いままでとこれから(5)
この辺りでは、車がないと生活が成り立たない。自動車の運転免許は、高校に通っている間に取得しておくのが常識だった。それがなくても、原付の免許ぐらいは持っていて当たり前だ。田舎道をぶらぶらと長時間かけて歩いたって、良いことなんて何一つありはしない。
ヒロキも例外ではなかった。十八になった時点で免許を交付してもらい、家の手伝いで軽トラを右に左にと走らせている。今日は珍しく、母親が普段遣いしている赤い軽のバンだった。
「……ありがとう」
何もない在来線の駅前で、ユミコは助手席から降りた。意地を張っても仕方がないと、ヒロキの申し出を受けておいて正解だった。路線バスでは、上手く時間が合わないところだ。
ほとんど人気のないロータリーを、ユミコはヒロキと並んで歩いた。ユミコのトランクを、ヒロキは何も言わずに運んでくれている。お礼を述べるべきかどうか逡巡して、ユミコは結局そのまま黙々と足を運び続けた。
「後、十分くらいかな」
「うん。それでもう、こことはお別れ」
改札には駅員の姿はなかった。それどころか、駅舎の中には人っ子一人見当たらない。ICカードの読み取り装置が、ぽつんと立てられているだけだ。見送り目的なら、ホームまで入り込むのは自由だった。
ユミコはベンチには座らずに、線路のすぐ近くにまで進み出た。二本の錆び付いたレールが、この世界の果てにまで繋がっている。ユミコが顔をあげると、古びた木製の屋根の向こうから、どんよりと曇った鈍色の空が重くのしかかってきていた。
死に物狂いで勉強した成果か、ユミコは見事に杜若女子大学に合格した。受かってしまいさえすれば、両親の説得はぐんと難易度が下がった。学費についても、奨学金が取れることになったのは大きい。ここまで包囲を固めてしまえば、勝利しない方がどうかしているという状況だった。
両親からは、これだけはという最後の条件が提示されてきた。親族の管理するアパートで暮らす、というものだ。現地に一度見にいって、ユミコはすぐにそれが嫌がらせであると悟った。
舐められている。ボロ屋で何年も暮らすなど、ユミコみたいなお嬢様には耐えられないだろうという判断だ。だったらやってやろうじゃないかと、ユミコもムキになってその苦行を受け入れた。
荷物は先日、まとめて引っ越し屋に預けておいた。今日の夕方に、新居の方で受け取る手筈になっている。向こうに持っていくのは、中くらいのダンボールで四箱程度だ。未練なんて、何もない。後はユミコ自身がここからいなくなって、全てをイチから始めていけば良いだけだった。
「なぁ、やっぱりいくのか?」
ヒロキの声は、暗く沈んでいた。その話はもう何度もしたし、結果は決まって平行線だった。ヒロキはここで、農家として生きていくことしか考えていない。それはユミコが、最も避けたいと思っている未来だった。
婚約者だなんだと、一方的な理由を両親から押し付けられて。そこにはユミコの意思なんて、一ミリ足りとも介在していない。ヒロキがどんなに言葉を弄したとしても、ユミコの心はもはや微動だにする気配もなかった。
陸の波止場を思わせるホームの周りには、畑と田んぼばかりが広がっていた。ユミコはここで、十八年の歳月を生きてきた。何もない。『何もない』しかない。豊かな自然と、歪みきった村社会。ユミコの父は、その代表格みたいなものだった。
「いくよ。ここは、私の世界じゃないから」
毎日汗と泥にまみれて、古い因習にがんじがらめにされて生きるなんて。ユミコには考えられなかった。すぐ隣でしゃがみ込んでいるヒロキは、長男だった。この先自分の家を継いで、農業を続けていくことを義務付けられている。ユミコはそれを手助けするために、その意志とは無関係に嫁にくれてやると約束をさせらていた。
