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愛人契約はじめました  作者: NES
第3章 いろとねいろとささめきと
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いろとねいろとささめきと(2)

「ただいまー」


 玄関のドアをくぐると、どっと疲れが込み上げてきた。今日は色々とありすぎだった。出来るならこの後は、何事もなくつつましやかに一日を終えてしまいたい。家の外ならとにかく、中にいる間くらいはヨリはのんびりとしていたかった。


「おかえりー」


 母親が奥のキッチンから返事をしてきた。ヨリは家族と共に、実家で暮らしている。杜若かきつばた女子大学までは、電車に乗って四十分強という立地にあった。もう少し便利であってくれると助かったが、遠すぎて話にならないというほどでもない。一人で暮らすことの諸々(もろもろ)の苦労を思うと、ヨリは現状が一番だとの結論に達していた。


「うわぁ、ねぇちゃん」

「うわって何だよ、黙ってろよ」


 リビングで寝っ転がって漫画を読んでいた弟を、ヨリはじろりと睨み付けた。問題があるとすれば、この汗臭い生意気物体の存在か。薄汚れたデカいボストンバッグが、テーブルのすぐ横にぶん投げられて放置されている。何故自分の部屋に持ち帰るという習慣を身に着けられないのか。

 「邪魔!」と吐き捨てるように言い放つと、ヨリは弟のバッグを蹴り飛ばした。全く、何回同じことを繰り返せば学習出来るんだ。サルめ。


「ひっでぇ、おい、何すんだよ」

「母さん、手紙来てなかった? ユミコ宛のやつ」

「今日はなかったわよ」


 人語を介さない動物と、会話による意思の疎通をこころみても無駄だった。実力行使で、直接身体に教え込んでいくしかない。日本語に似た音を口から発しているが、あれはそういう鳴き声なので惑わされないように注意が必要だ。霊長類オトウト科、極めてヒトに似た外見を持つ、凶暴な野生動物である。


「ユミコちゃん、彼氏と上手くやってるの?」

「今日、相手とも話してきた。まあ、それなりかな」

「ねぇちゃんには一生ありえない話だな」


 体罰。罰刺激を与えることで、それが口にしてはいけないたぐいの音声であったことを教えてやる。この動物は実に扱いが難しい。「いってぇ」とか何とか一声吠えると、弟は生意気にも血走った物凄い目線で凄んできた。何よ。余計なことを言うあんたが悪いんでしょうが。


 家族に対して、ヨリはユミコのことをある程度の情報に絞って伝えてあった。何もかもを作り話にしておくと、これではふとした拍子にあっさりとバレてしまう。上手に嘘をくためのコツは、九割の真実の中に一割のいつわりを混ぜ込んでおくことだった。


 ユミコは実家と折り合いが悪く、東京での生活であまり心配をかけさせたり、干渉されたくないと思っている。これは本当。

 実家のたくらみもあって、三月までで今住んでいるアパートを退去しなければならなくなってしまった。これも本当。

 ユミコには東京に彼氏がいて、ユミコは現在その彼氏のところで一時的にお世話になっている。これが、一部だけ嘘。


 こうやって伝えておくことによって、ヨリは自分の家でユミコを預かっているという口裏合わせを、家族ぐるみでおこなえるようにしていた。ユミコがどんなに家族を嫌っているとしても、万が一の事態が起きた際に実家との連絡が取れないのはやはりまずい。そういった場合の責任をヨリが一人で背負わされるというのは、土台無茶な話だった。

 ヨリ一人で出来ることには、どう考えても限りがある。それなら最初から家族全員を巻き込んでしまう方が、何かと都合が良い。母親はヨリの頼みを、すんなりと受け入れてくれた。テレビとか映画で観る、ドラマチックな展開が大好物なのだ。こういう時には、物分かりが良くて非常に助かる母親だった。


「家を飛び出して彼氏と同棲生活とか、青春って感じよね」


 相手が同世代なら、ヨリもそう思えたかもしれないが。現実はもうちょっとヘビィだ。二十歳はたちの女の子と、四十代のおじさん。世間一般の常識に照らしてみれば、随分と体面のよろしくない組み合わせだった。


「もうすぐお父さん帰ってくるから、ご飯にしましょう」


 母親が、鼻歌交じりに夕食の準備をしている。弟はヨリが完全に無視を決め込んでいるので、ぶつくさと何事かを呟きながら再び漫画に集中し始めた。ここにいると生意気生物が存在するせいで、不用意に血圧が上がってしまいそうだ。ヨリは「はぁい」と返事をして、自分の部屋に引っ込んでいった。



 夕飯の食卓を囲みながら、ヨリはじぃっと父親を観察してみた。銀縁のダサい眼鏡に、額から頭頂部にかけて禿ハゲが侵食してテカテカに光っている。ちぢれた白髪に、顔に浮き出た染み。年齢は、いくつだったか。まだ五十歳にはなっていないはずだ。だとすると、テルアキとは数歳しか違わないのか。

