いろとねいろとささめきと(5)
市民ホールの隣には、小さな公園が併設されていた。生い茂った常緑樹の植え込みの影に、ちょっとした遊具がチラホラと見え隠れしている。子供がいれば大喜びなのだろうが、辺りにはほとんど人の姿はなかった。
「中学生ぐらいだと、同い年の男の子はまだ子供っぽいし、身近にいる大人の男性のことを魅力的に感じるんだろうね」
白いベンチの前で、ヨリとセイジは足を止めた。セイジは振り返らずに、じっと立ち尽くしている。ヨリは黙ってその後ろ姿を見つめていた。
「北上さんの気持ちを受け入れてしまうのは、それにつけ込むことだと思っていたんだ」
「……それは、いけないことだったんですか?」
ヨリの問いかけに、セイジはようやくヨリの方に向き直った。何かを口にしようとして、それからぐっと唇を引き結ぶ。ヨリは今日、そんな嘘やでまかせを聞かされるためにここを訪れたのではない。セイジにだってそれは、良く判っているはずだった。
「僕には……勇気がなかった。そう言えば、満足してくれるのかな?」
「そうですね。その方がまだ、しっくりときます」
セイジの気持ちがどこにあったのか。それぐらいのことは、中学生のヨリであっても充分に理解出来ていた。ヨリが相好を崩し、セイジが小さく息を吐く。そんなおままごとみたいな感情なら、ここまで引き摺りはしなかった。セイジの記憶の中には、中学生のヨリの想いが留められている。それがヨリ一人だけから発せられた一方的なものであれば、そうはならなかったはずだ。
「先生は私の通う中学校の新任教師で、吹奏楽部の顧問でした。私は十五歳で、先生は二十五歳。失うものが、あまりにも大きすぎましたよね」
セイジを困らせるつもりはなかった。そこが、ヨリが子供だったところだ。あの時のヨリは感情が先走って、押し止めることが出来なかった。
無理に伝える必要なんて、なかったのだ。時間が経てば、大抵のことは冷めて解決してしまう。ヨリの胸の痛みだって、今よりもずっと落ち着いてくれていただろうに。
高校に入って、彼氏なんて作って。そうやって何人かの男と付き合ううちに、自然と忘れていくものだとヨリは信じていた。キスをして抱き締められれば、何もしていない相手との思い出なんて簡単に上書きされてしまう。セイジには将来、好きなだけ後悔させてやれば良い。いつの日にか、後悔してくれるだろうか。後悔――
後悔……してほしい。
「先生、あの時の私は確かに子供でした。知らないことばかりで、爪先立ちして、背伸びして。でも、これだけは言っておきたいんです」
五年経って、二十歳になって。ヨリは、自分が大人になったとは少しも思えなかった。その証拠に、胸の奥底ではずっと同じ炎が燻り続けていた。何年も何年も。心が病んでいるみたいで、気持ちが悪い。これがあるから、ヨリの本質はいつまで経っても中学生のままだった。
魔法なら、これで解けるだろう。ずっとずっと溜め込んで、澱のように凝り固まった黒い塊。涙と共に吐き出して、空気の中に溶かし込んでしまえ。
身体ばかり大人の、馬鹿みたいに子供じみたヨリ。いい加減に、目を醒ましなさい。
「先生、好きでした。あの時の私の――十五歳の私の本気を、ちゃんと覚えていてください」
ざざざ、と風が吹き抜けて木立が揺れた。急に、世界に音が帰ってきた。ホールで次に演奏する楽団の練習の音。近くの幹線道路を車が走り抜ける音。鳩の群れが一斉に飛び立つ音。ヨリの全身から、かけられていた魔法が消え去っていく。夕暮れの教室の中から、ヨリはようやく開放された。
「北上……ありがとう」
セイジはその言葉を絞り出すと、痣が残りそうなほどに力を込めて自分の二の腕を強く握った。その薬指で、銀色の光が煌めいている。さっきからヨリがずっと見ないようにしていた、セイジの選択の証だ。その事実を知らされていたからこそ、ヨリはずっとセイジと話をすることを避けてきた。
高校に入って、あれほど熱心だったクラリネットをやめてしまった理由。家族や友人には、ただなんとなく、とだけ伝えてあった。本当は、楽器を見るだけで胸の奥が痛んだからだ。中学の教室で、二人きりで過ごしたあの時間。その全てを合算しても、丸一日、二十四時間にも満たない束の間の逢瀬だった。
「先生、私、綺麗になりましたか?」
セイジの人生を壊すまでには至らなかったけれど。
「ああ、僕の想像以上だ」
ヨリの手は、確実にセイジの心に届いていた。
「後悔、してますか?」
「してるよ。僕は愚かだった。もっと馬鹿だったら、良かったのにね」
それが上辺だけの言葉だと判っていても、ヨリは幸せだった。セイジはきちんと、ヨリの欲しいものを与えてくれた。とても素敵な先生だ。ヨリはくすり、と笑みをこぼすと、踵を返して歩き始めた。
「そういうこと言っちゃ、ダメですよ。ちゃんと奥さんのこと、大事にしてあげてください」
楽団で知り合った女性、なのだそうだ。ヨリとは違って、健康的でサバサバとした印象の人だった。セイジはなかなかにストライクゾーンが広い。それならば、もうちょっと強く押していたならば可能性はあったのかもしれなかったか。
「先生」
