いろとねいろとささめきと(1)
玄関に上がると、ひどく懐かしい感覚に見舞われた。テルアキの家の匂いだ。それはどんなに長い年月を経ても、拭い去れるものではない。ケンキチが子供の頃に遊びにきた時の印象、そのまんまだった。
「何もないんだ」
テルアキのその言葉は、謙遜ではなかった。備え付けの靴箱以外に、目につく物は見当たらない。過去にケンキチが訪れた際の記憶では、いつでも花瓶にその季節の鮮やかな花が飾られていた。廊下の隅には父親のものと思しきゴルフバックが、無造作に置かれていたのを覚えている。それはもう、昔の話だ。今のがらんとした家の中には、およそ生活感らしきものはまるで存在していなかった。
『いらっしゃい、ケンキチくん。テルアキったら部屋に籠って出てこないのよ。クッキーがあるからって、呼んできてくれる?』
ケンキチがやってくると、テルアキの母親はいつもそうやって優しく声をかけてくれた。廊下を進むと、リビングが見える。そこに置かれていた大きな水槽には、色とりどりの熱帯魚が泳いでいた。「こいつらがいるから、猫は飼えないんだ」テルアキがそう言って笑ったのを覚えている。ネオンテトラの青い煌めきを、ケンキチはとても羨ましく思ったものだった。
その水槽も、当然のように存在しなくなっていた。がらんとしたリビングには、家具の類は一切置かれていない。真新しい絨毯の上を歩くと、ケンキチの足の形に窪みが出来た。ぱっと見た感じでは、綺麗にリフォームされた明るい普通の木造住宅にしか見えないのに。
なまじ、過去の光景を知ってしまっているからか。ケンキチにはこの場所が、ひどく寂しいものに思えて仕方がなかった。
「ほとんど使われていなかったから、汚れも痛みも少なくてね」
テルアキと弟のヨシヒコは両親を亡くした後、親族の許に引き取られていった。残された家は、借家として貸し出されることになった。ケンキチは以前に何度か、見知らぬ家族がここに出入りする姿を目撃したことがある。ただ、それも気が付いたらいなくなってしまっていた。
人が二人も死んだ家だ。なかなか借り手も付かず、取り壊すことも何度か検討された。しかしこの辺りは大きな都市開発からは取り残されており、跡地の利用についてもそれほど良い条件がそろわなかった。そうなると更地にする工事費用の方が高くついてしまうため、結局は現状のまま放置されるという状態が続いていた。
そのテルアキの生家を、つい先日買い取ったのは――テルアキ本人だった。
「築四十年以上ともなると、リフォームよりも建て替えた方が安く上がりそうだったんだが、それは忍びなくてね」
テルアキの気持ちが、ケンキチには痛いほど理解出来た。この家はテルアキの思い出が詰まった、唯一の場所だ。テルアキの父親と、母親。弟のヨシヒコ。ここにはかつて、あんなに賑やかで、幸せに包まれた家族が住んでいた。
この場所にテルアキが帰ってきたことを認識して、ケンキチの中でも止まっていた時間がようやく動き出し始めた。あの葬式の夜、ミヨコの手の感触と共に失われていた沢山の感情。あれからもう、何年経ったのだろうか。ケンキチはテルアキを追って、ダイニングの方に足を踏み入れた。
「ヨシヒコくんは?」
「ヨチコは、そこだ。父さんと母さんに、ようやく会わせてあげることが出来た」
リビングの隅に置かれた仏壇に、小さな位牌が三基並べられていた。ケンキチはそちらに向き直ると、その前に正座して厳かに手を合わせた。写真立ての中で、テルアキの家族が微笑んでいる。ほのかな線香の匂いが、ケンキチの鼻腔をくすぐってきた。
『ケンキチさん、お兄ちゃんがまだ俺のことをヨチコって呼ぶんだ。やめるように言ってくれない?』