 『これ』と付き合えるか、と訊かれればヨリは即答で『ノー』だった。父親じゃなければ、同じ屋根の下にいると思うだけでゾッとする。男とかそれ以前に、生理的に受け付けられないレベルだ。日常の生活を送る上で、半径一メートル以内には近付かないでもらいたい。

 テルアキはまあ、それに比べればだいぶマシな部類だった。髪には若干白いものが混じってはいたが、そこ以外は普通の男性であると感じられる。テルアキはヨリにあれこれと責め立てられながらも、激昂も狼狽もせず、終始落ち着いた受け答えに徹していた。悔しいが、見た目と同様に中身の方も大人だった。ユミコの気持ちがそちらに傾き始めているのも、解らなくもない。


 ヨリの隣では、生意気生物ががつがつと大きな茶碗で白米をかき込んでいた。こいつももう、高校生になったのだった。男子というのは、どうにも子供すぎてダメだ。騒いで暴れて食って寝る。こんなのが、いつになったら人間に進化して大人の男性になるのだろうか。生まれた時から、実は別な種族なんじゃなかろうかとも思う。霊長類ダンスィと霊長類ヒト科。あながちなくはないな、とヨリは一人うなずいた。


 好きになるなら、年上の男性。その気持ちは、ヨリにも理解出来ていた。ばたばたとうるさくて乱暴なのより、物静かで、しっかりとリードしてくれる方が好ましい。今日は目の前で、テルアキによるユミコへの丁寧な対応を見せつけられてしまったから尚更だ。あのオジサンは、もっと単純な助平スケベ心でユミコに接近したとばかり思っていたのに。


『ユミコさんのことを、愛しているからです』


 テルアキは恥ずかしげもなく、そして真剣な表情でそう言い切ってきた。ユミコに接する態度や、視線にも不自然なところは見受けられなかった。年相応な部分と、初めての彼女に浮かれる子供みたいな側面と。その両方が混在して、不思議な雰囲気をかもし出していた。


 もしかしたら、それが正解なのかもしれなかった。テルアキは人を好きになることがないままに、大人にまでなってしまって。そこで、初めて恋に落ちた相手がユミコだったとか。


 ――馬鹿馬鹿しい。ヨリはその妄想を振り払った。いくらなんでも、それはりすぎだ。確かなのは、ヨリが想像していたよりは、テルアキは真面目にユミコのことを気に入っていた。そこは男女のことだから、間違いが起きない可能性はゼロではないかもしれない。だが一先ひとまずユミコは、飢えたオオカミの群れのど真ん中で呑気のんきに昼寝している状態、とまではいかなそうだった。


 ばぶぅっ!


「ちょ、お父さん、食事中にやめてください」

「くっさ! ヤバイ、親父マジ死ね!」

「なんだよ、しょうがないだろー」


 サイアクだ。そういえばヨリの父親にはこういうところがあったのだった。時と場所と場合(TPO)とか一切の考えなしに、屁を放つ。屁をするために生まれてきた、屁っこき装置マシーン。その上口臭もひどいし、全身から妙に酸っぱい加齢臭はするしで、臭いの諸悪の根源だ。満員電車とかで同じ車両に乗り合わせた人には、同情を禁じ得ない。これはもはや、殺傷能力さえ備えた人間兵器だといえた。


 おじさんと付き合えば、嫌でもこういった現実が突き付けられる。食欲を失くして、ヨリは無言で席を立った。食卓では、家族たちがまだぎゃんぎゃんと口論を続けていた。




 ヨリは生まれた時からこの家に住んでいる。引っ越しとか転校とか、そういったイベントとは無縁だった。今寝っ転がっているベッドだって、二十年近く連れ添った相棒だ。部屋の中は何度か模様替えを敢行しているが、収納には大量の過去の遺物が押し込まれていた。

 弟もうるさいし、ヨリも当初は大学に入ったら一人暮らしをしてみたいと考えていた。いつまでも親元にいるのは格好悪いし、もっと自由な生活を送ってみたいという欲求もある。ただ、家賃だの光熱費だのの金銭的な問題や、掃除洗濯に自炊といった家事全般を自分でこなさなければならないといった点がネックだった。


「まー、そういうのは必要にかられれば意外となんとかなるものだよ?」


 電話の向こうで、ユミコがお気楽に応えた。背後からは、かちゃかちゃというキーボードの打鍵音がかすかに聞こえている。恐らく、今日の講義で出されたレポートの課題だ。ヨリの方は、様々な事情によってまだそれに手を付ける気分にはなれなかった。そうそう、その最たる原因について尋ねようと思っていたのだ。


「それより、臭いの話」

「ああ、テルアキさんね。確かにあんまりくさいと近くにいるだけで困っちゃうよね」


 ユミコによると、テルアキは体臭に関しては人一倍気を遣っているらしいとのことだった。食事の後には、必ずミント系のガムとかダブレットを口にする。お風呂やシャワーは毎日欠かさないみたいで、着ている服も毎日違っていてパリッとアイロンがかけられていた。


