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愛人契約はじめました  作者: NES
第1章 ここであなたと
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ここであなたと(2)

 内藤ないとうテルアキは四十二歳。ユミコとは年が二十以上も離れている計算になる。テルアキが何の仕事をしているのかは、ユミコは詳しくは知らなかった。

 都心に建つこの真新しい高層マンションの一室を、テルアキは仕事場として所有している。自宅はここから数駅の場所にあるらしいが、そちらについても良くは判らない。テルアキの言葉を信じるのならば、ここよりも数段グレードの落ちる、ごく普通の一戸建ての家屋なのだそうだ。


 ユミコがここに住まわせてもらう条件の一つに、『洋間の一つへの立ち入り禁止』というものがある。そこがテルアキの仕事部屋だった。室内では日々、どんな怪しげな儀式がおこなわれているのか。ユミコは最初期待に胸を膨らませたが、残念ながら六畳程度の洋間には数台のパソコンと大きなモニターが並べられているだけだった。

 テルアキが明言したがらないので未確定な情報とはいえ、テルアキの仕事は恐らくデイトレーダーか何かだろうと推測された。毎日マンションにやってきて、仕事部屋に日がな一日閉じこもってから帰っていく。平日はいつも、判で押したようなルーチンワークの繰り返しだった。


 証券取引のない休日は、テルアキはリビングのソファに腰を下ろしてぼんやりと新聞を眺めて過ごしていた。そもそも、この部屋にまでやってこないことすらもある。家族サービスでもしているのかと思ったところ、テルアキは今までに結婚歴もない独身なのだそうだ。自宅の方には、ユミコのような女性を置いてもいない。

 では一人の時に何をしているのかと尋ねてみても、あまり明確な応えは返ってこなかった。ひょっとしたら、テルアキはユミコに気を遣っているのかもしれない。ユミコにとって、テルアキはまだまだ謎多き存在だった。


「テルアキさん、ご飯が出来ましたよ」


 観察することでうかがい知れる分については、情報収集は完了しているのではなかろうか。後は本人に直接訊いてみるのが一番だ。ドアをノックすると、くぐもった返事が聞こえてきた。テルアキは仕事部屋の中を覗き込まれるのを好まない。ここの掃除は不要であるとも言い渡されている、呼べばちゃんと来てはくれるので、後はダイニングに戻って待っているのが正解だ。


 昼食は、色々と悩んだ挙句にパスタで落ち着いた。調理の過程で、失敗の要因が少ないのが決め手だ。ソースも市販品をベースにして、ちょいちょいとアレンジを加える程度に留めておく。以前テルアキと一緒に食事をしたのがイタリアンだったので、これは安牌あんぱいのはずだった。次のメニューに関しては、この後の会話の持っていき方次第か。


「美味いな、これ」


 どうやら、テルアキのお気に召してはもらえたようだった。そこまで褒めてもらえる程の料理ではないのが、若干心苦しい。ユミコは現状、このマンションにほとんど無償でいさせてもらっている。これがそのお礼になんて、到底なるとは思えなかった。


「ほとんど出来合いのものと変わらないんですよ」


 このレベルで満足されてしまっては、後々真実を知った時にがっかりさせてしまうのではなかろうか。それに何より、ユミコのプライド的にも今一つ納得がいかない。早めに白状しておいた方が、お互いのためにもすっきりとして良さそうだった。

 テルアキは上の空で、「ふぅん」と判ったような判っていないような反応だった。これからも、テルアキに料理をふるまう機会はいくらでもあるはずだ。時間を見て、レシピサイトでもチェックしておこう。ユミコの中には、奇妙なやる気が沸いて出てきた。


 考え事をしながらパスタを口に運んでいるユミコの姿を、テルアキはじぃっと見詰めてきた。何かマナー的にまずかっただろうか。そう思って慌てて居住まいを正したが、どうやらそういうことではないらしい。

 テルアキの視線はユミコから離れて――広くてピカピカのアイランドキッチン。ドイツ製のどちらかといえばシックで大人しめなデザインのダイニングテーブル。そして最後には、大きなソファの置かれたリビングの方に移された。


「うん、やっぱりこの方がずっと良い」


 テルアキの言わんとしていることが、ユミコには何となく察することが出来た。ユミコが来る前までは、この部屋はテルアキが一人で使っていた。ここの用途はあくまで仕事部屋であって、私生活の拠点ではない。仕事との区別を明確にしするべきだとの判断で、敢えて仕事用の場所を別に用意していた、というものだった。

