れない東京の雰囲気に四苦八苦しながらも、ヒロキはなんとか人の流れに乗って移動を開始した。
杜若女子大学は、一年間のカリキュラムが前期課程と後期課程に分けられている。四月から七月が前期、九月から二月が後期だ。八月と三月はそれぞれ長期休講となっているが、その前にはお約束の定期試験が待ち構えていた。
講義によっては出席がそのまま点数になったり、レポートの提出をもって単位取得と見なされるものもある。そういった『安牌』に関しては、固定した単位数として学生たちは既に計上済みだ。問題は、所謂『厳しい』単位だった。
大学の講義なんて、好きでやる勉強なのだから無理に振り落とす必要なんてないのではないか。全ての大学教授がこのような大らかな心持ちでいてくれれば、この時期の大学生たちはコピー機の前に行列を作ったりしないで済む。試験に持ち込めるものが紙のノートのみというのも、そろそろ時代錯誤な習慣であるとは言えないだろうか。
――などと御託を並べてみても、偏屈な教授陣の心には一つとして響きはしなかった。この国の大学生の日常が変化するには、まだまだ長い時間を要するということか。ユミコも他の学生たちと同様に、試験勉強に追われる毎日を迎えていた。
「うへぇ、やっと終わった……」
七月はその大半が、試験の日程で埋め尽くされる。一年生と二年生は一般教養科目を履修しなければならないので、ただでさえ単位の数が多かった。おまけに専門課程とは関係のない、ぶっちゃけ大して面白くもない科目の勉強だ。やりたくはなくても、進級のためには仕方がない。こういった苦行というのは、人生においていつまで経ってもなくならないものだった。
「お疲れ、ユミコ。これで最後だったんでしょ?」
「うん。もう無理。早く一般教養からはオサラバしたい」
どんなに忌避していても、二年生の後期過程までは一般教養科目はついて回ってくる。仮に単位を落としてしまえば、三年生、最悪時には卒業までにそれだけという事態にだってなりかねない。後々の安泰のためにも、今のうちに必須単位の禊は済ませておくべきだった。
「今日はどうする? 前言ってたスイーツビュッフェ、いってみる?」
ヨリと一緒に受けていたこの講義が、ユミコの前期最後の試験だった。二人でぱぁっと打ち上げをするというのも、悪くない考えだ。テルアキが援助してくれるお陰で、財布の中身も心配はいらない。
「うーん、でもねぇ。最近テルアキさんをあまりかまってあげられなかったから」
ぐいん、とヨリの眉間に深いシワが刻まれるのが判った。そう、問題はそのお小遣いを与えてくれるテルアキだ。大学の試験期間ということで、テルアキはユミコにあれこれと気を遣ってくれた。慣れない手付きで食事の支度もしてくれたし、調べ物や参考書の買い出しまで手伝ってくれたのだ。
ユミコはテルアキのマンションに住まわせてもらっている、愛人候補という立場であるはずだった。それがここ数週間は、すっかり立場が逆転してしまっている。迷惑をかけるだけかけて、その上お金までもらっているというのはどうなんだ。試験が終わってユミコに余裕が出来たというのならば、まずはテルアキに還元するべきだった。
「ユミコ、すっかり愛人生活が板についてきたね」
「愛人『候補』だよ、相変わらずね」
テルアキから提示された六ヶ月という期間は、半分を超えて折り返していた。テルアキはここまで、きちんと約束を守り通している。九月の中旬、ちょうど夏休みが明けた頃には、いよいよ運命の期日が待ち構えていた。
「新しい部屋って、ひょっとして探してないでしょ?」
「元々夏休みになってからって決めてたから、これからの予定……の、つもり」
どうだか、とヨリは怪訝そうな表情を浮かべてみせた。充分すぎるくらいに快適な環境を与えることで、ユミコの動きを鈍らせるのがテルアキの作戦に違いない。一度満たされてしまえば、人間は変革を求めるのが億劫になる。テルアキにはそういった企みがあるのだと、ヨリは睨んでいた。
「テルアキさんが誠実、ってところは百歩譲って認めてあげても良いよ。でもそのまま愛人になるっていうのは……」
テルアキ曰く、お金で始まった関係であるから、『恋人』ではなくて『愛人』なのだそうだ。真面目というか、頭に『馬鹿』が付く類の性格であると思われる。この時点で、既に充分に変わり者だ。
