いろとねいろとささめきと(4)
短大の講義がある日は、喫茶『翡翠の羽』はケーキのある限りにおいては満員御礼の状態だった。本日のケーキ、紅茶のシフォンも大好評のうちに品切れとなった。戦場のように壮絶なランチタイムが終わり、後には比較的穏やかな空気が訪れる。来店する客たちの中には、このジャズの流れるゆったりとした雰囲気を求める者も少なからずいた。
「よう、今日は一人なんだな」
カウンターの端っこに座ったテルアキに向かって、ケンキチはにやにやとしながら声をかけた。テーブル席では、一人静かにノートを広げている短大生がいる。邪魔をしてしまわないように、会話のボリュームはやや抑えめでなければならなかった。
「ユミコさんはプレゼミとやらで、帰りが遅くなるんだそうだ。ケンキチのところにも顔を出さないと心配されるからって、無理矢理追い出された感じだよ」
ユミコと朝食を摂るようになる前は、テルアキは『翡翠の羽』でモーニングを食べるのが日課になっていた。それが今では、ほとんど毎日のようにユミコと一緒にマンションで食事を済ませてしまう。ユミコはテルアキの習慣を自分のせいで潰してしまったのではないかと、だいぶ気に病んでいる様子だった。
テルアキは『翡翠の羽』のオーナーでもあるのだし、古い友人であるケンキチには定期的に顔を見せておくべきだ。友達や付き合いのある人は、大事にしておかないと。ユミコはテルアキに対して、真剣な口調でそう説教してきた。
「へぇ、随分とお前のことを気にかけてくれてるみたいじゃないか」
「まあね」
ユミコがそう言うのならと、テルアキは黙ってそれに従っておくことにした。内心ではケンキチの店やその周辺事項については、ケンキチ自身が一人でなんとか出来ると思っている。それに今はユミコの近くにいる方が、テルアキにとってはずっと重要だと判断していた。
しかしだからといって、そんなことでユミコと口論をするのは馬鹿げていた。そして何より、どうせユミコの帰りが遅いことには変わりはない。であるのならば、テルアキはそんな自己主張には一円の価値も見出せなかった。
「ユミコさんは、育ちが良いんだろうね。真面目で、しっかりしてて。一緒にいるとこっちが恥ずかしくなってくる」
テルアキは熱いコーヒーを一口啜ると、カウンターに突っ伏して肺の中身をごっそりと吐き出した。
「愛人の話か? 何だか知らんが、無茶なことをしてるな」
その辺りの事情に関しては、ケンキチも気になっているところだった。
あのテルアキが、女子大生を自分のマンションに住まわせていると言い出した。それも、自身の愛人候補生としてだ。期限を設けてあるとはいえ、テルアキはユミコに対してそれを条件として明示している。そんな馬鹿げた要求を飲んだユミコも大概だが。そもそもそれを最初に口にしたテルアキの方も、ユミコに負けていないくらいにとんでもなかった。
テルアキは、何もない男だった。
ケンキチが知る限り、ここ数年のテルアキは空っぽの毎日を送っていた。家具すらも満足に足りていない広い家に独りで住んで、じっとパソコンの前に座っているだけの生活だ。『翡翠の羽』の話を振ったのは、テルアキに少しでも他のことに興味を持ってほしいと思ったからだ。そうしたら、想像以上の額の融資が飛び出してきてケンキチは目が点になった。「他に使うことなんて、何もないから」というのがテルアキの述べた理由だった。
『翡翠の羽』が営業を始めると、今度は自宅とそこの往復をするのがテルアキの日課になった。これでも、以前に比べれば大きな進歩だった。次はもっと、社会との接点が持てるようになると良い。「仕事部屋として、こことは離れた場所に事務所でも借りてみてたらどうかな?」そう助言したのもケンキチだった。
観光とか、映画を観ることを勧めたのもケンキチだ。テルアキには、人として様々なものが欠落していると感じられた。少年時代からあまりにも色々なことがありすぎて、目一杯に張り詰めて。それが切れた時に、バラバラに砕けてしまった。今はとにかくその破片を一つ一つ積み上げ直して、もう一度心の形を造っていかないといけない。
そう思っていた矢先の、ユミコだった。
「ユミコさんは、素敵な人だよ。本当なら、俺がこんな風に扱ってしまってはいけない人なんだと思う」
ユミコは確かに、見知らぬ中年男性に愛人として囲われるような女性には見えなかった。確固とした自分の意思を持っているし、聞いた話では実家は地元ではそれなりの名士であるらしかった。それがいくつかの紆余曲折と偶然を経て、東京で住む場所に困ってテルアキのマンションに転がり込んできた。
