そこをめざして(2)
マンションに帰ってくると、なんだかんだでユミコはすっかりずぶ濡れになってしまっていた。気温はそれほど低くなくても、このままでは部屋中がじめじめして気分が悪い。空調の除湿をフルパワーで効かせてから、ユミコはシャワーを浴びることにした。
前住んでいたボロアパートの給湯器はかなりの年代物で、お湯が出るようになるまでには身体が芯まで冷えて凍えるくらいの時間を要していた。それがここでは、ボタン一つで湯気がたっぷりのお湯が噴き出してくる。文明の利器と、財力に乾杯だ。ユミコは鼻歌交じりに服を脱ぎ捨てると、浴室の中に入っていった。
備え付けの設備はシャワーだけではなくて、浴室暖房にジャグジーと至れり尽くせりだ。ただどうしてもユミコに理解出来ないのは、洗面所との仕切りがガラス張り、というところだった。これはいかような理由に基づく構造であるのか、ユミコには理解不能だった。オシャレさを追求するためならば、同居人の前に裸体を晒すことなどリスクの内にも入らないということか。金持ちたちの思考は、良く判らない。
とはいえ、この浴室も基本的にはユミコの専用だった。人目を気にする必要は一切ない。テルアキはマンションを訪れた際には、シャワーも風呂も利用しなかった。
世の中には、『お父さんの後のお風呂はイヤ』と拒絶する若い女子も多いのだとか。ヨリもそんなようなことを言っていた。テルアキもそういった事情を忖度して、ユミコに遠慮している様子だった。
ユミコはテルアキにこの部屋を使わせてもらっている身だ。それが嫌なら最初からこの部屋にはやってこないし、テルアキに対してそこまでの距離感を置くつもりはなかった。
むしろ、もうちょっと寛いでくれていた方が気が休まるのだが。
それとも先日この浴室で無理矢理髪を黒く染めたことが、テルアキにはトラウマになっていたりするのか。だったら悪いことをしてしまった。綺麗な黒髪になったテルアキは、ユミコの予想通り実年齢よりも何歳も若返って見えた。
具体的には、三十八歳くらい。「四つだけじゃないですか」とテルアキがぶうたれたのが面白くて、ユミコは久しぶりにゲラゲラと声を上げて笑ってしまった。確かにあれは、心の傷になっていたとしてもおかしくはなかった。反省。せっかく格好良くなったのだから、素直に褒めてあげるようにしよう。そうでないと、またゴマ塩頭のおじさんに逆戻りだ。
「ただいま。あれ、ユミコさん?」
玄関から、テルアキの声が聞こえてきた。思っていたよりも早い帰宅だった。ユミコは丁度シャワーを終えて身体を拭いていたので、バスタオル一枚を巻いた姿で洗面所のドアを開け放った。
「おかえりなさい、テルアキさん。雨、まだ降ってます?」
「わ、ちょっと、ユミコさん」
面食らって、テルアキが一歩後ろに退いた。失礼だな。こういうのを期待して、愛人候補に住まわせているんじゃないのか。テルアキのユミコに対する欲求の度合いには、どうにも測りかねるものがある。ユミコはスリッパを履くと、ずいずいとテルアキの前まで近付いていった。
「やっぱり結構濡れちゃってますね。早く温まった方が良いですよ、シャワーぐらい浴びてください」
テルアキの手を取ると、予想通りに冷え切っていた。恥ずかしがっているのか何なのか知らないが、これで風邪をひかれてしまったらユミコの寝覚めが悪い。どうせ愛人になったら、これ以上の行為だって求められることになるのだ。今はそんなことよりも、毎日の生活の面倒を見てくれている恩人の体調の方がユミコには重要な問題だった。
「わかった、わかりました。シャワーにいきますから、とりあえず着替えておいてください」
「じゃあその間に、夕食の支度をしておきますね」
さらりとそう応えると、ユミコはテルアキを洗面所に押し込んだ。やれやれ、だ。普通はもうちょっと、ラッキースケベだなんだと言って喜ぶものではないのだろうか。「愛している」と口にしてみたり、いざ目の前に立たれると尻込みしてみたり。ユミコにはテルアキの求めていることが、イマイチ判らなかった。
部屋に戻って着替えようとして、ユミコは洗面台の上にドライヤーを置いてきたことに気が付いた。それを取りに行く際、やはり浴室との仕切りがガラスであることには大きな問題があると再認識させられた。ユミコもそうだが、テルアキはもっとか。乙女のような悲鳴を上げたテルアキの様子に、ユミコはこのマンションにきて二回目の大笑いを余儀なくされた。
夕食のメニューは、テルアキのリクエストでアジフライだった。味噌汁もきちんと出汁から取っている。実家にいる時は、むしろ率先してインスタントの出汁が使われていた。ユミコの母親いわく、「家族全員分の食事を用意しなければならないのに、そんな凝ったことなんてやっている余裕がない」とのことだ。
