そこをめざして(3)
いつもなら数人程度の客たちがいる店内が、今はしんと静まり返っている。有線放送のジャズも流れていないとなると、思っていたよりもずっと寂しかった。チカは改めて、ぐるりと『翡翠の羽』の内装を見回した。派手な飾り付けはなくても、落ち着いていて自然な感じがする。オーガニックとか、そういうものを意識しているのだろうか。
これが店長のケンキチの趣味であるとは、チカにはちょっとピンとこなかった。多分、あの日に出会った女の人の趣味だ。お子さんが小さいとのことで、今日は店の方に顔は出していない。チカは非常に残念だった。
ケンキチはカウンターの奥で、じっとこちらの様子を窺っていた。長く伸ばした髪を後ろで縛っていて、一見ダンディだけど中身は普通のおじさんだ。後は今、チカの目の前に座っているもう一人の男性。こちらはケンキチ以上に正体が知れなかった。ついさっき初めて会って、名前もその時聞かされた。
「三隅チカさん、高校一年生。アルバイトの経験は今までになし。まあ、そこまでスキルを要求される仕事ではないと思うし、そこは心配していない」
ケンキチと同じくらいの年頃の中年男性の名前は、内藤テルアキといった。この店のオーナーなのだそうだ。店の経営に関しては全てケンキチに任せていて、必要な時にだけこうして顔を出してくる。今回は『翡翠の羽』に、新しいスタッフを迎えるかどうか――チカのアルバイト採用面接ということだった。
チカはてっきり、この店はケンキチ個人のものだとばかり思い込んでいた。アルバイトの件もケンキチと、後はもう一人いる女性が認めてくれればそれで完了だと安心していたのに。見も知らないテルアキが面接の相手ということで、チカは若干面食らっていた。
この男に、チカの何が判るというのか。
チカにとって、『翡翠の羽』はとても大切な店だった。だからこうして、この場所にいさせてほしいと願い出た。それが普段からいるのかいないのか判らないようなオーナーの一存で、断られたりなんかされたらたまったものではなかった。不信感一杯の目線を向けられて、テルアキは軽く肩をすくめてみせた。
「ええっとね、一応ケンキチに事情は聞いているよ。前向きに話をするつもりだから、そんなに攻撃的にならないでほしい」
「はぁ」
そうは言われても、簡単には信用出来そうになかった。チカの眼にテルアキは、どうにも掴みどころのない人間に映っていた。
十五年とちょっととはいえ、チカもこれまでの人生でそれなりに周りの大人たちを観察して生きてきたつもりだった。上辺だけ良い返事をして、ちっとも人の言うことを聞いてない自己中心的な奴とか。相手を子供だと思って、最初から舐めてかかってくる失礼な輩もいる。中にはマスターのケンキチみたいに、不器用だけどチカみたいな女の子にも精いっぱい誠実に対応しようとしてくれる人もいたりする。
テルアキは、そのどれにも該当しなかった。今までにチカが出会ったことのないタイプ。いや――
外面しかない、中身が空っぽの人間だった。
「この店は経営状況も悪くないし、中長期的に働いてくれるとなると今後とても助かるという見込みもある。なので、アルバイトを採用すること自体は歓迎なんだ」
すらすらと淀みなく、テルアキはチカにそう説明した。でも何でだろうか、そこには一切の情動が感じられなかった。機械的、というのとも少し違う。まるで自分の外側にある世界の全てが、自身とは切り離された無関係な他人事であるみたいな。テルアキの言葉には、何もかもを突き放してしまったような冷たさが秘められていた。
それはまるで……少し前のチカと、同じだった。
「一つだけ確認させてもらいたくてね。モチベーションの問題だ。三隅さんは、どうしてこの店で働きたいと思ったんだい?」
どうして?