テルアキがこの家を買い戻したのは、これをするためだった。父と母、そして弟を、最後にみんなで暮らしていた家に連れて帰りたい。もっと早くにやっておくべきだったのに、テルアキはずっとあてのない旅に出てしまっていた。
無理もない話だった。テルアキはありとあらゆるものに意義を見失って、この世界の全てから逃げ出していた。どこにいても、何をしても満たされない。行き場のない激しい衝動だけが、果てしなく突き上げてくる。あんなに欲しかったお金は、不要になった途端湯水のように湧いてきた。貯めるのも、使うのも馬鹿馬鹿しい。テルアキの荒んだ生活は、十年以上にも及んだ。
きっかけがなんだったのか。テルアキ自身、「良く覚えていない」とケンキチに語った。このまま死んでいなくなってしまう前に、一度家族そろってあの家に帰りたい。テルアキは内藤家の長男で、今となってはそれが実行出来る最後の人間だった。
「後はもう、何も決めていない。父さんにも、母さんにも、ヨチコにも――俺に出来ることは、何もない」
ダイニングの椅子に深く腰掛けて、テルアキはうなだれた。数日前に、ケンキチは偶然昔住んでいたこの辺りを歩く機会があった。色々な個人的な事情によって現在の仕事を辞めて、これから何をしていこうかと考えていたところだった。
そこで、テルアキがこの家に戻っていることを知った。
ミヨコに連絡がつくのなら、何をおいても一番に報せたかった。テルアキの消息について、ミヨコは当時誰よりも知りたがったはずだった。だが残念なことに、ケンキチはテルアキの母の葬式の後、ミヨコとはまともに言葉を交わす機会すらなかった。ミヨコの家はみんな引っ越してしまっていて、行き先はケンキチの母親にも判らないらしい。これではミヨコが今頃どこで何をしているのか、ケンキチには検討をつけることですら覚束なかった。
「ケンキチ、俺はこれから、どうしたら良いと思う?」
ぎしり、とテルアキの座る木製の椅子が軋みを上げた。テルアキの視線が、古い柱に注がれている。水平につけられたいくつもの傷跡は、丈比べの後だ。テルアキと、ヨシヒコ。それは今のテルアキの、胸の高さぐらいの位置で止まっていた。
これが、あのテルアキなのか。ケンキチは、戦慄を覚えた。恵まれた家族に、豊かな生活。それに、ミヨコの気持ちまで。ケンキチにない全てを持っていた、かつての憧れの男の姿だ。
いい気味だ。
ざまあみろ。
――そんな負の感情は、微塵も湧いてこなかった。
あるのは、怒りだけだ。それが何に対しての感情なのか、ケンキチには判らなかった。ただ、息が詰まるほどに憤っていた。ケンキチは奥歯を噛み締めると、テルアキの方に歩み寄った。
「テルアキ、しっかりしろ」
テルアキには、幸せであってほしかった。ケンキチにとってテルアキは、手の届かない豊かさの象徴だった。どんな時でもケンキチよりも数歩先にいて、それでいて驕らずに対等であろうとしてくれる。テルアキはケンキチの大切な……友達だった。
「ケンキチ……助けてくれ……」
そんな弱音を、テルアキの口からは聞きたくなかった。テルアキが人前で泣くのを、ケンキチは初めて目の当たりにした。両親の葬儀でも見せなかった、テルアキの涙。
自分に出来ることは、なんだろうか。テルアキの小さな背中を見下ろしながら、ケンキチは必死になって考えを巡らせていた。
この辺りでは珍しくもない、シアトル系のオープンカフェだ。大型商業施設の中にあるので、テーブルのすぐ横を買い物客たちが通り過ぎていく。ノートパソコンを開いて難しい顔をしている若いビジネスマンや、ルーズリーフを広げて課題に没頭している大学生。おしゃべりに花を咲かせている女子高生と、利用者の年齢層は全体的に若者が中心となっている。
