そこをめざして(5)
陽が落ちて、どんなに遅い時間になっても必ず出迎えてくれた。
『おかえりなさい、テルアキ』
制服の上に羽織った、白いエプロンが翻る。醤油とみりんの、良い匂いだ。今日の夕食は、いつもより奮発したのか。テルアキの表情を察して、ミヨコは優しく微笑んだ。
『お母さんがね、魚も料理出来るようになりなさいって持たせてくれたの。焼く以外芸がないでしょうって。失礼しちゃう』
今度会った時には、ミヨコの母親にお礼を述べておく必要がありそうだった。ミヨコ自身に対しても、テルアキは感謝してもしきれない。内藤家の人間は、ミヨコの家にお世話になりっぱなしだった。テルアキやテルアキの母親、ヨシヒコだけではこうはいかなかった。
『おばさんは今、お風呂に入ってる。ヨシヒコくんはお部屋で宿題。テルアキも、今日課題が出たでしょ? 後で手伝ってあげる』
テルアキの母親は、ほとんどの時間をパートに費やしていた。父親がいなくなって、この家の家計を支えていくのは相当に苦しい状況だ。テルアキもいくつかのバイトを掛け持ちしていたが、豊かな生活であるとはとてもではないが言い切れなかった。
最後に残された手段は、この家と土地を手放すことだった。ただそればかりは流石に忍びない行為であるとして、今一歩のところで踏みとどまっていた。この場所はテルアキの家族にとって、死んでしまった父親との思い出が詰まった大切な我が家だ。どんなに大変な毎日でも、それだけは失ってしまいたくはなかった。
『無理しないでね、テルアキ』
ミヨコの声が、テルアキの身体に突き刺さってきた。テルアキのために、ここまで尽くしてくれるミヨコ。その気持ちが、果たしてどういった性質のものなのか。テルアキにだって、ちゃんと理解は出来ているつもりだった。
有り難いと感じている。それをとても嬉しいとも思う。
――でも、それだけだった。
ケンキチがミヨコのことを好きになるのは、当然の結果だった。ケンキチだけじゃない。ミヨコは保育園の中では一番人気の、マドンナ的な存在だった。
小学校、中学校と進学していく間も、そのランキングは概ね変動はしなかった。みんなおおっぴらに口に出して言うことはしなかったが、ミヨコが男子たちから注目されていたのには間違いがない。幼い頃から親しくしているケンキチやテルアキのことを、妬ましく思っている連中もいただろう。
そのユミコからの想いを、一身に受けているというのに。
テルアキの中には、後ろ暗い罪悪感しか浮かんではこなかった。
……え、何だって?
ユミコが何を言い出したのか、テルアキにはしばらくの間理解することが出来なかった。頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされている。ユミコの表情は、真面目そのものだった。
「私の夢は、色々な世界を見てみたいってことなんです。だから、ずっとここに閉じ込められているような生活なら、それは不可能になってしまうんじゃないかなって」
「ちょ、ちょっと待ってください。ユミコさんが海外に興味を持たれていることは以前から聞いていますし、俺はユミコさんにそんな仕打ちをするつもりは毛頭ありません」
何かとんでもない誤解がある。テルアキは大慌てでユミコの発言を遮った。
確かにテルアキは、『六ヶ月を超えてここで生活するならば、自分のものになれ』とユミコに要求した。しかしそれはそこまでの強い強制力というか、絶対的な支配権を伴ったものではない。せいぜい、何かされても文句は受け付けませんよ、というくらいのつもりでいた。
ユミコはテルアキの大事な人だ。そうやって今日まで三ヶ月近く、なるべく丁重に応対してきたつもりだったのだが。『愛人』という言葉が独り歩きしてしまっているのか。テルアキは、うーん、と腕を組んで考え込んだ。
「テルアキさんが私に望んでいること次第では、その、私も諦めなければならないものが出てきてしまうんです。だから、それだけは確約しておいてほしいかなぁ、って」
それが、一度きりの海外旅行なのか。なんとも控え目なものだ。ユミコの中では、テルアキは一体どんな欲望の権化と成り果てているのだろうか。ただ確かに、現実にその時がきたとして、テルアキがケダモノに豹変しないという保証はどこにもなかった。ユミコはその最悪の事態の訪れを想定して、譲ることの出来ない最低限の線を提示してきたということだろう。