「このお店が、好きだからです。それ以外に、理由なんてありません」
なんでそんな愚かな、判り切ったことを訊くのだろう。チカは呆れ返った。ケンキチに聞いていたのではなかったのか。ちらり、とチカはケンキチの方を見やった。ケンキチは何も言わない。ここでチカは、改めてテルアキに対して自分の想いを告げなければならないということか。それが求められているのなら、そうするまでだ。チカはぐっと両掌を握り締めた。
「あたしはこのお店の存在に、助けてもらいました。あたしにとってこのお店は特別なんです。このお店のために何かをしたい、一緒にいたいと思っているんです」
あの雨の日にここにこなければ、チカは変われなかった。いつまでも腐って、内面に閉じ籠って。どこにも進むことが出来なかったに違いない。
ケンキチやあの女の人がいてくれたから、チカは助かった。自分がこうして元気でいられるのは、『翡翠の羽』という店があってくれたお陰だ。それならば、チカは『翡翠の羽』に恩返しがしたかった。そして同時に、このお店をもっとチカの近くに感じ続けていたかった。
「ご迷惑はおかけしません。ほんの少しでもいいんで、ここにあたしの場所を作ってください。お願いします」
テルアキは椅子の背もたれに体重を預けた。チカの視界の端で、ケンキチがにっこりと微笑むのが判った。チカはただ、思っていたことを正直にぶつけただけだった。あれこれと尤もらしい理由をつけたり、大人の喜びそうな理屈を考えるのは苦手だ。その訴えを聞いてテルアキが断るというのなら、それはもう仕方のないことだった。
「そんなに気に入ってくれるお客さんがいるとは、ケンキチもなかなかやるな」
テルアキの表情は、形だけは笑顔を浮かべている。だがチカには、その本質が透けて見えていた。やはり、テルアキは微塵も感情を動かしていなかった。ぺらぺらと口だけが動いて、それっぽい言葉を吐き出している。何だろう。チカにはテルアキという人間が、計り知れないほどに深くて暗い、大きな穴を連想させる存在に思えた。
「――了解した。やる気はあるみたいだし、俺の方は文句はない。ケンキチに任せることにするよ」
オーナーの許可は得られた。チカはほっと胸を撫で下ろすと、改めてテルアキに向かって頭を下げた。これだけ色々と述べたのだから、その分の働きはこなしてみせないといけない。元気よく立ち上がったチカの姿を、テルアキの無感動な瞳が見つめていた。
連日、雨模様が続いていた。気象予報士によると、梅雨前線が停滞しているのだそうだ。時にはしとしとと、そして時には大粒の水滴がとめどなく。マンションの部屋に乾燥機がなければ、ユミコは生乾きの洗濯物の山に埋もれてカビが生えているところだった。
テルアキは、またもや遅くなると言って出かけていった。ユミコは今日は午前中だけで講義が終わる。お昼はヨリと学食で済ませるとして、午後はどうやって過ごすか。生活費のためにバイトを詰め込む必要がなくなって、最近のユミコは若干暇を持て余し気味だった。
そうなると、つい『翡翠の羽』が頭に浮かんできてしまった。チカに英語の勉強を教えたり、ケンキチの淹れてくれたコーヒーを飲んでのんびりとリラックスするのは悪くない。
後は、厨房を覗き込んでケンキチの料理テクを参考にするのも重要なことだった。ケンキチはあの鉄壁の外面を持つテルアキを、胃袋で掴んでいるのに違いない。是非その技術を習得させてもらって、ユミコは今度こそテルアキを料理で泣かせてみたかった。
テルアキにその話をすると、「ユミコさんも執念深いですね」と微妙な顔をされた。自分でもしつこいかな、と思うこともあるが。ユミコにとってそれは、とても大事な目標だった。
自分の本性を頑なに見せようとしないテルアキが、恐らくあの時だけは無防備に全てを曝け出していた。紳士で穏やかなテルアキはそれはそれで好ましいが、所詮は作り上げられたまやかしの姿だ。ひょっとしたらユミコは、自らの選択によってテルアキに人生の一部か、あるいは大部分を捧げることになる。その相手のことを、なるべく理解しておきたいと願うのは自然な流れだった。
ケンキチやチカに訊いてしまえば、ユミコの知らないテルアキの過去についてはいくらでも情報が出てくると思われた。だが、そのやり方では意味がなかった。理由は単純に、テルアキはユミコに『そうあってほしい』とは望んでいないからだった。
ユミコだって、ただ漫然とテルアキと共に生活している訳ではなかった。テルアキがユミコをどんな眼で見て、どう反応を返してくるのかは良く観察してきていた。テルアキが自分のことを語りたがらないのは、ユミコにそれを引き出してほしいという想いの裏返しだ。そのための努力を怠らず、テルアキにあの手この手とアプローチをし続けるユミコのことを――テルアキは何よりも愛しいと感じている様子だった。
何とも涙ぐましい、実にいじらしい愛人っぷりではないか。自画自賛する程ではないにしろ、ユミコはユミコなりにテルアキの気持ちを汲んで行動していた。何しろ愛人候補として、テルアキに飼われている身なのだ。ご主人様のお気に召すように、甲斐甲斐しい女子であろうとすることは損にはならないはずだった。
傘をさして、『翡翠の羽』へと歩く。この道も。すっかり通い慣れてしまった。今日のケーキは何だろうか。数日前に出たフロマージュは絶品だった。夕方近くになると短大生の客が殺到して、あっさりと売り切れてしまうから注意が必要だ。