そんな家庭で育ったので、ユミコ自身も料理は常に手抜きの方向で学習してきてしまっていた。テルアキのマンションに越してからは、携帯のレシピアプリがすっかりお友達だ。ここでは器具と食材に関しては、これでもかと言わんばかりに潤沢だった。作ったものを、残さず食べてくれる相手もいる。それならば少々手の込んだ料理でも、いっちょやってみようか、という気分にもなってこようというものだった。
「最近のユミコさんは危機感がなさすぎです」
残念ながら今回もユミコの料理を食べて涙を流さなかったテルアキが、居住まいを正してそう指摘してきた。よりによって、テルアキ本人がそれを言うのか。全力でツッコんでおきたいところだったが、テルアキの表情が真面目だったのでユミコはやめておいた。とりあえずは、食後のほうじ茶を用意する。ぷりぷりと怒ってそうな雰囲気だったのに、湯飲みを置くと「うん、ありがとう」と優しく一声かけてくれる辺りがテルアキだった。
「テルアキさんが喜ぶかと思いまして」
バスタオル姿のことならば、正直そうとしか応えようがなかった。ユミコはテルアキに愛人候補として囲われている。住む場所もお金も散々お世話になっているのだから、ノーサービスという訳にもいかないだろう。仮に六ヶ月でユミコがこのマンションを出ていくとすると、テルアキの方はすっかり丸損になってしまうではないか。ユミコも流石に、そこまでの恩知らずであるとは思われたくはなかった。
「いいんですよ。ユミコさんがここにいてくれて、食事まで作ってくれてるんですから。それで俺的にはトントンです」
淡白というか何というか。テルアキは相変わらず、ユミコをお姫様扱いにしていた。自分でこのマンションに連れ込んでおきながら、破廉恥なのはいけないと思います、ときたものだ。ユミコが最初の頃に抱いていた緊張感など、とっくに吹き飛んでしまった。ヨリもいい加減に呆れたのか、いよいよ警告メッセージの頻度も少なくなってきていた。
テルアキもこれでは、援助交際の相手の女子高生に説教をかましてくる、小煩いオッサンと大差がなかった。『最近の若い娘は』って――そもそもそれが好きだから、声をかけてきたんでしょうに。
「俺だって普通の健全な成人男性なんです。ユミコさんとは約束をしているとはいっても、ついってことだってあるでしょう」
「はい。成人男性ってところは、さっきお風呂場でばっちりと確認させていただきました」
テルアキが盛大に噎せ込んだ。あれは仕方がなかった。ユミコはパパっとシャワーを浴びて、髪を乾かしてから上がるつもりだったのだ。テルアキの帰りは、もう少し遅くなると想定していた。後は天気の影響だ。雨に濡れて帰ってきたご主人様を、そのまま放置しておくだなんて愛人として失格ではなかろうか。
年の割には、テルアキの体つきはがっしりとしていた。脂肪でぶよぶよとしていないし、ムダ毛も少なくて血色も良い。生理的な嫌悪感をもよおさないというのは、かなり重要なポイントだ。ユミコとしては、テルアキには自信を持ってもらいたいところだった。
「……勘弁してください」
ユミコの意に反して、テルアキからは逆にお叱りを受けてしまった。共同生活を送る上で、お互いにされて嫌なことは避けるようにしなければならない。ユミコだって、浴室に突然侵入されてきたら良い気分はしないだろう。このマンションの部屋の設備を基本ユミコ専用としているのは、そういった余計なトラブルを回避するためだった。
今回はたまたま、ユミコが無理を言ってテルアキにシャワーを使わせたからこうなった。以後はもうちょっと気を付けましょう。というところで、ようやくテルアキとは折り合いがつけられた。
「遅くなっちゃいましたし、雨もやみませんから、今日は泊まっていかれます?」
「帰りますよ。ユミコさんは俺の限界でも試してみたいんですか?」
確かにそういう側面も、ちょっとはあった。テルアキがユミコを大事に扱ってくれるのは有難いが、それがどこまでのものなのかは見当がつけられない。誘惑――まではいかなくても、軽い揺さぶりやちょっかいぐらいはかけてみたくなる。
何しろテルアキはユミコに面と向かって、「愛してる」とか言ってくるのだ。その真意が、気にならないはずはなかった。
「テルアキさんが鉄の意志を持っていることは良く判りました」
「約束は守ります。守らせてください。その代わり、九月には良い返事を聞かせてくれると嬉しいです」
六ヶ月経てば、ユミコは決断を迫られることになる。今のところその判断を下す材料に、ネガティブな要因はあまりない。だからといって、ユミコにはテルアキの愛人になりたいと願う程の積極的な理由がある訳でもなかった。
でも仮にそうなったとして――この生活の、何が変わるのだろうか?