ユミコに対して求めていることについても、テルアキはそれが無償の援助ではなくて、自分のものになってほしいためなのだと明確に宣言していた。胡散臭さが付き纏わない代わりに……あからさまな怪しさが大爆発だ。
「恋人も愛人もやることが一緒なら、大事にしてもらえる人のところにいられる方が良いかなぁ、って」
「それは――どうなんだろう?」
反論しようとして、ヨリはうーんと考え込んだ。本当なら即座に否定してやりたいところだったが、そうもいかない。ヨリ自身、高校時代から何人かの相手とお付き合いをしてみた結果、あまり楽しい思い出を得ることが出来ずにいたからだ。
男性側が女性側に抱く欲望というのは、率直に言ってしまえば至極単純なものにすぎない。特殊な事例でもない限り基本はそこにあるし、それを悪いことだとまでは思わなかった。ヨリだって好きな人はいたし、その人を独占したいという想いもあった。
結局は、手段の問題なのだろうか。相手の気を引くために、何をしたのか。テルアキは自分でそのやり方を、『良くない』と判断していた。そしてそれを認めた上で、ユミコに対して愛人候補にならないかと声をかけたのだ。
「今のところ、このままテルアキさんの愛人になら、なっても良いかなぁ、とは思ってる。でも、自分の気持ちが良く判らないんだよね」
ユミコは今の時点では、テルアキのことを特段に悪くは思っていなかった。好意――に関しても、「ある」と言い切れるだろう。
ただそれが、お世話になっているという恩義に報いたいという気持ちから生じたものなのか。それとも恋愛的な感情なのかと問われると、ユミコには判別がつけられなかった。
「テルアキさんは多分、私に本気で好きになってもらたいんだよね。その気持ちが理解出来るからこそ、そこを見極めた上で選んであげたいかなって」
「……ユミコ、メチャメチャ真面目に考えてるじゃん」
何も迷うことなく、貰えるモノだけ貰ってさっさとおさらばしていたとしても。テルアキには、何の文句も言えないはずだった。それをここまで熟慮してくれているのだから、ユミコという女性はテルアキにとって非常に良い買い物だったといえる。テルアキの側が、真摯にユミコと向き合った結果でもあるのか。
入口こそ問題だらけの始まりだったが、最終的には落ち着くべきところに落ち着くのかもしれなかった。テルアキはユミコが愛人になったとしても、大学を卒業するまでは今の生活の在り方を保証する、とまで言ってくれたのだそうだ。しかも海外旅行のオプション付きで。なんて理想的な、そして便利極まりないお財布であろうか。
「そんな大当たり、滅多に引けるものじゃないよ。あの映画、私がいけば良かったなぁ」
もちろん、その場合にはヨリがテルアキに選ばれた――ということにはならないだろう。世の中はそこまで甘くは出来ていない。ただそれを判った上でなお、羨ましいと思ってしまうのはどうしようもないことだった。
「おじさんの愛人だなんて、人生の終わりとか言ってなかったっけ?」
「普通はそうなの。ユミコ、今度宝くじ買ってみてよ。半分出すからさ」
当選したら山分けだ。ユミコとヨリはクスクスと笑いながら正門の前まで歩いてきた。杜若女子大学は独立した複数の建物から構成されている。今回二人が試験を受けていたのは、最も大きい講堂教室と呼ばれている校舎だった。
他の学生たちも、大部分が試験に日程を終えたらしかった。周りは賑やかな女子大生の集団でごった返している。その隙間を縫って正門を抜けようとしたところで――
「ユミコ! 良かった、ユミコ!」
唐突に声をかけられて、ユミコはぎょっとしてそちらの方に視線を向けた。
いつも正門のところに立っている守衛のおじいちゃんが、一人の若者を引き留めて詰問している。最近は何かと物騒なこともあり、部外者の立ち入りに関しては厳しくチェックがなされていた。ただでさえ女子大なのだ。昔から邪な目的を持った、変質者の侵入事件は後を絶たなかった。
守衛に誰かが捕まっている姿なんて、杜若の学生にとっては日常茶飯事だった。ユミコも特に意識することなく、空気のようにスルーしていたのだが。
「えっ……ヒロキ?」
そこにいるのがかつての自分の許嫁であると知って、ユミコはさぁっと血の気が引いていくのを感じた。