「オナラなんかね、必ずトイレにいってやるんだよ」

「そうなの?」


 マンションで一緒にいる時、テルアキは「失礼」と一言断ってから消臭スプレーを持ってトイレの個室に入ることがある。水を流して音を消して、しっかりウォシュレットでお尻まで洗っている様子だった。その徹底した対応ぶりに、ユミコは真剣に「いっそのこと音姫でも搭載してしまえば良いのに」と考えていた。


「あと、こっちの部屋にきて、たまに汚れ物とかが出るでしょ? そういうのって、全部ビニール袋に入れて持って帰るの。マンションの洗濯機は、私専用のものだからって」


 大した徹底ぶりだった。そこまでいくと、逆に偏執的であるとも思える。ユミコの方も、別に潔癖症とかそういうことは全然ない。田舎の実家にいた頃は、家族の出した大量の洗濯物を一人でさばいていた時期もあったくらいだった。


「多分テルアキさん、嫌われたくなくて必死なのかもしれない。私としては、もうちょっと自然にしてくれていた方が嬉しいんだけどね」


 生きるというのは、それだけで綺麗事ではない。食事をすれば、栄養分を吸い終えた残りかすが身体の外に排出される。毎日普通に生活していれば汗もかくし、髪も抜けるし。あかやらフケやら、とにかく色々だ。

 汚いものを殊更ことさらに強調する必要はなくても、ある程度であればそれは『当たり前』の事実だった。変に隠そうとしなくても、ユミコはそんな理由でテルアキのことをさげずんだりするつもりはない。テルアキもユミコも同じ生きている人間なのだし、お互い様のことだ。


 いやむしろ――愛人になるというからには、もっとオープンな関係であるべきではなかろうか。


「そういうのは、六ヶ月後にまとめてくるんでしょ。ギャップがすごいよ、きっと」

「うーん、それは嫌だなぁ。今度テルアキさんに訊いてみよう」


 冗談めかした言葉ではあるが、これは恐らく本当にそういった話をしてしまう可能性が大だった。あっけらかんとそんな質問が出来るくらいには、ユミコはテルアキと打ち解け始めている。ヨリにはそれが心配だった。


「ユミコはテルアキさんのこと、どう思ってるの?」

「どうって……うーん、難しいなぁ」


『好きじゃない』


 すぐにそう答えられないのなら、充分に危険水域だった。二十歳以上も年下の女子大生に、ここまで入れ込むなんて尋常じゃない。いくらお金を持っているからといって、半年間も無償でマンションに住まわせたりするだろうか。おまけに、今日見せたあの表情。テルアキがユミコに対して何を望んでいるのか、ヨリには今ひとつ理解が及ばなかった。


「恋愛感情までは、いっていないかな。親愛に近い、というか。優しいし、良くしてもらってるし。『頼れるおじさま』ってイメージ」


 『あしながおじさん』に例えてしまうのは、いささか不謹慎か。確か『あしながおじさん』は本人の前には姿を現さないし、見返りも要求したりはしなかった。

 テルアキは自分が善意の存在であることは、自ら否定してきた。これも言い方は悪いが、ユミコに対する『先行投資』なのだろう。将来においてユミコを愛人として迎えるために、売れるうちに恩を高く押し付けておく。いかに口では「気にしなくて良い」と言っていても、人間の心があるなら普通は恩義を感じるに決っている。そこに付け込んで、美味しくいただくという寸法だ。


「テルアキさんの場合、善意はなくても――悪意の方もあんまり感じられないんだよね」


 テルアキに悪意があったとすれば、今頃ユミコはヨリを相手にこんなに元気一杯でざっくばらんな会話など出来ているはずがなかった。泳がせておくにしても、もっと他のやり方があるに違いない。犯罪的な行為が絡んでいると仮定すると、ヨリの目にもテルアキにはすきがありすぎた。


「一生懸命好きになってもらおうって、そんな気持ちならばっちり伝わってくるよ。だから、嫌いにはなれない。ヨリには悪いけど」


 ユミコの判断は正しい。テルアキと実際に話してみて、ヨリもそう思えるようにはなっていた。


 ただ、テルアキの中にはまだ何かが隠されている。それを見せないままに、ユミコを自らのそばに置こうとしているのではないか。もやもやとした正体不明のもどかしさが、ヨリの心をざわつかせていた。


 根拠なんて何もない。『勘』と呼ぶにしても、あまりにもぼんやりとしていてはっきりとしない。

 ヨリはちらり、と机の方に視線を向けた。卓上カレンダーには、蛍光ペンで印がつけられている。あの人は、どうだっただろうか――



 携帯の通話を切った後も、ヨリはじっとその日付を見つめ続けていた。


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