思えば、ヒロキも哀れなのかもしれなかった。こんなユミコと結婚すると言い渡されて。それをバカ正直に信じて、ここまできてしまった。ユミコみたいな跳ねっ返りではなくて、もっとおっとりとした、明るい農村が似合いそうな女の子が相手なら良かったのに。
……まあ、ヒロキなら次の相手はすぐに見つけられるだろう。許嫁の破談の原因は、一方的にユミコにあるのだ。そのことは村の人間なら誰でも知っていた。そうとなれば、ヒロキほどの男性なら引く手数多だ。ユミコのせいでヒロキの家が断絶するなんて、まず有り得ない。
ユミコは、改めてヒロキの姿をまじまじと見下ろした。短く刈り込んだ髪の先端が、そよそよと風に揺れている。毎日の農作業で、浅黒く日焼けした肌の下はがっしりとした筋肉質だ。ちょっとデリカシーに欠けるところがあるのは事実だが、ヒロキは基本的には思いやりがあって、頼り甲斐のある親分肌でもあった。
小学校の低学年辺りまでは、ユミコも極普通にヒロキとの婚約を認めていた。物事の判断がつかないほどに幼かった、というどうしようもない事情はさておいて。女子の間ではそこそこに人気者のヒロキくんが、自分との将来を約束されている。それは当時のユミコにとっては、誇らしいとすら思える素晴らしいことだった。
価値観の相違に気付いたのは、いつからだったか。ユミコはこの土地で生きることに、意義を見出せなかった。人生のレールを完璧なまでに敷設されて、そこからはみ出すことを全く許されない環境。父や母のやっている仕事を、無意味だとまでは言うつもりはない。ただユミコは、自分の中に秘められているそれ以外の可能性についても追及してみたかった。
ヒロキはユミコのそんな考えに、理解を示してはくれなかった。それはよくある親への反抗心や、子供じみた万能感に過ぎないと一蹴された。大事なのは、地面に足をつけて生きること。現実を直視するなら、ここでヒロキと暮らすのがユミコにとっては一番の幸せなのだと説教されてしまった。
「帰ってきたくなったら、いつでも帰ってきて良いから。俺は、ユミコのことを待ってるよ」
「やめて。私はもうここには戻らない。ヒロキとの話も、なかったことにするの」
一時の感情の迷い。そう思われるのが、何よりも腹が立った。この村を出たところで、そう長くはもたないだろう。東京の大学までいって、すぐに脱落して経歴に傷が付くことを両親は恐れていた。
心配はご無用だ。もし仮にそうなったとしても、ユミコは二度と月緒の家には戻らない。ユミコがそれだけの強い覚悟を持っていることを、周囲の人間は誰一人――ヒロキでさえも理解してくれようとはしなかった。
遠くから、警笛が聞こえた。二両編成のローカル電車が、えっちらおっちらと走ってくるのが見える。これに乗れば、この村から出ていける。ユミコはヒロキの手から、トランクを受け取った。ぎぎぎぃ、と軋んだブレーキ音が響き渡る。がらがらの車内には、ほとんど乗客は乗っていなかった。
「ユミコ」
最後に、ヒロキがユミコの名前を呼んで引き留めた。胸の奥で、心臓が大きく跳ね上がる。もしこの時――
「俺、待ってるから」
もしこの時、ヒロキがユミコの望む言葉を発してくれたのならば、きっと運命は変わっていた。
「さようなら」
ユミコは後ろを振り返ることなく、電車の中に乗り込んだ。ドアが閉まって、二人のいる世界を真っ二つに隔絶する。さようなら、故郷。さようなら、ヒロキ。
さようなら……初恋。
ヒロキが婚約者であること自体を、ユミコは一度だって拒絶しなかった。ヒロキはユミコに対して、いつだって丁寧に応対してくれていた。ヒロキとは、仲の良い幼馴染でもあった。ヒロキと恋人になって、結婚出来るのなら、別に構わない。いや。
むしろ、ユミコはそうなることを望んですらいた。ずっと判っていた。ユミコはヒロキのことが――好きだった。
