そこをめざして(1)
窓の外では、雨脚が強まっていた。ガラスに叩きつけられるような、激しい嵐だ。ごうごうと逆巻く風の音が強くて、店の中に流れている音楽がほとんど耳に入ってこない。チカは、じっと自分の足元を見つめていた。
喫茶店に入るなんて、初めての経験だった。それも中学生のチカが、たった一人きりでだ。お財布なんて持っていない。濡れてびしょびしょになった制服のポケットには、ハンカチとちり紙と、生徒手帳ぐらいしか入っていなかった。
チカをこの店に招き入れてくれた女の人は、チカにタオルを渡した後でどこかにいってしまった。着替えがどうのとか、車がどうのだとか口にしていた。他に誰もいないお店の中に、チカはぽつんと置き去りにされた格好だった。
――訂正。店長らしきおじさんと、二人だけの状況だ。正直、かなりキツかった。
こんなところに喫茶店があることに、チカは今まで全然気が付いていなかった。ちょっと前には確かクリーニング屋があって、それも潰れて空き家だったのではなかろうか。それが知らない間に、こんな洒落たお店になっていたなんて。
テーブルとか椅子は古めかしいアンティークのように思えて、良く見てみると結構新しいものだった。出来てまだ日が浅い、ということだ。そっと目だけを動かして、カウンターの方を確認する。ぬぼーっとしたエプロン姿のおじさんが、何やらごそごそと手を動かしていた。チカがここにいることについて、妙なことを言われたりはしないだろうか。チカはどんどんと不安になってきた。
「タオル、もう一枚いるか?」
「え、いえ、大丈夫です」
盗み見ているところに突然声をかけられたので、返事がうわずってしまった。恥ずかしい。誤魔化すようにして、チカはタオルで頭をごしごしとこすった。
男の子みたいに短く刈った髪の毛には、もうほとんど水滴は付いていなかった。水を含んだ制服が重いだけだ。ワイシャツがベッタリと肌に貼り付いて、気持ちが悪い。ローファーの中にも水が溜まっていて、動かすたびに、ぎゅぽ、という耳障りな音を立てていた。
「ほれ、これでも飲んで温まりな」
おじさんがカウンターから出てきて、湯気の立ち昇るカップをチカの前に置いた。ミルクたっぷりの、ホットカフェオレだった。ブラックコーヒーは苦すぎて飲めないけど、これならチカでも大丈夫だ。寒くてかじかんだ手を前に出しかけて、チカは慌てて引っ込めた。
「あの、お金がないので」
「いらない、いらない。今日はもう店じまいしてるから、それは商品じゃない。安心して飲んじまいな」
そういうことなら、受け取っておいても良さそうか。「ありがとうございます」と礼を述べて、チカはホットカフェオレを口に含んだ。温かい液体が、食道を流れて胃の中に溜まっていくのが判る。内側から全身に、じんわりと熱が浸透していくのが気持ち良かった。慌てて一息に飲み干そうとして、チカは舌の先を火傷しそうになった。
「あと、これは余りモンだ」
カフェオレに続いて、店長のおじさんはケーキの乗ったお皿をテーブルの上に置いた。白い生クリームの上に、ぴかぴかのイチゴが輝いている。綺麗な三角形の、ショートケーキだ。一目見ただけで口の中に甘さが広がってきて、チカはごくりと唾を飲み込んだ。
「ありがとうございます。でも、あたし――」
――ずきり。
その先の言葉を紡ぐ前に、チカの左膝が痛んだ。ぴくり、と反応して眉をしかめる。ああ、そうだ。どうして忘れてしまっていたのだろうか。
ぎゅうっと、スカートの端を握り潰した。ぽたり、ぽたりと床に水が滴り落ちる。我慢なんて、しなくて良い。しなくて良いから、苦しくなる。忍耐が必要だった時には、こんなこと思いもしなかったのに。
『アスリートなんだから、食べるものには気をつけないと』
「あたし、これを食べてしまったら……もう戻れない気がして……」
顔を濡らしているのは、雨水だけではなかった。チカは雨の降りしきる中に、傘も持たずに飛び出していた。左膝が、追い打ちをかけるようにしてしくしくと痛む。サポーターが取れたのは、つい昨日のことだった。そうすれば、またコートに戻れると信じていた。中学生活の全てを、そしてその先に待つ未来の何もかもを。
チカは、ボールを追いかけることに捧げていた。
――はずだった。
「ごめんなさい。あたし……」
どうしてこんなことになってしまったのか。やるせない気持ちを抱いて、チカはあてもなく外を彷徨っていた。チカの目指す場所には、もう辿り着くことは出来ない。チカがどうなってしまおうが、誰にも、何も関係はなかった。
「ワケあり、なんだろ? 気にするな。俺の周りはそんなんばっかりだ」