「そうですよね。俺も男だから、いざとなると判らないですものね」
ユミコが実家を飛び出してきた理由も、将来の夢についても。テルアキはユミコに聞かされて、重ね重ね承知しているつもりだった。それを実現するために、ユミコに力添えをしていきたいとも思っている。そして同時に――テルアキの中に『ユミコを自分のものとして独占してしまいたい』という欲望があるのもまた、揺るぎようのない事実だった。
ユミコの目指す場所は、テルアキの求めるものとは相容れなくなる公算が高い。もしそうなってしまったとしたら、ユミコのパトロンであるテルアキはどちらの道をユミコに選ばせるべきなのか。
――答えは、簡単だった。
「……判りました。では、今年の九月以降の大学の長期休暇の期間中には、必ず一週間以上の海外旅行にご招待します。行き先はユミコさんのリクエストに従いますし、旅費も全て俺が持ちます。またその際には、ユミコさんがしっかりと旅行を楽しめるコンディションであることも、もちろんお約束しますよ」
テルアキは、ユミコの望むものを優先する。だからこそ、この六ヶ月という猶予だって設けていた。ユミコがテルアキを拒絶するのであれば、この関係はそこまでだった。
惚れた弱み、だとでも言ってしまえば良いのか。元より見返りなど期待しない、歪で不自然な関係性だった。テルアキに出来るのは、ユミコがユミコであり続けられるように力を尽くすことだけだ。テルアキは自分の下した決断に、一片の後悔もなかった。
「いいんですか?」
「構いませんよ。ユミコさんがちゃんと俺のものになってくれるのなら、束縛する意味なんてないでしょうから」
大事なのは、ユミコがテルアキのことを認めて己の全てを捧げると約束し、遂行してくれることだった。それが守られるのであれば、テルアキには他に望むものは何もなかった。テルアキの側が誠実であり続けていれば、きっとユミコの方も約束を違えたりはしない。そう信じていられるだけの確証も、現時点では保持出来ていた。
「ユミコさんが自由を求める人であるのなら、俺はその枷にはなりたくない。俺が好きになったのは、そんなユミコさんだ。その夢を一緒に叶えられる相手として、協力させてもらえればと思います」
「テルアキさん」
ぱぁ、っとユミコの表情が花が咲いたみたいに明るくなった。良かった。ユミコにはやはり、笑顔の方が断然似合っている。部屋の中の照明ですらも、心なしか力を増したように感じられた。天の岩戸が開いたのか。テルアキは自分が、ユミコにつられて笑っていることに気が付いた。
「……ああっと、その、非常に悪くないオプションだと思います。検討させてください」
何かを言いかけたユミコが、わたわたと取り繕って努めて冷静な口調に切り替えた。これも実にユミコらしい。ここでテルアキに好意を示してしまっては、旅行という餌につられたみたいではしたないと思ったのだ。
テルアキに出来ることは、財力に裏打ちされたこういうやり口だけだった。ユミコがそれで喜んでくれるのなら、御の字だ。美しいからってガラスケースにしまい込んで、人形遊びをするような趣味はテルアキにはなかった。ユミコが元気に、テルアキを振り回すくらいの勢いで近くにいてくれるのなら。
それが何よりも、テルアキにとっては救いとなった。
『たまには休みましょう? テルアキだって疲れてるんだから』
ユミコが、鼻歌を奏でながらキッチンに立っている。食後のほうじ茶を淹れているところだ。その後ろ姿から聞こえてきたのは、ここではない、遠い昔に耳にした言葉だった。
『おばさんも、ヨシヒコ君も心配してたよ。テルアキは頑張りすぎだって。テルアキも、少しは自分のことを考えても良いと思うの』
その発言の真意は、なんだったのか。テルアキは考えることをやめていた。今更、判ったところでどうしようもないからだ。
手を伸ばして、そっと肩に触れて。一言、「ありがとう」と伝えるだけで良かったのに。あの頃のテルアキには、そんなことすらも出来なかった。
向けられた好意に戸惑って。ケンキチや、家族の顔が脳裏をよぎって。テルアキはいつだって自分勝手で、相手の気持ちなんて顧みることもしなかった。
「ユミコさん」
そこに見えている背中に向かって、テルアキは声をかけた。くるり、とエプロン姿のユミコが振り返る。「はい、なんですか?」ちょっとだけ、弾んだ話し方。映画の感想を述べる時と同じだ。嬉しいことがあって興奮すると、ユミコは声色にそれが表れる。テルアキの発見した、ユミコの癖だった。