ケーキ類に関しては、ケンキチだけではなくてケンキチの奥さんも制作に携わっているらしい。そういえば、ユミコはまだケンキチの家族には会ったことがなかった。チカの話では、ケンキチには奥さんと、娘が一人いる。娘は奥さんに似て可愛いということだから、完全に想像の範囲外だ。そうなると、一度くらいはお目にかかっておきたかった。
角を一つ曲がれば店構えが見える、という人気の少ない路地までやってきて。ユミコはその光景に遭遇した。
水色の傘が、無造作に道の上に転がっている。風に煽られて、波のようにうねった雨のカーテンの下にうずくまっていたのは――
「チカちゃん!」
デニムのズボンに灰色のパーカーという、いつものボーイッシュな服装のチカだった。ユミコは慌ててチカに駆け寄ると、カバンからタオルを取り出してチカに被せた。濡れた身体から、可能な限り水分を拭き取る。雨脚はまだ弱まりそうになかった。どこか、近くの屋根のある場所にまでチカを運ばなければ。
「ユミコさん……肩さえ貸してくれれば大丈夫だから、お店に」
チカは左の膝が痛むのか、じっとそこを抑えていた。声は苦しげにくぐもってはいたが、血が滲んでいる様子はない。とにかくチカの言うことに従って、『翡翠の羽』に向かおう。ユミコはチカの体重を支えて、立ち上がった。
水色の傘が、ゆらり、と揺らいで転がっていった。
「中学の時に、三回手術したんです。先天的なものもあって、完治は出来ないだろうって」
雨の勢いが強すぎるせいか、『翡翠の羽』に客は一人もいなかった。店にはこんな時のためにか、チカ用の着替えが準備してあった。奥で真新しいジャージ姿になると、チカはカウンター席に腰を下ろした。痛みはだいぶ治まったらしい。待っている間に、ユミコはケンキチからチカの事情についてざっくりとした概要を聞かされていた。
「普通の生活をしている分には問題はないんですよ。ただ、本気の運動は駄目なんです。それから今日みたいな雨の日には、どうしても痛みがぶり返してしまって」
チカは中学生の時、バスケットの強化選手として注目されていた。チカの通う学校は、公立でありながら他の学区からも編入する子供がいるくらいのバスケの名門だった。チカはそこでレギュラー、それもスターティングメンバーの一人として活躍していた。
高校へのスポーツ推薦や、プロチームなどの強化選手としての話もあった。チカにとってはバスケが青春と――人生の全てだった。厳しい練習や、食事制限だって苦ともしていなかった。
「あたしはあの時、生きる目的を失ってしまったんです」
練習中に突然激しい膝の痛みに襲われて、それからすぐに入院となった。たいしたことじゃない。自分自身にそう言い聞かせながらも、チカはずっと不安だった。大変な手術になると説明されても、耐えてみせると応えた。
必ず、元通りになれると信じていた。
「これでも良かった方なんです。一歩間違えば、車椅子の生活だったんですから。あたしは喜ばなきゃいけなかった」
そんなこと、出来る訳がなかった。
なまじ歩けるからこそ、憎しみは数段深くなった。こんな足が、何の役に立つというのか。走れない。コートの中に戻れない。ドリブルも、そこからの華麗なフェイントも。そしてピボット、パス、隙間を縫ってワン、ツー。ボールがリングを抜けて、ネットを揺らした時のあの快感。
傷跡を見ると、それだけで気分が沈んできた。私服の高校を選んで、スカートを履かなくなったのはそれも原因の一つだった。知らない人間に、奇異の目を向けられるのが恥ずかしい。説明を求められれば、更につらい想いをすることになる。
足なんていらない。この先に、生きていくための希望は存在しない。バスケを取り上げられてしまったチカに、この世界に留まる理由など何も見当たらなかった。
「チカちゃん、また無理したんだろう?」
「雨が降っちゃうと、つい癖でアップとかやりすぎちゃうんですよね。習慣になっちゃってて」
ケンキチに指摘されて、チカはぺろりと舌を出しておどけてみせた。今のチカからは、そんな暗さなんて微塵も感じ取れなかった。明るくて、快活で、元気で。『翡翠の羽』の、大事なムードメーカーだ。
「ユミコさん、あたし、諦めてないんですよ」
元通りになることは出来なくても、そこに近い場所なら目指せるだろう。立ち止まってしまえば、そこでおしまいだ。チカは自分の求めるべき、新しい世界を探していた。
「店長とか、店長の奥さんに助けてもらって、あたしはもう一度頑張れるって思った。何て言うのかな、この世には、まだまだあたしの知らないことが一杯あるって、そんなカンジ?」
チカは朗らかに笑った。強い光には届かなくなってしまっても、そこに辿り着こうとするとする意思さえあれば歩き出せた。チカの中には、数多くの可能性が眠っている。人生を棒に振るのは、それを全部試した後だって遅くない。
仮にチカの中身が空っぽになったって――この店は、温かいカフェオレと甘いケーキを用意して待っていてくれている。
だからチカは、歯を食いしばって立ち上がることが出来た。
「ユミコさんにはありませんか? そこにいきたいっていう、強い気持ち」
真っ直ぐなチカの視線に見つめられて、ユミコは動悸が激しくなった。ユミコが目指す場所。ユミコがこうありたいと願うこと。
それは――