そんな妄想ももう、ここで終わり。長い長い恋だった。ヨリの気持ちは、やっと消えていくことが出来る。辛かったね。苦しかったね。でも。
――最後まで大好きでいられて、良かったね。
「遅れましたが、ご結婚、おめでとうございます」
ユミコがマンションに帰ってきたのは、いつもよりも数時間も遅い時刻だった。
「ただいま、です。すいません、お待たせしてしまって」
「いや、構わないよ。俺が待ちたかったんだ」
ここのところ、ユミコはテルアキと毎日夕食を共にしていた。最近では、一緒にいない方が不自然にすらなりつつある。それというのも、テルアキの普段からの食に対する関心に問題があるからだった。
テルアキはユミコが見ていないところでは、三度の食事に対してあまりにもずぼらだった。放っておくと、どんな食生活を送ってしまうのか見当もつかない。ケンキチの店で食べてくれるのならとにかく、インスタント食品やアルコールの類は年齢的にも控えるべきだ。
台所を預かった以上、ユミコはなるべくテルアキの栄養事情を管理しておきたかった。せっかくこんなに立派なキッチンがあって、お金にだって困っていないのに。テルアキはとにかく、興味の方向性が何かと偏っていた。これなら高級なお店で、立派なランチなりディナーなりを頬張ってくれていた方がまだマシだった。
「プレゼミとやらは、無事に終わったのかい?」
「お陰様で。ご迷惑をおかけいたしました」
杜若女子大学では月に一度二年生向けに、三年生から始まるゼミに備えてプレゼミという講義を開催していた。三年生のゼミに混じって、二年生たちがプレゼンを聴いたりディスカッションに参加したりする。土曜日の午後に、次期ゼミ生のために設けられた特別な時間だ。ユミコもお目当ての教授が担当するプレゼミに参加して、情報集めをしたり顔を売ったりしてきたところだった。
「晩御飯、特に何も準備は必要ないって連絡してくれてましたけど……」
「ケンキチのところで作ってもらってきたんだ。今温めるよ」
それなら、先に食べ始めてくれていても良かったのに。テルアキはいそいそとキッチンの方に消えていった。そんなに楽しみにしていたのか。ユミコはやれやれと肩の力を抜いた。このおじさんは、妙なところで子供っぽい。ユミコもお腹が空いていたので、部屋に戻って服を着替えるとすぐにダイニングに向かった。
食卓の上に並んでいたのは、ピラフと野菜類の炒め物だった。『翡翠の羽』のランチメニューと、多分食材の余り物を使ったあり合わせだ。上品に表現すれば、シェフの気まぐれなんとか。美味しく頂けるのであれば、何も文句はない。贅沢は常に敵だ。テルアキのマンションにいても、ユミコの東京暮らしの基本方針には変更はなかった。
ケンキチの作った料理は、見た目に反して実に良く出来ていた。ユミコなんて足元にも及ばない。飲食店を営んでいるのだから当然なのかもしれないが、こういったジャンク料理でも敗北してしまうとは。ユミコはちょっと悔しかった。
テルアキに、このお店のモーニングよりも喜んでもらえるものを出さなければ。対抗意識から俄然やる気が湧いて出てきて、めらめらと燃え上がる。そんなユミコの内心などは露知らず、テルアキはのほほんとピラフを口に運んでいた。
「ユミコさん……その、何かしてほしいこととかはありませんか?」
「はぁ、今以上に、ですか?」
思ったよりも大量だった夕食を半分以上平らげたところで、テルアキが唐突にそんな質問をしてきた。ユミコはテルアキから、住む場所と、食べ物と、ついでにお小遣いまで提供されている。この上、何をお世話になれば良いのだろうか。ユミコが首を傾げたので、テルアキは言葉を選びながらしどろもどろに補足説明をし始めた。
『お金以外で、ユミコのためになることをしたい』
平たく言えば、そんなところだった。お金に関することならば、テルアキの財力があれば余程の無茶でなければあっさりと解決が可能だった。しかしそんなやり方では、ユミコを満足させることは出来ないだろう。そう思ってテルアキがケンキチに相談していたところ、バイトのチカにバッサリと切り捨てられたのだそうだ。
「そんなのオジサン二人がどんなに悩んだって、答えが出る訳ないでしょ。勘違いでおかしなことをしでかす前に、直接本人に訊いた方が絶対に早いです」
そりゃあそうだ。ユミコは「うんうん」とうなずいて納得した。どれだけテルアキと食卓を囲んでも、ユミコに対してそこまでの理解が及ぶことなんて到底あり得そうにない。テルアキの言葉を信じるのならば、こうやって女性をマンションに囲うこと自体が初めてなのだ。スマートに、そして格好良くユミコをエスコートしてくれるというのなら、それはそれで見てみたい気もするが。
そんなことよりも、ユミコはもっとテルアキの自然な姿を晒してほしかった。
「お金以外ですよね……じゃあ、一つだけあるんですけど」
「言ってみてください。可能な限り、努力させてもらいます」
「うーん、テルアキさんが了承さえしてくれれば、そんなに難しい話じゃないんですよ」
にやり、とユミコの口許が邪悪にほころんだ。これはひょっとして……千載一遇のチャンスなのではないか?
