そこをめざして(4)
天気予報は嘘つきだ。今日は一日晴れだと聞いていたから、余計な荷物になる傘は置いてきてしまっていた。ユミコは昇降口から、薄暗い空を恨めしそうに見上げた。
後一時間も早く帰ることが出来ていれば、そもそもこんな事態にはなっていなかった。学校の中には、生徒たちはほとんど残っていない。ユミコは三年生の中でただひとり、進路指導室に呼び出しを受けていた。
理由は例のごとく、ユミコの進学先に関してだった。教師たちの中には、月緒の家に良い顔をしたがる心根の悪い者がいる。上手いことユミコを翻意させて、媚を売ってやろうという魂胆だ。そんな腐った根性を持った連中のせいで、ユミコは何かと進路関係で面談をしなければならなくなっていた。
しかしユミコの方も、そう簡単に変えられるほど軟な決断をしているつもりはなかった。進路指導室側も、ユミコの希望を無理に捻じ曲げるほどの力は持ち合わせてはいない。ユミコの味方をしてくれるリベラルな者たちだって、若い教師を中心に若干名はいるのだ。どんなに時間をかけたところで、話し合いは平行線、結論に変化はなかった。
「やみそうにねえなぁ」
「お兄ちゃんが車で迎えにきてくれるって。ヒロキくんも一緒にどうぞ、だってさ」
ユミコの隣では、ヒロキが同じように雲を眺めていた。特に頼んだ覚えはないのに、ユミコが遅くなる日はいつもこうやって待っていてくれる。これで傘を持っていたのなら、少しは見直してやれるところなのに。残念ながら、ここでこうして並んで立っていることしか出来ない。減点イチ、だ。
一応ヒロキはまだ、ユミコの婚約者という立場にある。こうやってユミコについてあれこれと世話を焼くのは、当たり前のことなのだそうだ。そろそろ慣れた……とでも言いたいところだが、実際にはもうウンザリだった。
「先に帰っててくれて良かったのに」
「そうはいかないだろ。俺にとっては、義務なんだ」
義務か。そんな感覚で傍にいてもらっても、ユミコはちっとも嬉しくなかった。婚約者という間柄の二人が、こうして一緒にいることがどんな憶測や噂を呼ぶことになるのか。ユミコはこれまでの学校生活で、それを身を持って学んできた。時代錯誤も甚だしい。それを愚直に実行してみせるヒロキに対しても、我慢の限界が近付いてきていた。
「なあ、ユミコ」
「何よ?」
あまり馴れ馴れしく話しかけないでほしい。そういう空気を読む能力に関しても、ヒロキには意識してもらいたいところだった。親が決めた許嫁というのは、学生である今現在においても親密であることを意味しない。親しき仲にも礼儀あり、だ。その時が訪れるまでは赤の他人なのだから、それを踏まえた距離というものを保っておいてもらいたかった。
「本当に、東京にいくのか?」
「しつこいな。その話、何回したら気が済むの?」
話題のチョイスも、減点だ。ついさっきまで、進路指導室で喧々諤々の大論争を繰り広げてきて。その上ここでも、ヒロキを相手に延長戦をしなければならないのか。もう少しばかりはユミコの気持ちを察してくれても、罰は当たらないだろう。これでユミコの兄が運転する車の中で第3ラウンドが開始されたならば、ヒロキとは明日一日口をきかない所存だった。
「いや、そうじゃなくてさ。ユミコは、どうしてそこまでして東京に――っていうか、ここにいたくないのかなって」
「どうして、って……」
ヒロキは長男だ。家を継いで、農家になること以外には将来について考えることが出来ない。それに比べて、ユミコは自由奔放な三人目だった。
「ここでずっと暮らしていくことだけが、私の人生の可能性の全てじゃないでしょ?」
テレビや映画、インターネットの向こうには、無限の世界が広がっていた。そこにある魅力的な数々の事象を、直接自分の目で見て、触れて、全身で感じ取ってみたい。ユミコの願望の根源にあるのは、そんな想いだった。
憧れている場所は、作り物でもまやかしでもない。それは確実にそこに在って、その気になれば実際にその場に立って、同じ景色を眺めることが出来る。そうだとするならば、ユミコは田舎の農村などでじっとしてはいられなかった。
「ヒロキは東京って、いったことある?」
「いや……ないけどさ」
「だよね。名前は知っているし、どういうところなのかも判ってる。でも本当に見たことは一度もないんだ」