この光景を最初に見た時、ユミコは感動したものだった。都会といえば、カフェ。リンゴのマークが付いた白くて細いパソコンで、何だか判らないけど優雅に仕事をこなしている。魔法の呪文みたいな長い名前の飲み物を頼むと、クリームやら何やらがてんこ盛りになった物体が運ばれてくる。
……いや、いくらユミコが田舎者ではあっても、そこまで時代錯誤なイメージを抱いてなんかはいなかった。田舎にだって、情報ぐらいは普通に流れてくる。街まで出かければ無線《WiFi》だって通じるし、キャラメルマキアートフラペチーノだって売っていた。
肝心なのは、それが当たり前の世界に自分が身を置いているという事実だった。そんなものは日常で、珍しくないどころかもはや過去の遺物になりつつある。東京は特に時間の流れが激しかった。ひどい時には先週の流行りが、もう時代遅れだったりもする。ここでは刻一刻と、ユミコの知らない何かが次から次へと生まれ続けていた。
この目まぐるしく変化を続ける怪物のような都市を、ユミコはカフェのテラス席から眺めているのが好きだった。ユミコの育った、時間の流れが完全に停止してしまった静止画みたいな田園風景とは違う。成長と進化の先端とは、こういうものだ。行き交う人々の流れを見ているだけで、ユミコには世界がぐんぐんと次の世代へと伸びていく様を目の当たりにしているような気分になれた。
「……で、ユミコには何もしていないって言い張るんですか?」
「ユミコさん本人からも聞いた通りですよ。俺はちゃんと約束は守ります」
「どうだか」
「まいったな」とテルアキは本気で困った様子で頭を掻いた。ユミコの隣では、ヨリがまだ憤懣やる方ないという表情で腕を組んでいる。カフェの隅っこにあるこの四人がけの席は、きっと周囲からはとんでもない修羅場の真っ最中だと思われていることだろう。
当たらずとも遠からず、といったところか。ユミコがテルアキのマンションで暮らし始めて二ヶ月が経過し、ついにヨリの我慢が限界に達してしまった。ユミコを囲っている、そのテルアキとかいうオッサンを問い質してやらなければ気が済まない。ヨリには色々と普段から世話になっていることもあり、それを断ることは難しそうだった。ユミコはテルアキに無理を言って、この話し合いの席を設けてもらったのだが。
「大体、お金のこととかで弱みにつけ込んで女の子を引っ掛けるって根性が気に食いません」
「それは、自分でもそうは思う。でもそれでユミコさんの生活を助けられたんだから、そこはポジティブにも捉えられるんじゃないかなと」
「結果論、です!」
ヨリに吠えられて、テルアキはしゅんと縮こまった。ヨリとはどうにも相性が悪いらしい。さっきから何を言っても、一発でやり込められている。テルアキは実際ユミコに対しては相当に便宜を図ってくれているので、そこまで怒られてしまうのは少々可哀想だった。
「まあまあ、ヨリ。今のところテルアキさんには、とっても助けてもらっているんだから。大目に見てあげてよ」
「そうやって簡単にほだされて……いい? こんなオッサンに好き勝手に身体中いじくり回されるようなことになったら、オシマイなんだよ?」
「そうならないための猶予期間なので――」
「あんたは黙ってなさい!」
取り付く島もない。ユミコはテルアキに向かって、ヨリにばれないようにそっと掌を合わせてみせた。テルアキの方も、ユミコにしか判らない目配せの合図を返してくる。事情は理解してもらっているとはいえ、テルアキにはとんだ災難となってしまった。
ヨリが今日、これだけ怒っているのにも理由がある。恐らくはテルアキに会ったら言ってやろうと思っていた鬱憤が、顔を合わせた段階で一息に噴出してしまったのだ。
実は住んでいたアパートが取り壊されてからこっち――ユミコはヨリの家でお世話になっているという建前になっていた。