一人の女性が、ずぶ濡れになったチカを見つけて、びっくりしてこの店に連れてきた。女性は店長のおじさんのことを、確かケンキチと呼んでいた。タオルを用意させて、チカの身体を拭いて。
最後に、力一杯抱き締めてくれた。
「生きていれば、何か一つくらいは良いことがあるもんだ。そう悲観的になるな。ケーキが食えるのは、悪い未来じゃあないだろう?」
信じてきた唯一の道を絶たれて。
手に入ったのは……イチゴのショートケーキがある生活か。
店長の言い振りが可笑しくて、チカは少しだけ気が楽になった。ただすぐに飲み込んでしまうには、その意見は今のチカには難しすぎた。膝の痛みがある内は、きっと忘れてしまうことなんて到底出来ない。
でも、時が経ってくれれば。
銀のフォークを手に取ると、チカは生クリームをそっとひと掬いした。柔らかくて、滑らかで。もうずっと、チカとは縁がないと思っていた眩しい感覚の数々。
それは甘くて、ほんのりとほろ苦い。チカが生きていく、現実の世界の味がした。
しとしとと、霧のように細い雨が降り続いている。昨日もそうだったし、明日もそうなるという予報だった。ユミコの周りで、季節は梅雨に移行していた。
「――で、この次の文が何を言っているのか判らないんですよ」
「うん、他よりもちょっとだけ長いかもね。落ち着いて、主語と動詞を探してみようか」
喫茶『翡翠の羽』は、短大の試験が近いということもあっていつもよりも盛況だった。とはいっても、わいわいがやがやと人の声で賑わうということはない。みんな一様に、黙々と手元のノートに注意を向けている。飲み物と軽食も頼める、雰囲気の良い自習室という表現の方がしっくりとくる雰囲気だった。
ユミコもチカに請われて、英語の勉強をみてやっていた。ユミコは大学では英米文学科に所属していて、英語系の資格でも高スコアを保持しており、おまけに翻訳のアルバイトまでこなしている。一時期は、進学塾の講師を勤めることも考えていたくらいだ。塾のバイトは割は良かったが、残念ながら拘束される時間に融通が利かずに断念していた。
そんなハイスペックなユミコがせっかく身近にいるのだから、チカにとっては利用しない手はなかった。テルアキ経由で連絡を受けて、ユミコはあっさりとそれを承諾した。『翡翠の羽』には機会があれば通いたいと思っていたし、お互いに願ったり叶ったりの依頼だった。
「チカちゃん、奥のテーブルにサンドイッチ――」
「今はお仕事お休み中です。この和訳、明日までに終わらせないと補習でここにこられなくなっちゃうんで」
ということならば、優先度は決まり切っていた。ケンキチは眉毛を八の字にひん曲げて、何も言わずに料理を運んでいった。ユミコが申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる。チカの成績は、中の下、といったところだった。もうちょっと学力が向上してくれないと、後々面倒なことになってくる。今のうちに地力を上げておこうと、ユミコも頑張って教えなければと気合を入れていた。
「そういえば、テルアキさん最近忙しいみたいなんですよ」
カウンターに戻ってきたケンキチに、ユミコは話しかけた。チカは章末問題でうんうんと唸っている。ここで正解を出せば、今日予定していた分の学習内容は完了だ。チカが仕事を再開出来れば、ケンキチも楽になる。そのためにも、是非とも一発で突破してほしいところだった。
「ん、ああ。ほら、株主総会の時期だからさ」
ケンキチに指摘されるまで、ユミコはそんな事情には考えが及ばなかった。テルアキはいつもマンションの自室に籠って、カチカチとパソコンを操作しているだけが仕事だとばかり思っていたのだが。どうやら、外に出て歩き回る必要もあったらしい。
テルアキがやっているのは、会社の株券の売買だ。所謂、投資家という奴にあたる。企業に対して融資という形でお金を貸して、企業が儲かったら配当金を受け取る。会社の運営がまずければ、貸したお金が全部パァになってしまうことだってない訳ではない。そうならないように、実際の会社の経営状況を知り、質問や文句があれば直接ぶつける機会が定期的に設けられる。大雑把に言えば、それが株主総会だった。
「はぁ、じゃあ、テルアキさんって真面目な株主なんですね」
「一時期は完全に数字だけ追っかけてみたみたいだけどな。今はそれなりに考えて投資してるんだと」
お金儲けの目的で株券を購入している場合、株主総会に出席までする必要はあまりない。テルアキみたいなデイトレーダーならば、尚更だ。モニターの前で数字が上下するのを眺めて、ここぞというタイミングで売ったり買ったりして差額を得る。安くて値が上がりそうな気配を持つ銘柄なら、何でも良い。かつてのテルアキは、そういったゲーム感覚で株取引をおこなっていた。