六ヶ月間までは、テルアキはユミコに無償でマンションに住まうことを許可した。もしその期間を超えて滞在を続けるのなら――ユミコは完全に、テルアキのものになるという約束だった。
「四十を過ぎたおじさんが、ユミコさんみたいな女の子の気を引くには……お金ぐらいしか頼れるものがなかったんだ」
テルアキがユミコの中に何を見出したのか、ケンキチには判らなかった。ユミコは美人だし、男性として惹かれるという点は理解が出来る。ただテルアキにとってユミコは単純に魅力的というだけではなく、他に替えの効かない、たった一人の存在である様子だった。
「俺はどんな手を使ってでも、ユミコさんが欲しかった。ユミコさんという人間を壊さないまま、自分の傍に置いておきたい。可能な限り、永遠にね」
それがいかに邪で、歪な想いであるのか。テルアキは、自覚を持っているつもりだった。人を好きになる方法ですら、忘れてしまったのか。以前テルアキはケンキチにそうこぼして、自嘲していたこともあった。
「猶予期間ってのは、テルアキ自身のための安全措置でもある訳か」
「俺がユミコさんを、ユミコさんでなくしてしまっては意味がないからな」
「お前も変なところで生真面目だよ」
捻くれてはいても、それはそれで愛情なのか。少なくとも、今のテルアキにはユミコをどうこうしようとする意図はない。それならばユミコの方でテルアキを拒絶しない限りにおいては、様子見ということで構わないのかもしれなかった。ユミコには申し訳がないが、テルアキの気が済むようにさせてもらえればケンキチには有り難かった。
「そこでケンキチ、折り入って相談があるんだが……お金以外のことでユミコさんに喜んでもらおうとしたら、どうすれば良いのかな?」
「はぁ?」
テルアキがずいっと身を乗り出してきて、ケンキチは思わず仰け反ってしまった。こいつ、眼が本気だ。四十代のおっさんが、二十歳の女子大生のご機嫌を取る方法について、真剣に悩んでいる。これはもう、どう解釈したところでアウトだ。普通にキモい。
「ケンキチは結婚だってしてるんだから、俺よりはそういう経験があるんじゃないのか?」
「いや、それはそうだけどさ。ウチのはそういうのじゃないって、テルアキも知ってるだろうが」
テルアキは矢鱈と早口になって、まくしたててきた。必死だ。いや、その気持ちは判らなくもないが。冷静になって考えてみれば、『大の大人が女子大生に気に入られようとムキになっている』状態でしかない。まずは落ち着こう。話はそれからだ。ケンキチはテルアキを押し留めて制しようとした。
「そういうのって、どういうのですか?」
突然後ろからツッコまれて、ケンキチとテルアキはそろってその場で飛び上がった。ドアベルの音に気付かないほど、話に集中しすぎていたとは。恐る恐る声のした方に目を向けると――
「お客さんもいるのに、お店で怪しげな悪巧みはしないでください。奥さんに言いつけますよ」
そろそろ学校が終わって、アルバイトの時間だ。そこには学校指定のボストンバックを肩にかけたチカが、腕組みをして鬼の形相でふんぞり返っていた。
夕日が、朱い。茜色の空。教室の床で、黒い影が向き合っている。シンヤのトランペットが耳障りだ。時折グラウンドにいる野球部が、金属バットで気持ち良くノックを放つ音が聞こえる、学校の雑音。それが隅々にまで行き渡っている。
ヨリはクラリネットを、ぎゅうっと強く握り締めた。手の汗と熱が伝わって、たわんでしまったように感じられた。木管楽器は湿度や温度に弱い。それなのに、ヨリにはもうどうすることも出来そうになかった。
「北上さん、練習を――」
「誤魔化さないでください!」
三年生として、最後に吹く演奏が迫っていた。セイジの精力的な指導が実って、吹奏楽部は確実に持ち直し始めていた。部員たちも増えてきたし、パート練習も賑やかになってきている。そんな中で、ヨリはわがままを言って一人での練習を続けていた。
それは当然、セイジとの大切な時間が失われてしまうからだ。ヨリはセイジのためにクラリネットを吹いていた。二人きりでいられる、たった十分間。セイジがヨリだけを見て、ヨリの音だけを聞いて、ヨリの言葉だけに耳を傾けてくれる。
中学二年生でセイジに出会ってから、それがヨリの学校生活の全てだった。
「好きです、滝沢先生。私、先生のことが、好きなんです」
苦しかった。伝えないで終わってしまうことも出来たかもしれない。黙っていれば、一年も経たずに卒業だ。それまでずっと、身体の奥底に閉じ込めておけたのなら、それは果たして幸せなことだったのだろうか。