「良かった……ユミコさんだ」
ユミコが怪訝な顔をして首を傾げた。判ってもらう必要はない。テルアキにとって、そこにユミコがいてくれるということは重要な意味を持っていた。
あの時のテルアキには、幼すぎて手にすることが出来なかった、熱を持った心。それがどうして、今になって湧き上がってきたのか。
理由なんてどうでも良かった。ユミコは、テルアキと共にいる。いてくれる。
もし出来ることならば、このままずっと――
久しぶりの晴れ間を、ケンキチは眩しく見上げた。雲がもくもくと伸び上がっている。湿気を多く含んだ空気からは、夏の気配が感じられた。
ラジオの天気予報でも、そろそろ梅雨明けだと伝えていた。今年は暑くなりそうだと、ラジオパーソナリティがぼやいていたのが印象的だ。アイスコーヒーの売り上げも、徐々に伸び始めている。このシーズンでは、チカのアイデアでかき氷を始めてみようという話になっていた。
日曜日の午前中は、客らしい客はほとんどやってこない。以前はテルアキのモーニングが定番だったが、最近はすっかりユミコの方に熱を上げてご無沙汰だ。開店と同時にチカが入ってくれても、実質的にやることは何もなかった。
その時間帯を利用して、ケンキチは丁度足りなくなっていた卵を仕入れに外に出ていた。難しいオーダーでなければ、一応チカだけでも対応は可能だ。短大の学生たちには、チカの淹れたコーヒーの方が人気があったりもする。納得はし難いが、売れてくれるのならばそれはそれで構わなかった。
「ただいま」
「あ、店長おかえりー」
店の中に客の姿はなかった。冷房の風が心地好い。これはもう、本格的に夏がやってきそうな雰囲気だった。アイスクリームの発注を増やしておいたのは正解だ。卵を冷蔵庫にしまいながら、ケンキチは材料の在庫をあれこれと確認し始めた。
「店長、留守番している間に変な人がきたんですけど」
「変な人?」
客ではない妙な輩が入り込んでくることは、極稀にだがあった。便利な休憩スペースとでも勘違いしているのだろう。そういうのがやってきたら、チカには躊躇うことなく警察に通報するように教えていた。
「危ない人とかじゃなくてですね、えーっと、女の人がこの近所のことで話を聞きたいって」
チカの家は店の近所にあるし、地元の人間ではある。新聞記者とか、探偵か。ケンキチはまずそう考えたが、チカには普通の小奇麗なおばさんにしか見えなかったということだった。
「おばさん、かぁ」
「ケンキチさんと同い年くらいだと思うよ。話し方が丁寧で、そうだなぁ、ユミコさんみたいなカンジ」
女性はチカに、この辺りの事情に詳しい人を探していると語った。チカに判るのは中学校ぐらいまでの同級生たちとか、子供会に顔を出してくる近所の子の名前くらいだ。チカがそう断ったのを聞いた上で、女性はチカにこう尋ねてきた。
「『内藤さんのお宅のことを知りたい』って。内藤さんって、そんな人いたっけか?」
あっけらかんとしたチカの言葉に、ケンキチは思わずずっこけて冷蔵庫の中に頭を突っ込むところだった。
「チカちゃん、そりゃテルアキのことだろうよ」
「ああー、オーナーってそんな苗字でしたっけ!」
あまりにひどい物忘れだとケンキチには非難されたが、チカの方にも言い分はあった。ケンキチはいつもテルアキのことを名前で呼び捨てにしているし、ユミコも「テルアキさん」と呼んでいる。この店にいる人間は、誰もがテルアキのことを「内藤」とは呼ばないのだ。
チカも大体が「オーナー」か「テルアキさん」だ。こんな状態であれば、『テルアキ』が『内藤』であると結び付けられる方が難しいのではなかろうか。
「じゃあ、さっきの人はテルアキさんを探しにきたんですかね?」
チカが「心当たりがない」と応えると、女性はすぐに立ち去ってしまった。少し待てば店長のケンキチが帰ってくると、伝える暇も与えなかった。あまりに早く目の前から消えてしまったため、一瞬夢だったのではないかと疑ったくらいだ。
「さあな」
テルアキは朝早くからユミコのいるマンションに向かっている。内藤家を訪ねたところで、誰も出てはこなかっただろう。それで諦めきれずに、周囲に聞いて回ったのか。
「……まさか、な」
ケンキチの脳裏に、一人の女性の姿が浮かんだ。掌に、強く握った細い手首の感触が蘇ってくる。
もしそうだとするならば――全ては遅きに失していた。
第4章 そこをめざして -了-