今までに見たことのないユミコの表情に、テルアキはぞくり、と背筋に悪寒が走るのを感じた。あれ、ユミコさんって、こんな人だったっけ?
「テルアキさん、髪を染めましょう!」
テルアキの全身が、凍り付いたみたいに固まった。お金なんて、大して必要ない。毛染め、黒のヘアカラーが一本あれば充分だ。そしてそれは、実は既にユミコの方で購入済みだった。すっかり準備万端、後は実践するだけの状態だ。
「ユ、ユミコさん、ちょっと待ってください。俺、そこまで白髪じゃないですよね?」
「黒が濃くて、印象が強めなんですよね。なので、どうしても白髪の存在が目立ってしまうというか」
ユミコは、ずっと気になっていた。テルアキは整髪料を好まないらしく、頭髪はいつも自然な仕上がりになっている。短めにしてあるし、不潔だとはこれっぽっちも思わないのだが――いかんせん白い部分につい、目線がいってしまう。
「黒くした方が若く見えますよ。少なくとも、五歳は若返ります。私の保証付きです」
「いや、そんなことを言って、今の今までせっかくハゲないできているんだ。妙な刺激を与えて、そのせいで頭皮が荒れて抜け毛が始まってしまったらどうするんだ」
テルアキの抵抗は、想像以上のものだった。なるほど、髪をいじらないのは禿るのを恐れてのことなのか。テルアキぐらいの年齢になると、人によってはもう頭頂部まで完全にアウトの者もいる。気にしていないようで、そんなデリケートな一面もあったのか。テルアキが激しい反応を返せば返すほど、ユミコは楽しくなってきた。
「もしそうなったら責任を取って、テルアキさんのものになってあげます。それでどうですか?」
「今更だけど、ユミコさんの価値判断基準は色々とおかしい!」
ユミコのことをお金で釣ったテルアキが、何をかいわんやらだ。愛人になってやるとまで言っているのだから、これはもう覚悟を決めてもらうしかなかった。女子大生一人分の価値と、頭皮のダメージを天秤にかけること自体が大間違いだ。
「お、お手柔らかに」
結局、テルアキが折れることになった。ユミコは満足そうに大きくうなずくと、早速浴室でテルアキの髪を染める準備を開始した。デザートのプリンを食べながら、テルアキは名残惜しそうに携帯のインカメラで白髪交じりの頭を眺めていた。
ベッドの上で目を覚ますと、もう朝だった。昨夜は家に帰ってきて、すぐに寝床に潜り込んでしまった。ご飯も食べていないし、お風呂にも入っていない。化粧だって落としてないから、もうぐしゃぐしゃだ。
携帯の画面を覗き込むと、ユミコからメッセージが届いていた。そう言えば、プレゼミがあったのにサボってしまったのだった。仕方のないこととはいえ、ユミコには心配をかけさせてしまったか。ヨリはロック画面を解除すると、タイムラインを確認した。
『ヨリ、大丈夫? 明日は大学これる?』
やっぱり、ユミコはヨリのことを案じてくれていた。あのお嬢様は、本当にお人好しだ。人のことより、自分の状況をどうにかする方が先だろうに。指でなぞってスクロールさせると、写真が添付されていた。何だろうかと目を凝らして。
ヨリは、思わず「ぶはっ」と噴き出した。
『テルアキさん、格好良くない?』
そこには不機嫌を隠そうともせずに全開でぶうたれた顔をしたテルアキが、ユミコと並んで写っていた。その髪の毛が、墨汁で染めたみたいに真っ黒になっている。確かに若く見えるようになった、とは思うが。それでも一緒に歩いていて親子に間違われるのが、せいぜい親戚のおじさんになったくらいのレベルだった。
隣にいるユミコが得意げなのがまた、ヨリの笑いを誘った。一体どんなドタバタを経て、こんな写真を撮るまでに至ったのか。テルアキはこの写真をヨリに送られることを、ちゃんと事前に承認したのだろうか。本当に、この二人は――
「お似合いだよ」
涙が溢れたのは、きっと笑いすぎたから。こんな表情、見たことなかったな。羨ましくて、ちょっと悔しい。机の上に伏せられた卓上カレンダーに、カーテンの隙間から朝の光が射し込んでいた。
第3章 いろとねいろとささめきと -了-