悪いのは、何だったのだろうか。この村を嫌うユミコか。この村にこだわるヒロキか。ユミコは最後の最後まで、ヒロキが声をかけてくれるのを待っていた。
『一緒に、この村を出よう』
ヒロキの口からその言葉が聞けたのならば、ユミコは喜んでヒロキと手を取り合って村の外へと駆け出していた。そんな未来が欲しかった。そしてヒロキが、その選択を絶対にしないことも判っていた。判っているから……苦しかった。
窓の外を、見慣れた光景が流れて過ぎてゆく。ここには戻らない。戻れない。ユミコの価値なんて、そんなものだ。ユミコの眼から、涙が一粒落ちた。それはあの日、高校の教室でヒロキをひっぱたいた時のそれよりも、ずっと熱かった。
郊外とはいっても、そこは東京だった。駅のコンコースは、家路を急ぐ人々でごった返している。ユミコはテルアキと夕食を済ませて、改札口へと向かっていた。
今日はこのままここで別れて、ユミコは一人であのマンションに帰ることになっている。電車の乗り継ぎは単純なので、往路の段階で覚えていた。明日は朝から、休めない講義がある。今夜は早めに人心地着いて、シャワーでも浴びてのんびりとしたい気分だった。
テルアキは電車には乗らずに、直接自宅に戻るのだという。ケンキチの店から、そう遠くない場所にあるのだそうだ。それならば、案内くらいしてくれても良いのに。テルアキは妙なところで出し惜しみをする人だな、と胸の奥がモヤモヤとした。
ユミコはテルアキが自分から話すまで、なるべくこちらからは踏み込まないようにしていた。オムライスの時の出来事だってそうだし、ケンキチの店の時もそうだ。ユミコがケンキチやチカから特に何も聞かなかったと知って、テルアキは「意外だ」という表情を浮かべた。
「ユミコさんは、やっぱり厳しいなぁ」
全てを自身の口で説明するというのは、確かに酷なことかもしれなかった。ユミコだって、テルアキに自分の中にある何もかもを打ち明けたりはしていない。誰かに代わりに語ってもらえれば助かるような、辛くて苦しい思い出だってあるだろう。
無理をしてまでそれを吐き出せ、と言うつもりは毛頭なかった。ただテルアキのことはなるべくテルアキ自身に、テルアキの言葉で話してもらいたいとユミコは思っていた。
同じ屋根の下で、同じ空気を吸って。同じ釜の飯を食べているのだから、テルアキはもうユミコにとっては他人ではない。愛人と言われるとまだちょっと微妙な感じはするが、家族に近い存在なのは確かだ。ユミコにそんなに近くにいてくれることを望んだのは、他ならぬテルアキ本人だった。
ちゃんとテルアキの望み通りに、そうしてあげたのだから。テルアキの方からも、ユミコに歩み寄ってきてほしい。そう願うのは、行き過ぎたわがままとまではいかないだろう。
「いつか、話します。その時がくれば」
「はい。待ってます」
二人の距離は、少しずつ近付いている。顔を合わせること自体が珍しかったのが、こうやって自宅の近くにまできて、友人を紹介してもらえるまでになったのだ。ユミコはただ、飼われているだけの女の子じゃない。テルアキの気持ちに応えて、ユミコの方にも変化が生じ始めている。
それは言葉にしてしまうには、まだあまりにも朧げな輪郭をしていた。認めようにも、どうにもはっきりとせず。忘れようにも、その場を占めて動こうとしない。このふわふわとした感覚が、心地よい。浮かれてしまう。ユミコは、自然と笑みがこみ上げてきた。
「じゃあ、また明日」
テルアキが手を降った。ユミコも掌を挙げて、人々が吸い込まれてく改札口に足を向けた。そうか、ホームまでは見送りにこれないんだ。こんなところで、田舎娘が露呈してしまうとは。電車が来るまでの後数分、テルアキといられると思ったのに。パスケースを取り出しながら、ユミコはふとヒロキのことを思い出した。