その原因が自分たちにあるということはすっかり棚に上げて、ユミコの両親はユミコの東京での生活拠点が失われたことを大変気にかけていた。三月の頭くらいには休むことなくひっきりなしに携帯に着信が入ってきて、ノイローゼになりかけたくらいだ。ユミコが四十代中年男性の管理するマンションの部屋に住むなんて判断をしてしまった理由の中には、そういった無意味なプレッシャーの影響という事情も多分に含まれているに違いなかった。
それはさておき、ユミコはテルアキのマンションに引っ越すことを決めたは良いが――実家に対してそれをどう説明するかについて悩んでいた。
『親切なおじさんに、住む場所もご飯もお金もお世話してもらうことになりました』
馬鹿正直にそんな報告をしてしまえば、その日のうちに警察沙汰になること請け合いだった。ユミコもそこまで阿呆ではない。テルアキはそれなりに信頼出来る人物だと判断していたし、ある程度の不慮の事態までは自己責任だと考えていた。それにテルアキは、自分には下心があると素直に認めている。それなら目的は『お楽しみ』にあるのであって、最悪でも即座に命を奪われることはないだろうという目算はあった。
結果的に、テルアキはユミコのことをとても丁重に取り扱ってくれていた。六ヶ月の間は何もしないし、好きにしてくれても良いという約束だ。この生活を続けていっても大丈夫そうだと思ったところで、ユミコは唯一ユミコの事情を知るヨリに相談を持ち掛けた。
『ヨリの家で、お世話になっているってことにしておいてくれないかなぁ』
ぶったまげたのはヨリの方だった。ユミコがテルアキのマンションに、一時的であっても転がり込んだというだけでもショックだったのに。ユミコはすっかりそこに居ついてしまおうとしている。六ヶ月なんて、長いように思えてあっという間だ。これではヨリは、テルアキの不埒な行為に加担しているみたいではないか。ヨリに言わせれば、ユミコは何でも良いから一日でも早く新しいアパートを探し出して、引っ越してしまうべきだった。
「ユミコ、こいつはね、あんたを丸々と太らせてから美味しくいただこうっていうとんでもない下種野郎だよ?」
「食べさせてもらっているのは確かだし、味見ぐらいはさせてあげても良いかなぁって」
「冗談でもやめなさい!」
ばん、とヨリが激しくテーブルを叩いた。一瞬、店にいる全員の視線が集中してくるのが感じられた。ユミコにしてみれば、テルアキはそこまで極悪人ではないし、六ヶ月を超えた場合の件についても実は視野に入れている。ただそれを口にすると、事態が今以上に混迷を極めてしまいそうなので沈黙を保っておくことにした、
「恩を売っているという自覚は持っている。それが善意のみではないとも開示しているんだ。だからこそ、約束は守る。それで納得してくれないか?」
テルアキが、真剣な顔で身を乗り出してきた。ヨリに散々責められても、そこだけは譲るつもりはないらしい。こうやって必死になって求められるというのは、ユミコには正直まんざらでもなかった。これでテルアキが後十年若かったら、ヨリだってきっと何の文句もなかったのではなかろうか。
「おじさんって、それだけで損だなぁ」とユミコはぼんやりと考えた。
「なんでそんなにユミコにこだわるんですか?」
汚物でも見るようなヨリの視線を、テルアキは正面から受け止めた。あ、これは何か恥ずかしいことを言われる空気だ。それは判ったが、だからといってユミコにはどうすることも出来なかった。きっと真っ赤になってうつむいて、だらだらと嫌な汗を流すことになるに違いない。
ユミコのその予想は――恐ろしくも残酷なまでに的中することになった。
「ユミコさんのことを、愛しているからです。俺はユミコさんを、俺だけのものにしたい。歪んでいるかもしれないけど、それが俺の偽らざる本心です」