 ただそういった使い方をしていると、どうしても広さを持て余してしまう。ユミコが最初に訪れた日には、冷蔵庫には飲み物のペットボトルが数本あるのみだった。掃除も億劫になってしまうのか、そこかしこにうっすらとホコリが層をなしている。そのためにハウスキーピングを雇うとなると、ちょっと無駄が大きい気がするとのことだ。そういうところの金銭感覚は妙にしっかりとしているのが、ユミコには可笑おかしかった。

 だからユミコがここに住んでくれるのは、テルアキにはそれだけで有り難いことだった。生活感があふれることで、部屋の中の空気が生き生きとして感じられる。家というのは、そこに誰かが住まうことによって初めてその存在意義を得ることになる。テルアキはその事実を改めて確認し、噛み締めている様子だった。


「そんなにいじってはいませんけど」


 テルアキにとってこの部屋は、単純な『空間』でしかあり得なかった。家具や電化製品は最小限のものばかりだし、調度品のたぐいは何一つ飾られていない。ユミコの方も大学一年生の頃の質素な生活が身に付いていて、どうにも物を増やそうとは思えない。一応テルアキから生活補助費の名目でまとまった金額を貰ってはいるので、なんとか無いセンスを振り絞って工夫を凝らしている真っ最中だった。

 とりあえず購入して揃えたのが、玄関マットとソファのカバー、それとトイレ周りの小物だった。これ以上のものとなると、ユミコのキャパシティから大きく逸脱することになる。今のところ最も目を引くのは、ダイニングテーブルの上に添えられた明るい色合いの生花のコサージュか。白とかブラウンばかりが目立つ中に、鮮やかな花があるだけで雰囲気はがらりと変わる。うん、とテルアキはうなずいた。


「ユミコさんはこれで良いと思う。無理に『盛る』必要はないよ……いや、どう使ってくれても構わないんだけどさ」


 受け取り方に困る評定だ。ユミコの洒落っ気の無さが際立っているだけのようにも思える。ただまあ、テルアキがそれで喜んでくれるというのなら悪くはない……のだろう。ユミコにこれ以上の何かを期待されても困ってしまう。


「どう、ここでの生活には慣れた? お金には困ってないかい?」

「はい、お陰様で」


 三月の中旬に引っ越してきてから、ユミコの毎日は驚くほどに安定していた。元々少ない荷物の運び込みは、半日もかからずに済んでしまった。マンションの立地が良いので、大学までの通学時間は今までの半分以下に短縮された。事あるごとに悲鳴を上げて煙を吐き出したポンコツのエアコンは、最新の空調設備に取って代わられた。一日のうち二食はインスタントだったのが、味も栄養も望むままに選ぶことが出来る。おまけにベッドはふかふかだ。


「不自由があるなら言ってくれ。解決可能な問題なら、何でも対応させてもらうよ」

「はぁ……」


 テルアキは嬉しそうにニコニコとしている。慣れないことがあるとするならば、これだ。ユミコはテルアキの好意によって、ここまでしてもらっている。問題は、ユミコの方はテルアキに対して何一つその代償を払えている気がしないということだった。


「その、私がここまでしてもらえる理由って、なんなんですかね?」


 ユミコは自分でも、そこまで魅力的な女性ではないとの自覚ぐらいは持っていた。綺麗な女の子なら、この近隣を歩き回るだけでもごまんといる。もっと若い子だって、スタイルの良い子だってテルアキならよりどりみどりだろう。

 テルアキにはお金があるのだし、遊び目当てならば相手はいくらでも工面出来るのではないかと思われた。言い方は少々よろしくないが、お金さえあるのならば何でもするというような子はユミコの周囲にも何人かはいた。大学でも過去に、トラブルになった事例があるそうだ。そういった事情もあるから、ヨリ辺りが口うるさく注意のメッセージを送りつけてくる。


「それは俺がユミコさんの力になりたいからだって、ちゃんと説明したよね」

「ですけど」


 様々な理由により、ユミコは三月で住んでいるアパートから退去しなければならない事態におちいっていた。どうにも、入居した当初から仕組まれていた感が否めない。そうであるとすると、それに一枚噛んでいるであろう実家の関係者にはどうしても頼りたくはなかった。

 手持ちの資金は、大学の近くの部屋を借りられるほどには多くはなかった。そして予想していた通り、実家からは戻ってこいの一点張りだった。気軽にルームシェアを頼めるような、親しい間柄の友人もいない。保証人不要の物件となると怪しげなものばかりで、気が滅入っていたところに出会ったのがテルアキだった。


「なら良いじゃないか。後、俺は別に『無条件に』とは言っていないよ。これは時間制限付きの措置だ」

「そこはちゃんと理解しています」


 テルアキはユミコに、住む場所を提供する。生活に必要な資金も、一般の範疇をはるかに超える額まで出してくれる。その代わりに、ユミコはテルアキの愛人にならなければならない。