この駅から線路を辿っていけば、ヒロキのいるあの村に繋がっている。遠く離れた別の世界にいるみたいでも、ユミコはヒロキと同じ大地の上に立ち、同じ空気を吸って生きていた。
ヒロキは今、どうしているだろうか。確か、県内の国立大学に進学したはずだった。そこで肥料や農薬に関する勉強をして、家業の助けにしたいと語っていた。ヒロキはいつでも、農業の話ばかりだった。真面目で、一生懸命で。ユミコとは、見えているものからしてまるで違っていた。
彼女とかは、出来ただろうか。ヒロキはもともと、女子には一定の人気があった。そのせいでユミコは妙なやっかみを受けて、痛い目に遭ったこともある。
色恋沙汰は苦手だ。自信があると思うのなら、正面からアタックしてみれば良いのだ。そうやってヒロキの気持ちが動いてしまってくれていた方が、ユミコにはどれだけ面倒が少なかったことか。
あの日、ユミコが電車に乗ってヒロキと別れて――運命は決まった。それはもう交わることはないものなのだと、諦めていた。今のユミコは、テルアキという男の手の中にある。テルアキは物腰穏やかで、それでいて微妙に怪しい、不思議なおじさんだ。
ユミコはテルアキのことを、ほとんど何も知らなかった。ユミコのことを、気に入っていると言ってくれる。好きだ、とはっきりと言葉にしてくれる。住む場所を提供して、必要以上のお金も工面してくれる。
でも――それだけだ。
ヒロキのことなら、ユミコは良く理解出来ているつもりだった。子供の頃からいつも一緒だったし、一時期は結婚して所帯を持つことも視野に入れていた。ヒロキは家族や家業のことばかり考えていて、保守的で、ユミコのこともそれなりに気にかけてくれた。
テルアキは、どうなのだろうか。ユミコはテルアキのことを一つ知るたびに、また一つ不安になった。
今日垣間見たように、テルアキにはテルアキの世界がある。そこにはユミコは存在しない。ユミコがいたのは、何もない村だ。そこはもう、ヒロキと共に切り捨ててしまった。
電車に乗って、ユミコは過去から離れてきた。そしてここでまた電車に乗って、ユミコはテルアキの世界から離れようとしている。行く先は、あのマンションだった。ヒロキとも、テルアキとも隔絶された場所。そこで、一人きりで生きていく。
「――テルアキさん」
突然ユミコが振り返って、テルアキは驚いて目を見開いた。ユミコの後ろを歩いていた人の波が、邪魔そうにその身体を避けていく。それに構わずに、ユミコはテルアキの方へと逆走を始めた。ただならぬ様子を悟って、テルアキも小走りに駆け寄った。ユミコはテルアキの前に立つと、そっと手を伸ばしてスーツの袖口を指でつまんだ。
「お願いです。もう少しだけ、一緒にいてください」
寂しいなんて、どうして感じてしまったのか。マンションの部屋では、テルアキなんているのかいないのかもはっきりしなかった。一人でいることを苦にしたことなど、これまでにただの一度もない。ユミコの心は、テルアキのせいで弱くなってしまったのだろうか。
そうじゃない。
「判りました。マンションの部屋まで送ります」
テルアキは何も訊かずに全てを察すると、ユミコの頭をそっと撫でた。それ以上のことは何もなかったが、ユミコの内側は不思議と暖かさで満たされた。
きっとこれは、新しい場所に迎え入れられる前、過渡期の間にだけ訪れるささやかな出来事だ。こうやって、ユミコは誰かの世界の一部として組み込まれていく。テルアキの色に染められて、テルアキの見ている景色を並んで眺めて。自分が段々と、テルアキのものにされていくのだと実感することが――
ユミコはとても、楽しみだった。
第2章 いままでとこれから -了-




