いろとねいろとささめきと(3)
トランペットの音色が聞こえた。確か隣の校舎の、一番端っこの教室で練習しているはずなのに。トランペット担当のシンヤは、肺活量と勢いだけは余りまくっている。音程とかそういうのは二の次だ。
ヨリは楽譜を広げると、クラリネットのリードを咥え直した。あの猪突猛進な金管を支えるのは、木管の役割だ。今練習している楽曲は、どちらかといえばヨリたち木管楽器が主役だった。人数だって少ないし、手抜きをすればあいつら金管に荒らされて演奏はガタガタになってしまう。
中学生になって、ヨリは吹奏楽部に入部した。ヨリ自身は、そこまで音楽に興味があった訳ではない。友達に誘われて仕方なく、という奴だ。で、当の友達はとっくに部活を辞めてしまっていた。ここまでテンプレート通りだと、いっそ清々しくて笑えてくるくらいだ。
吹奏楽部の部員数は、現時点で八人だった。歴代で最も少ない人数なのだそうだ。それでも個々の部員たちの腕が立つなら、文句はなかった。世の中には十人にも満たない編成で、コンクール金賞を獲った驚くべき学校だって存在する。
ヨリたちの演奏技術に関しては……この改造バイクのクラクションにすら遠く及ばない、ド下手くそなトランペットの絶叫からして推して知るべしだった。
去年ヨリが一年生だった頃、退任間近の音楽教師が不必要に気合を入れすぎたのが、ことの発端だった。ボランティアできてくれていたコーチがそのやり方に反発し、部員たちもついていけないとボイコットを開始した。そして気が付いた時には、合奏どころかアンサンブルと呼ぶことすらもおこがましい非常事態に陥る惨状となった。
ヨリたちをそんな泥沼に引きずり込んでおきながら、音楽教師のババァは定年退職でいなくなってしまった。一度辞めてしまった部員たちは、次の部活に入っていて簡単には抜けられそうにない。
詰みだ。これはもう何もかもを諦めて部員全員がトランペットに転向し、運動会の表彰式で得賞歌だけ吹いていれば良い。部全体が、そんな絶望感に包み込まれていた矢先の出来事だった。
「北上さん、お待たせしました」
教室の入口に、ブラウンのスーツ姿の男性が立った。慌てて、ヨリは背筋を伸ばす。窓から差し込む西日が、誰もいない廊下の先にまで二人の影を長く伸ばしていた。
「先生、第七楽章吹けるようになったんです。聞いてみてくれますか?」
「それは素晴らしいですね。是非聞かせてください」
大きく息を吸い込んで、管体に空気を通していく。落ち着いて。確実にキーを押さえて、音程を整える。中ぐらいの速さ。連符を意識して。スラーを繋げて。溜めて溜めて、もうちょっと我慢して、ここで息継ぎ。
クラリネットの音色は優しい。トランペットやトロンボーンは、合奏では確かに主役で花形だろう。しかしヨリはキンキンとした硬質な音を響かせる金管よりも、断然木管の方が好きだった。
中でもフルートやサックスではなく、オーボエやクラリネットが良かった。色は黒くて地味だけど、この音がなければオーケストラは機能しない。それに、クラリネットは名前だけはよく知っていた。「オーパッキャラマード」壊れて出ない音があったら大変だ。何しろクラリネットはとても高価な楽器だった。
最後まで演奏し切ったところで、ヨリはぶはぁ、と大きく息を吐いた。静かに、格好良く決めたかったのに。心臓がバクバクしていて、耐えることが出来なかった。ミスをしなかったのが奇跡みたいだ。荒い呼吸で上下するヨリの肩に、大きな掌が乗せられた。
「よく頑張りました」
すぐ近くに、穏やかな垂れ目がある。ああ、これダメな奴だ。ヨリはそのまま呼吸困難でぶっ倒れそうになるのを、必死になって堪えた。
――部活、辞めないで良かった。
この春から新任の音楽教師としてやってきた滝沢セイジは、吹奏楽部の顧問も受け持つことになった。音大を出たばかりの若い男性教員に、女子生徒たちどころか女性教員までもが色めき立った。そのセイジを、ほんの僅かな時間でもこうやって独り占め出来る。パート練習指導のこの十分間が、ヨリには何にも勝る至福の時だった。
「先生は、何の楽器が得意なんですか?」
「恥ずかしいんですが、最初にやっていたのはファゴットという楽器なんです。あまり有名ではないでしょう?」
セイジは第一印象から、不思議な人だった。ヨリもファゴットという楽器の名前には馴染みがなかったので、後で携帯で調べてみた。大きな、縦笛のオバケみたいな画像が出てきてびっくりした。細身のセイジがこれを抱えて演奏している姿を想像してみると、妙にセクシーな感じがしてヨリは困ってしまった。