ヨリなんて、沢山いる生徒たちの中の一人でしかなかった。セイジにとっては未熟な教え子で、まだまだ子供で――
恋人になんて、絶対にしてくれないって判り切っているのに。
それでも、心が死んでしまうのであれば同じことだ。ヨリはこの想いを言葉にしなければ、胸が押し潰されてしまいそうだった。
「北上さん」
セイジは近くの椅子を引き寄せると、うつむいたヨリのすぐ前に置いて腰を下ろした。サンダルの名前のところに、『滝沢』の文字が見える。それを書いたのは、ヨリだった。
去年、まだセイジが着任したばかりの頃。「真っ白だと誰のだか判らないよー」と言って、マジックで勝手にセイジの名を書いた。そんなことが、たまらなく嬉しかった。
「先生……私、子供ですか?」
告白して、セイジを困らせて。良いことなんて何もないのに、自己満足のためにこうしてセイジを独り占めにしようとしている。演奏だって大事だ。十分間という限られた指導の時間は、有効に使わなければならない。
今回の楽曲では、ヨリのクラリネットが重要なパートとなっていた。それが判っているから、単独で練習したいというヨリの無理な要求だって飲んでもらえたのだ。
それは決して、セイジとの関係が認められたからなんかじゃない。そんなことは、ちゃんと判っているのに。
「そうだね、北上は子供だ。中学生で、僕の教え子で、感情ばかり先走って、すぐに周りのことが見えなくなってしまう」
言いすぎだ。むっとして顔を上げると、セイジは優しく微笑んでいた。ずるい。ヨリがこんなに辛いのに、セイジは笑っていられる。大人の余裕で、ヨリの気持ちなんて簡単にいなされて。
それで――おしまい。
「判ってほしい。北上の気持ちを受け入れるというのは、僕の立場上あってはならないことなんだ。僕は大人だから、沢山の事情がある」
ふわり、と大きな掌がヨリの頭に乗せられた。ファゴットのキーを、滑らかに手繰るあの指だ。ヨリの心臓が、激しく波打った。
「ごめんね。僕の方からは何も言えない。言ってはならない。だけど、北上の気持ちは嬉しい。本当に、ありがとう」
ヨリは我慢出来なくなって、泣いた。セイジのシャツに顔を埋めた。誰かがその声を聞きつけて、この場に飛び込んできたって構わない。いっそのこと全部知られて、噂にでも何でもなってしまえば良いんだ。
セイジがそっと、ヨリの背中を撫でてくれた。強く抱いてくれることはなくても、それで充分だった。パート練習指導の、半分以上の時間はそうしていた。
結局、教室ではずっと二人きりだった。セイジはヨリをそっと抱きかかえると、保健室にまで運んでくれた。ご褒美にしては、あまりにも恥ずかしすぎる。ヨリは赤面して、セイジのシャツにぎゅうっとしがみついていた。
セイジは保健の先生に、ヨリが貧血を起こしたらしいと説明した。まるっきりの嘘ではない。ヨリはそのままベッドに寝かされて、両親に連絡がされることになった。それを待っている間に、もう少しだけセイジと話をする時間が作れたのが嬉しかった。
「北上に好かれて、僕は幸せだと思っているよ。でも判ってほしい、その気持ちが本気であればあるほど、僕にはそれに応えることが出来ないんだ」
セイジはヨリの言葉を、真正面から受け止めてくれた。大人ぶった上から目線で、否定から入ったりなんかしない。授業の時も、部活の指導でもそうだった。セイジはいつでも、こうやって真剣に向き合ってくれる。ヨリはそんなセイジのことが好きだった。
「北上はきっと、美人になる。そうだな……後五年もして二十歳になったら、僕が今日のことを後悔するくらいにはなるんじゃないかな」
「後悔?」
セイジはうなずいた。その時のセイジの表情を、ヨリは一生忘れないと思った。幼い掌が、届くはずのない遠くの男性の心の琴線に触れた瞬間。甘い私語。
「人生の全てを投げ出してでも、あの時、北上を選ぶべきだったって」
その後、ヨリはセイジと二人の時間を過ごすことはなかった。三年生は部活を引退して、高校受験に備えて音楽の授業も最小限に減らされてしまった。卒業式で後輩たちが演奏する曲に送られて、ヨリは中学の校舎を後にした。
卒業生一同として、セイジには花束を送った。ヨリはその大勢の中に紛れて、特に目立とうとはしなかった。
そんなことをする必要はない。ヨリはもう、セイジにとっての特別だ。この気持ちは、全部預けてしまっていた。
いつかまた――ヨリが大人になった時。ヨリは改めて、セイジの前に現れる。それまでは、そっと箱にしまって閉じ込めておこう。おやすみ、ヨリの大事な思い出。