「生活に困らなくなった、ってのもあるかもな。充分な元本は出来ているから、後は悠悠自適だ」
独り身で身軽なテルアキは、既に一生かけても使いきれない程の資産を所持していた。ユミコどころか、もう二、三人の女子大生がぶら下がってもビクともしない。テルアキ自身はしかし、そこまでお金に執着はなかった。今は自分がやりたいこと、興味があることに対して、手厚く融資をしているとのことだった。
「ウチの店もそうだし、ユミコさんもそうだね」
「ははぁ、私なんて大した物件じゃありませんけど」
この『翡翠の羽』のオーナーは、テルアキだ。最初は権利をケンキチに完全に譲渡しようとしていたのを、ケンキチが頑なに拒んでそうしておいた。店が欲しいのは確かだが、ここはテルアキの店だ。テルアキにはオーナーとして、きっちりと責任を果たしてもらいたい。ケンキチにしてみれば、これはテルアキの大事なリハビリの一環だった。
「ユミコさん、超優良物件じゃん。美人で、勉強も出来て、優しくてさ。テルアキさん、妙なこととかしてこないの?」
がばっ、とチカが顔を上げて訊いてきた。それよりも先に、章末問題を解いてもらいたい。とはいえ、チカはすっかり興味津々という表情だった。ユミコはしょうがないなぁ、と目を細めた。
「何にもないですよ。『そういう約束なんだ』って、テルアキさんが自分でうるさいくらい。テルアキさん、そういうところはとっても紳士で助かってます」
テルアキとユミコの半同棲生活も、いよいよ三ヶ月目に突入していた。ユミコに対するテルアキの態度は、相変わらずだった。二人で過ごす時間自体は、食事を共にするようになってからはだいぶ増えてきている。気楽な雑談も交わせるようになったし、ちょっとぐらいなら踏み込んだ内容の話だって出来た。テルアキの髪を染めた時から、ユミコはまた一歩テルアキの内側に踏み込めた印象だった。
「じゃあ二人の時とかは、何してるの?」
「この前は映画を観ました。古い映画のビデオ配信で、面白そうなのがあったので」
マンションのリビングには、大きな壁掛けテレビが設置されている。ユミコもテルアキも、普段はテレビを観るという習慣がない。すっかり宝の持ち腐れだったので、たまには部屋で映画を観ようという話になった。
「ポップコーンとコーラを準備して、部屋を暗くしたら結構迫力があったんですよね。たまにはああいうのも良いかも」
リビングの大型テレビは、画面の大きさや音響の迫力に関しては映画館に張るものがあった。しかしそれでも、今ひとつ何かが物足りない。具体的にそれが何なのか、ユミコにははっきりとは判らなかった。テルアキも同じ感想を持ったらしく、今度はその要因を確かめに映画館にいってみようという約束をしていた。
「へぇー。あたしの友達なんか彼氏と十分も二人っきりでいたら、確実に襲われるって言ってるけどね。特に電気とか消しちゃったら、瞬殺だよ」
「おい、女子高生」
ケンキチが軽くたしなめたが、チカは全然素知らぬ顔だった。そういうシチュエーションは、ユミコにはとんと理解が及ばない……ということも、実のところはない訳でもなかった。
田舎では極端に娯楽が少ないので、深い雪の覆われた冬の時期になると若い夫婦たちはすぐにそっちの方に励んでしまう。夫婦円満、仲が睦まじくてよろしいことだ。各家庭で無駄に兄弟が多くいるのは、その影響だと言われていた。
ただしそうやって生まれた若者たちのほとんどは、土地に根付かずに村の外に飛び出していってしまう。こればかりは、どうしようもない。農村を襲う過疎化の波だけは、避けようのない時代の潮流だった。
「テルアキさんも若くないからねー。ユミコさんが正式に愛人になっちゃったら、逆に足腰立たなくなるんじゃない?」
「うーん、私、そっちの方にはあまり興味がないからなぁ」
目眩がしてきそうな程の赤裸々な女子トークに、ケンキチは軽い頭痛を覚えた。短大生の客同士も、たまに聞いてる側がドン引きするような話題を口にしていることがある。女子は怖い。ケンキチが昔、会社勤めしている時にも感じたことだが、触らぬ神に祟りなしだった。
「ほら、猥談は後にして、さっさと勉強を終わらせて仕事に戻ってくれ」
「はぁーい」
チカは渋々という様子で、英語のテキストに視線を落とした。そろそろ短大の最後の講義が終わる時間だった。雨の日割引を導入してから、ケーキセットの売り上げは急上昇している。今日も忙しくなりそうだと、ケンキチは雨で煙る窓の外に目を向けた。