崩壊寸前の吹奏楽部が八人にまで復活出来たのは、セイジのお陰だった。若いイケメンが教えてくれるとなれば、釣られてホイホイと入ってくる新入生はそれなりにいる。後は体育会のノリに近い過酷な吹奏楽部の体質に、どれだけ耐えられるかがネックだった。
優男みたいな見た目に反して、セイジは厳しい指導をおこなった。実質的に機能していなかった吹奏楽部を立ち上げ直すのだから、甘いことなんか言っている余裕はない。部員の半分くらいは一ヶ月ももたずにドロップアウトして、それでも八人は食らいついてきた。残されたのは、誰もが見込みのある少数精鋭……だったならば、ドラマみたいで面白かったのだろうが。
世の中には下手の横好きとか、根性だけは一人前とか。そういった個性を持つ人間だって、沢山存在している。特にトランペッターのシンヤはその両方の属性を併せ持つ、どうしようもない手合いだった。
尤も、かく言うヨリの方だって、そんなに他人のことをどうのこうの評価出来るほどの技量は持ち合わせていなかった。まともな練習をしていた期間なんて、ほぼゼロに等しい。セイジは根気良く吹奏楽部員たちを指導して、どうにか一つの曲を合奏出来るレベルにまで押し上げた。それだけでも、申し分のない成果だった。
「譜面をなぞる、という点に於いては及第点です。次はこの曲の持つ意図を掴んで、感情を込めた演奏をするように心がけてみましょう」
「はい、先生」
セイジはなかなか妥協しない人だったが、上手く出来ると優しく褒めてくれた。それが嬉しくて、ヨリは毎日熱心に練習に励んだ。部活にばかり入れ込んでいるヨリのことを、セイジに好かれるためなのだと揶揄する声もあったが。ヨリは少しも気にならなかった。
だって――全くもってその通りなのだから。
すらりと背が高くて、いつも真剣に演奏に耳を傾けて。話す言葉も的確で、ヨリたち吹奏楽部員をあるべき方向に導いてくれる先生。セイジはヨリがこれまでに出会った男性の中で、一番大人っぽくて、一番素敵な人だった。
初めてのパート練習は、正直どんなことを言われるのか判らなくてビクビクしていた。ヨリはいつも、音圧で負けてしまう。金管たちが無遠慮に爆音を奏でるので、気後れして更に小さくなる。曲の最後の方は、毎回自分でも演奏しているのかどうかすら判らなくなってしまうくらいだった。
セイジはまずヨリの演奏を聞いて、それからこう述べた。
「北上さんのクラリネットは充分に丁寧です。全体のバランスから言うと、無理に前面に出ようとしないで、周りの主役たちを支えてあげるような演奏の方が良いかもしれませんね。そういった音だって、合奏の中では必要なものなんですよ」
ぽろり、と目から鱗が落ちる音を聞いた気がした。今まではみんなで張り合って、いかに大きく鳴らすかを競い合っていた。それは前任の音楽教師の、「中学生は元気な演奏が一番」という方針に従ったものだった。
誰かの音を、支える音。そんなこと、ヨリは考えたこともなかった。この先生は、音楽を知っている。ヨリの知らないことを、教えてくれる。恋に落ちるのなんて、一瞬の出来事だった。
「先生は、恋人とかはいないんですか?」
「仕事が忙しすぎますからね。彼女がいたとしても、きっと放っておいて振られてしまいます」
担任を持っていなくても、新任の教師にはやることがいっぱいある。それに加えて、吹奏楽部のためにセイジは休日も返上して学校にやってきていた。ヨリはセイジに会う機会が増えるので、忙しいのはむしろ大歓迎だった。
今日はここまで出来るようになろう。褒めてもらえるように、しっかりと練習しておこう。ヨリのクラリネットは、みるみるうちに上達していった。ソロパートだって、物怖じせずに吹いてみせた。
何もかもは、セイジのためだった。
小さな市民ホールの客席は、ほとんど人が座っていなかった。別段有名でもないアマチュアの演奏会なんて、こんなものだった。わざわざやってきておいて、携帯の画面ばかり覗き込んでいる人がいたりもする。中にはガサガサと騒々しい音を立てて、あれこれとカバンの中身を漁る輩までいるのだから始末に終えない。
ここは音楽を聴く場所だ。だったら最初からこないでほしい。良く晴れたうららかな土曜日の夕方という時間帯では、やることのない暇人ぐらいしかいないのか。ヨリはふぅ、と溜め息を吐いた。