その日を境にしてテルアキは突如変貌して、ケダモノのような邪な男にでもなってしまうのか。だとすれば、この六ヶ月間は何なのだろう。お互いのことを知るための期間であるのなら、やはりテルアキはテルアキのままなのではないか。
残された時間の中で、『嫌いではない』が『好き』に変化していけば。
ユミコは、その可能性について想いを馳せた。それは当初考えていたよりも、ずっと楽しそうな毎日だった。
校舎の中に、チャイムの音が鳴り響いている。ケンキチは読んでいた本から目線を持ち上げた。図書室の中を見渡すと、がらんとしていて人の気配がない。鍵をかけて司書の先生に渡して、それで今日の図書委員の仕事はおしまいだった。
高校の図書室は、試験前にはそれなりに混雑して騒々しくなる。本の貸出や返却の作業も、そこそこに発生して面倒だ。ただし今日みたいな何のイベントもない雨の日の午後は、暇で暇でどうしようもないくらいだった。
一応誰も残っていないことを確認するために一声かけて、書架の間を見て回る。さぁー、というホワイトノイズに似た雨音に包まれて、ケンキチは薄暗い本の林の中に足を踏み入れた。紙の束とインクの匂いが、ケンキチの鼻孔をふんわりとくすぐった。知り合いの何人かは、これを嗅ぐとトイレにいきたくなるのだそうだ。そういう奴は、そもそも読書には向いていない。ケンキチはどちらかといえば、身体を動かすよりもじっと静かにしていることを好む性格だった。
廊下に出ると、人影は全く見られなかった。電灯も消されて、無人の校内に取り残されてしまったような印象を受ける。小学校の頃、忘れ物を取りに放課後やってきた時と同じ感覚だ。今日はどこの部活も早めに切り上げたらしい。ケンキチもこんな場所には長居は無用と、昇降口に向かって歩き始めた。
「あれ、テルアキ?」
「やぁ、ケンキチ」
階段の脇にある談話スペースで、一人の男子生徒がぼんやりと窓の外を眺めていた。その男子生徒はケンキチの同級生で、いつもならこんな時間に学校で話すのは珍しい相手だった。古い幼馴染の、内藤テルアキ。保育園、小学校、中学校、高校と、ケンキチとはなかなかの腐れ縁だった。
「どうしたんだよ、こんなところで」
「雨のせいでバイトの予定が崩れちゃってさ。たまにはと思って途方に暮れてた」
テルアキは、ほとんど毎日のようにアルバイトに励んでいた。父親が死んで、テルアキの家庭は母親が一人でテルアキとその弟を養っている。少しでも家計の足しにしてほしいと、テルアキは働いて得たお金を全て家族の生活費に回していた。
確かにたまになら、こんな時間があっても良いと思えた。ケンキチから見ても、テルアキは明らかに余裕がなさすぎた。学校でもほとんど友達を作らないし、部活にも入らず、誰かと遊びにいくことすらもままならなかった。
付き合いが悪い。事情を知らない者からは、そんな評価をくだされてしまっても仕方がない状態だ。担任や学校側は理解を示してくれていたが、それを贔屓として快く思わない手合いもいた。そういった誤解に基づく悪い噂を耳にするたびに、ケンキチやミヨコは胸の痛む思いがした。
「暇が出来たなら、家に帰ったらどうだ? ミヨコだってきてるんだろう?」
高校に入ってからは、ミヨコは毎日テルアキの家に通っていた。掃除や洗濯、食事の支度などありとあらゆる家事の手伝いをしている。テルアキの母親はフルタイムで働きに出なければならないので、とても助かっているということだ。テルアキの弟のヨシヒコも、すっかりミヨコになついていた。
「それがつらいってこともあるんだ。その……ケンキチに悪いなって」
ざぁん、とガラスに雨粒が叩き付けられる。テルアキはケンキチから視線を逸らした。ケンキチは今、どんな顔をしているのだろうか。強張った頬骨を、無理に押し上げようとする。笑えない。笑い方が、どうしても思い出せなかった。