 ――正確には、愛人になる準備期間を与えられていた。


 いきなり見も知らない中年男性の愛人になることは、田舎から出てきた女子大生には相当に苦しい選択だろう。そう言ってテルアキがユミコに提示してきたのは、六ヶ月間の猶予の存在だった。

 ユミコがここに住むようになってから半年間、テルアキはユミコに対して一切手を出さない。そういった性的な要求をおこなわない。ユミコはテルアキのマンションで、ある程度の制限付きで自由に生活を送って構わないとされていた。

 その期間中に、ユミコが新しい自分の住処すみかを見つけて転居するならばこの関係はそこまでだ。ここにいた間に使ったお金に関しては、改めてユミコに請求したりなどと野暮なことはしない。なんならば、新居と契約する際の頭金だって出してやっても良い。これはテルアキの、ユミコに対する好意の証ということだった。


 ただし、ユミコが六ヶ月を超えてこのマンションに留まり続ける場合。そうなれば、ユミコの方には『テルアキの愛人になる』という意志があると判断される。そうなったら、ユミコはテルアキの言うことには逆らえない。テルアキからどんな卑猥ひわいな要求が飛び出してきたとしても、諾々(だくだく)とそれに従うしかない関係となってしまう。


「良心の呵責かしゃくとかは無用だ。俺はそうやってユミコさんを縛ろうとしている、悪い男なんだからさ。大いに利用してやってくれて結構。もっとも、他の約束もしっかりと守ってもらわないとだけどね」


 猶予の話以外にも、細かい決まりごとはいくつかあった、友人や知人をこの部屋に上げてはいけない。外泊をする際には事前に許可を得なければならない。正直、他の取り決めにはそこまで気にかけるような内容のものは一つもなかった。

 例えば、ユミコが外でテルアキではないほかの男性と交際することについても、テルアキは禁止事項とはしなかった。束縛するのは好きではないし、それを監視するコストを考えれば許可してしまった方が早いのだそうだ。じゃあそうなっても良いのかと問えば、「なるべくやらないでほしいなぁ」としょげられてしまった。どちらにしろ、ユミコにはそんな浮いた話などある訳がない。訊くだけ可愛そうだったな、とユミコはテルアキの反応に同情すらしてしまう始末だった。


「こういうことして、楽しいですか?」

「楽しいよ? 少なくとも、ここに来る楽しみは出来た。俺はそれで満足してる」


 その割には、テルアキは毎日ほとんどユミコと顔も合わせなかった。ユミコが大学にいっている間に仕事部屋にこもって、帰ってくる頃にはもういない。ヨリが言うには、ユリコが留守に間に下着とかをいじる変態なのではないかということだった。

 しかし指摘されてみると、それはそれで気味が悪い。ユリコは以前、携帯のアプリで大学にいる間の自室の監視を数日間程おこなってみたことがあった。結果はシロだ。テルアキはむしろ、もっと屋外に出て有酸素運動をした方が良い。


「じゃあテルアキさん、せめてお話くらいはしましょうよ。これだと私、半年間の便利な宿泊施設で終わっちゃうんで」


 本当なら、それで一向に構わないはずなのだが。自分から危険を招き込んでしまってどうするというのか。ただ、テルアキにはそこまで危険な何か、というのがユミコには感じられなかった。

 後はここまでしてくれる家主に対して、あまりにも恩知らずな状態にはしておきたくないという心理も働いていた。貸し借りなしとまではいかなくても、ちょっとしたお返しぐらいは出来るだろう。会話を交わすことで気が楽になるというのなら、安いものだった。


「ユミコさんがそうしたいって言うなら」


 これはこれで、テルアキにうまく乗せられた気もする。実に厄介だ。人畜無害なふりをして、テルアキという男は相当なジゴロなのかもしれなかった。

 ――そのテルアキのマンションで暮らしている時点で、ユミコはもう完全に手遅れであることは確実だ。だから、何かがあったとしても自業自得だし、今更でしかない。その時はその時で、ユミコは全てをあきらめる覚悟だけは持っているつもりだった。


「ええっと、だったらついでに一つわがままを聞いてくれると嬉しいんだけど?」


 ああ、ついに来たのか。ユミコはごくり、と唾を飲み込んだ。口では何と言っていても、男は漏らさずオオカミだ。妙に照れて頬を赤らめているテルアキが可愛く見えるのも、きっと罠に違いない。

 雨が上がって、まぶしい天使の階段が雲の間から降りてきていた。午後の講義が始まる。それまでに片付けられるお願いなら良いのだけど、とユミコは他人事のように考えた。


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