人が多くて、流行の最先端で、何かにつけて話題にのぼって。他人に冷たくて、クスリや暴力や怖いことが沢山あって。それでいて、キラキラと輝いて見える街。その正体を正しく認識するためには、直接乗り込んでいって確かめるしか術がなかった。
「知識にしかない場所っていうのは、現実にいってみればそこに存在しているはずなんだよね。だから私はそこにいって、自分がそこにいられるってことを確認したい。日本だけじゃなくて、世界中にね」
「せ、世界中?」
ユミコの宣言に、ヒロキは目を白黒とさせた。そのための英文学科だ。ユミコはちゃんと下調べをして、実践的な勉強が出来る進学先を決めていた。親が決めた、学歴を持たせたいだけのなんちゃって四年制大学とは違う。英検を頑張って取得しているのだって、受験とは別に未来の自分の在り方を見据えてのことだった。
「ロクに知りもしないくせに、そこにいくことを否定するなんて、私には理解出来ない」
『なんで東京なんかに』口を開けば、みんな示し合わせたかのようにそう批判してくる。ではその相手は、東京についてどれだけのことを識っているのか。月緒の家におべっかばっかり使う、田舎に引き籠った臆病者に過ぎないくせに。
「失敗を怖がっていたら、新しい世界なんて見えてこない。みんなで足を引っ張り合って、凝り固まって生きていくなんてまっぴらなの」
どうせユミコは、家族の中では味噌っ子だった。ヒロキの家にくれてやって、そちらで精一杯奉公せよというのが親の考えだ。ユミコからしてみれば、そんな人権侵害は願い下げだった。自分がいらない子なら、さっさとこんな村からは出ていってやる。ユミコの決意は、もう何年も昔に心に刻まれたものだった。
「――だから、私はいくよ。決めたから」
ヒロキは何も応えなかった。ユミコは、ヒロキの言葉が聞きたかった。賛成でも、反対でも良い。ヒロキの考えを、ヒロキ自身の口からユミコに向かって発してほしかった。
去っていくユミコのことを、肯定も否定もしないまま。別れの時は、やってきてしまった。減点、ヒャク。
雨の中に溶けた想いは、きっとまだ高校の昇降口に染み込んでいる。ユミコはそれを置いてきたままだ。せめて、ヒロキのことを嫌いになることが出来ていたのなら――
東京での生活は、また少し違ったものになっていたのかもしれなかった。
マンションの部屋に帰ってくると、ユミコの様子がおかしかった。「おかえりなさい」という声もどこか沈んでいる。お土産にもらってきたアイスクリームショップの無料券も、予想していたよりも色よい反応が得られなかった。
何か、良くないことでもあったのか。それともテルアキの対応に拙いところがあったのか。後者であるならば大問題だ。テルアキは夕食を待つ間、脳みそをフル回転させてここ最近の自分の言動を振り返ってみた。
今朝、遅くなると出かけた際の態度がそっけなかっただろうか。あまりべたべたしすぎるのもどうかと思って、なるべく何事もない風に装うことを心掛けているのだが。実はそれが、冷たい人間という印象を与えているのかもしれない。ケンキチの店でバイトをしているチカは、いつもテルアキのことをそうやって批判してきた。確かにユミコも、テルアキにもっと自分を出してほしいと言っていたような。
しかし、それはそれでテルアキにはどうしたら良いのかまるで判らなかった。ユミコからしたら二十も年上のオジサンが、ユミコと一緒にいられることの喜びをどの程度のリアクションで表現するのが適切なのか。はしゃぎすぎて嫌われたら元も子もない。あくまでスマートに。それでいて、後でばれて幻滅されないくらいには本性を隠さずに。
……そんな匙加減、判ってたまるか。
結局、答えらしい答えなど何も出はしなかった。お互いにいつもよりも少ない口数のまま、夕食の支度が整った。今夜はカレイの煮付けだ。昨日、たまには魚にしてみようと話をしていたのだった。それをきちんと覚えていて、メニューに出してくれているのだからそこまで不機嫌ということはないらしい。戦々恐々とした気分で、テルアキはユミコと食卓を囲んだ。
「あの、テルアキさん。確認させてもらっても良いですか?」
神妙な顔で、ユミコは問いかけてきた。二人の約束事項について、何か不備があったのだろうか。テルアキの方は現状、ユミコの希望に従って住む場所やお金を提供するだけだ。それが気に食わないとか、テルアキのマンションに住まわされることが嫌だと言われてしまったのなら――それはもう、どうしようもない。