ステージの上では、二十人強ほどの小規模な吹奏楽団が演奏を披露していた。ヨリのお目当ては、すぐに判った。ファゴットなんて珍しい。高価なため、アマチュアでは個人で所有している人はほとんどいない。レンタルで借りてきて都合をつけるのが常なのだそうだ。
きらきらと煌めく、真っ赤な小塔。激しさはなくても、ずっしりとした優雅な低音が腹の底に響いてくる。中学の時、何回か聞かせてもらったことがあった。あの頃と比べて、変化はあるのだろうか。
ヨリは目を閉じた。瞼の裏では、セイジが情熱的にファゴットを吹き鳴らしていた。中学生のヨリが、じっとその姿に見入っている。滑らかな指の動き。陽気に、そして、くつろいで。
パラパラとまばらな拍手の音が響いた。知らない間に、演奏は終わっていた。ヨリが聞いていたのは、記憶の中のファゴットか、それともアマチュア吹奏楽団のものだったか。
どちらでも同じことだった。ヨリも掌を打ち鳴らした。ずっと、本当に長い間心の奥に封印していた密やかな音色。ふとヨリが目線を落とすと、綺麗にネイルされた自分の指先が視界に飛び込んできた。
――こんな手じゃ、もうクラリネットは吹けないな。
高校に入ってしばらくして、楽器は辞めてしまった。後悔なんてなかった。ずっと、そうだと信じてきた。
演者たちが、舞台の袖に退場していく。ヨリは静かに席を立つと、いびきをかいて眠りこけている他の客の横を抜けてホールの外に出ていった。
中途半端なこのホールには、控室なんて上等なものは用意されていなかった。演奏を終えたら、ロビーでがやがやと撤収の準備をしている。ヨリは大きく息を吸い込むと、覚悟を決めてその集団の中に突入していった。
「先生、滝沢先生!」
偶然……なんて装えるはずもなかった。中学を卒業してからも、セイジが参加しているこの吹奏楽団のことはチェックしていた。我ながら暗いな、とは思っている。とはいえ、なかなかやめるきっかけが掴めなかったのだ。
今日は、だから……これを機に全てに決着をつける。そうしなければ、ヨリは次の一歩が踏み出せないままだった。
「北上……さん? ああ、北上さんか!」
相変わらず細くて華奢で、ファゴットみたいな手足だ。朗らかな笑顔には、無精髭のアクセントが増えている。これくらいワイルドな方が素敵だな。ヨリはニッコリと笑みを返してみせた。
「お久しぶりです。すぐに判ってくれましたか?」
「そりゃあもう。あ、いや、すごく美人になっていて、若干戸惑ってしまったよ」
見え透いた社交辞令だ。でもヨリは、セイジのその言葉を額面通り素直に受け取っておくことにした。今日はこの時のために、可能な限りのおしゃれをしてきたつもりだった。
いつもの派手めな色合いは押さえて、ユミコのセンスに近い感覚だ。化粧もさり気なく、ナチュラルメイクでしっとりと。年上の男性というのは、どうにもこういうコーデに弱いらしい。テルアキとかいうオジサンなら、これでイチコロなのだそうだ。
「先生のファゴット、とても懐かしかったです」
「なんだか恥ずかしいな。いつまでも変わり映えしなくてね」
セイジは他人に厳しくて、自分にはもっと厳しい人だった。こんな技量では、音楽だけで食べていくことは難しい。妥協を許さないその姿勢のせいで、セイジはプロの演奏家になる道を選べなかった。
ヨリと出会えたのは、そのお陰だともいえた。教職の資格を取っていたこともあって、セイジは音楽教師の職に就くことになった。吹奏楽部の顧問になれたのも、セイジにとっては願ったり叶ったりの境遇であった。
ほとんど初心者ばかりの中学生たちに演奏を指導していると、セイジは不意に自分の中にまだ演奏家としての欲求が残されていることに気付かされた。それを満たすために入ったのが、アマチュアの吹奏楽団だ。ヨリが中学に在学していた当時から、セイジはそこでファゴットを吹いていると語っていた。
「――先生、この後少しだけ、お時間良いですか?」
楽器類をワゴン車に積み込んで、楽団のメンバーたちは解散を始めていた。まだ陽は高い。演奏の打ち上げは、夜になってから改めて集合するとのことだった。
「北上、それは――」
ヨリの表情を見て、セイジはその後に続く言葉を飲み込んだ。ヨリはここで、全てを精算してしまうつもりだった。次なんて、ない。これが最初で、最後。ヨリの強い意志を感じ取って、セイジは小さくうなずいた。
「じゃあ……歩こうか」
五年前に無理矢理に止めてしまった気持ちが、そっと息を吹き返し始めた。セイジの後ろに、ヨリは黙って従った。それはあの時には見送ることしか出来なかった、憧れの背中だった。