「ごめんな、ケンキチ」
ミヨコと、テルアキと、ケンキチ。三人は保育園時代からの共通の友人だった。テルアキとミヨコの両親は共働きで、ケンキチは母子家庭だ。お迎えの時間はいつも三人が残されて、日が暮れるまで園庭で遊んでいた。
ミヨコは園児たちの中でも、可愛くて人気のある女の子だった。ミヨコと一緒に遊ぶ権利を巡って、男の子の間で取っ組み合いの喧嘩だって起きたことがある。ケンキチもしょっちゅうそれに加わっていた。テルアキはそんな集団とは一歩距離を置いて、一人気ままに遊んでいることが多かった。
同じ保育園の出身ということで、三人はその後も名前で呼び合う関係が続いていた。そうやって小学校、中学校と進んでくれば、自然と相手の本当の気持ちというものは見えてくる。
ケンキチは、ずっとミヨコのことを想い続けていた。ミヨコはケンキチの中では相変わらずのマドンナであり、初恋の人だった。そして肝心のミヨコの側が、ケンキチの方を向いていないと知るまでには、そう時間はかからなかった。
「やめろよ。あやまるなよ」
バレンタインには、ミヨコは必ずケンキチとテルアキの両方にチョコレートをくれた。高々そんなことで望みが繋がっていると考えてしまう自分が、ケンキチは恥ずかしかった。ミヨコが好きなのは、テルアキだ。なんとなく、昔から判っていた。ケンキチはただ、それを認めたくなかった。
テルアキはケンキチにないものを、何でも持っていた。父親だって。兄弟だって。ミヨコがケンキチを選んでくれないのは、それが理由ではないということは重々承知している。それでもケンキチは、自身のコンプレックスを強く刺激された。
多分もう、どう足掻いたところでケンキチには手が届かないのだ。生まれからして、全てが違っている。持つ者と、持たざる者。自分の限界を知って、その中で慎ましやかに生きていくことしか出来ない。
「ミヨコの気持ちに、応えてやるつもりはないのか?」
諦めきっていた矢先に、テルアキの父親は自殺してしまった。勤めていた会社が経営難に陥り、突然倒産を発表した。テルアキの父親は社内でも重要なポストに就いていて、その責任から逃れようとして首を吊った。自室でぶら下がる父親の姿を、テルアキは母親と共に目撃していた。
「……やっぱり、今はそういうのは無理だと思う。俺には、やらなきゃいけないことが多すぎる」
母親と弟を、いなくなった父親に代わって支えていかなければならない。テルアキにとってミヨコは、便利に手助けをしてくれる古い友人でしかなかった。恋愛とか、幸せだとか。そういった自分自身の要求を満たすことに、テルアキは情熱を傾けることが出来なかった。
「ごめんな、ケンキチ。ミヨコにも、本当に悪いと思ってる」
「だからあやまるな。俺がすっげぇ惨めみたいじゃないか」
やっと笑えた。自嘲だ。テルアキがミヨコと上手くいっても、いかなくても――ケンキチにはそれが許せない。ケンキチの想いには、落ち着くべき行き場所なんてない。とっとと忘れて、なかったことにでもしておく方が万人のためだ。
それよりも、友人たちが無事平穏であることを願うべきだった。大きな波のうねりの中にあっても、今のところはまだなんとかなっている。テルアキも、ミヨコも。そしてそれに寄り添うケンキチも。この状態を支えるのに出来ることが何なのかを考えて、実行していかなければならなかった。
「――じゃあお互いに覚悟を決めて、久しぶりにテルアキの家にいこうか」
「昔と違って、何もないぞ?」
かつてテルアキの家に沢山あった漫画本や玩具類は、ほとんど売り払われてしまった。リビングにある大きな水槽も空っぽだ。
「関係ねーよ」
でも、そこにはテルアキがいる。テルアキの母親と、弟のヨシヒコがいる。
そして――ミヨコがいる。
それだけ多くの人たちで満たされているのなら、ケンキチには充分であるように思われた。