「はい、何でしょう」
三ヶ月もったのなら、それは充分な幸せだったのかもしれなかった。元を正せば、おじさんの無茶な要求に応えてもらっただけのことだ。テルアキは自分で判断して、好きでユミコに投資をした。それをユミコの側から打ち切ってほしいと申し出てくるのなら、諦める以外に手はなかった。
「九月で、ここにきて六ヶ月になります。それを超えてここに居続けようと思ったら、私はテルアキさんの――愛人になるんですよね?」
「そういう約束にしてあります。本当はユミコさんがいたいだけ、と言ってあげたいところなのですが、そこには一定のけじめも必要かとも思いまして」
何の見返りもなく、ずっとここにいてください。そんな『与えること』と『享受すること』が当たり前になってしまった関係では、何も生み出せはしない。テルアキが欲しいのは、ユミコという人間の全部だ。ユミコが自分の意志で、テルアキと共にいたいと願ってくれること。それを得るためには、何らかの制約条件を課すことが必要不可欠だった。
「もし仮に、私がテルアキさんの愛人になったとしたらですよ? テルアキさんは、その――私をここに閉じ込めて、そういうことをしたりするんでしょうか?」
「……はい?」
ユミコが頬を真っ赤に染めている。テルアキはしばらく、ユミコに何を言われたのか理解が追い付かなかった。ユミコを閉じ込めて、そういうことって何だ。ああ、まあ……健全な成人男性がどうとかこうとか、以前に話をした記憶がある。世の中的に愛人とくれば、大体はそういうイメージなのか。
気まずい空気を吹き飛ばすようにして、テルアキは「うぉっほん」と大きく咳払いをした。
「ええっと、そこまで無茶な要求をすることはしませんよ。その、世間一般的なレベル、という感じで留めておきます。俺はユミコさんのことが好きで、ここにきてもらったんです。少なくとも監禁とか、そういったやり方は考えていません」
そもそもそうするつもりであれば、最初にこの部屋にきた時にそうしていた。ユミコの人格なんて無視してしまっても良いというのなら、とっくに解決している話だった。
「とりあえず見えている範囲で言えば、そうですね……ユミコさんが大学を卒業するまでの間は生活全般と、必要なら学費の方も支援させていただきます。その、『そういうこと』に関しても面倒にならない程度に控え目、としておきましょうか。ユミコさんの生活を維持することを第一に考えますから、何かあれば遠慮なく意見してみてください」
ユミコが、ユミコでいてくれること。テルアキにとって一番大切なのは、そこだった。苦労して手に入れてさえしまえば、後は滅茶苦茶にして放り投げるみたいな扱い方はテルアキの趣味ではなかった。もう、そういうのは沢山だ。いつまでもいつまでも。せめて、自分より先には消えていなくなってしまわないでほしい。
六ヶ月を超えてユミコがここに残ってくれるのなら、テルアキがユミコにまず求めることはそれだった。
「じゃあ、愛人になった場合の条件を一つ増やしてもらっても良いですか?」
「言ってみてください。可能な限り実現出来るよう、検討します」
やはり、こんな中年が相手ではあれこれと厳しいのか。仕方がない、とテルアキは内心で溜め息を吐いた。ここまで付き合ってくれただけでも、ユミコには感謝しなければならなかった。表には出さなくても、気持ち悪かったり、不快な思いをさせたこともあるのだろう。ユミコが嫌がるのなら、テルアキには無理に我を通すつもりは一切なかった。
「テルアキさんって、お金持ちなんですよね?」
「基準が曖昧ですが――そうですね。そういう前提で話をしてもらって構いませんよ」
お金。テルアキに、男性としての魅力なんてなかった。あるのは財力のみだ。誘蛾灯のように、そこにだけに魅かれてみんな集まってくる。十年ほど昔、荒んだ生活を送っていた時期は特にそうだった。ユミコの気を引くことが出来たのも、テルアキがこのマンションの部屋を提供すると申し出たからだ。悔しいが、結局のところ何もかもはそこに帰結してしまうのか。
「あの、わがままでごめんなさい。それじゃあテルアキさんにお願いです。一度でも良いので、旅行に――海外に連れていってもらうことって可能でしょうか?」
ユミコの訴えを聞いて……
「はぁ?」
テルアキは、あんぐり、と大きな口を開け放ったまま硬直した。




