ここであなたと(1)
その映画のヒロインは、何もかもを失っていた。家族も、友達も。帰るべき故郷も、平穏な日常も。見渡す限りの荒野の只中で、それでもヒロインは主人公の青年と向き合って毅然と立ち尽くしていた。
主人公の青年は、ヒロインに残酷な真実を告げようとした。これで終わりではない。絶望は、この先にまだ幾つもの高い壁を用意している。二人がそれを乗り越えて生きていけるのかどうかは、完全に未知数だった。
ヒロインは主人公の言葉を遮った。身体中傷だらけで、どんなにぼろぼろになっていたとしても。その瞳には、確かな力が宿っている。そんなヒロインの口から、強い意志を伴った台詞が放たれた。
「Don't be true」
その意味をどう捉えるのかは、ちょっと難しかった。真実なんて知りたくない。いや、真実なんて必要ない、だろうか。スクリーンの下に提示される日本語の字幕は、それをこう訳していた。
『愛してる』
拍子抜けだった。これは字幕翻訳者による、壮大な意訳なのか。あるいは仕事に対する賃金の安さや時間的制約に起因した、意識の低い手抜き作業の結果に過ぎないのか。
悩んでいるうちにヒロインは主人公と抱き合って、暗転してエンドロールに切り替わった。映画はここで終わっている。まるで謎かけだった。
ヒロインが何を話していたのか、いっそのこと聞き取れなかった方が単純に映画を楽しめたのかも知れなかった。苦しみながらも最後は愛し合う二人の姿を見て、観客はほっと緊張感から解き放たれる。その陰で、なまじヒヤリングが良くて原文の意味を考えてしまう一部の人間だけが、首を捻ることになるのだ。
劇場の中が明るくなっても、ユミコは席を立てなかった。ヒロインの真意と、字幕翻訳者の意図を掴もうと必死だった。ただのアクション映画だと思って観れば、派手な特撮にスカッとして、ディストピア的なオチにちょっとだけもやっとして。それで終わってくれるのに。
もう遅い時刻ということもあって、他の客たちはみんなぞろぞろと出口の方に歩いていった。本来ならば、そこまで余韻に浸るような作品ではなかった。あのラストシーンだって、続編を予感させるための小細工みたいなものだ。
たった一つ、あの台詞の存在を除けば。
何も映っていない白いスクリーンの向こうでは、今でもヒロインと主人公が新しい物語へと足を踏み入れようとしているのかも知れなかった。ではもし続きが語られるのだとしたら、そこであの言葉の意味は解明されてくれるのだろうか。
……それともそんなことなど存在しなかったみたいに、何食わぬ顔で主人公たちはまた画面の中を縦横無尽に暴れ回るのか。他の観客たちはともかく、ユミコにはその答えが気になって仕方がなかった。
とはいえ、いつまでも閉館間近の映画館の席に居座っていてもどうしようもない。ユミコ以外、劇場内には誰も残っていないだろう。ふと顔を上げて、辺りを見渡した時。
――思えば、それが始まりだった。
目が覚めて見えた天井が自分の部屋のものでないと、ほっとする。大学に入ってから、この感覚に同意してくれる人に出会えなくてちょっと寂しかった。安アパートの染みの浮いた小汚い木目が、愛おしくすら思えてくる。尤も、その光景とも一年足らずでお別れすることになってしまったが。
月緒ユミコは、都内にある杜若女子大学に通う大学二年生だ。専攻は英文学。別に和訳物の物語の原典に興味があったとかではない。学びたかったのはそちらではなく、言語の方だった。
英語が自在に使えるようになれば、この国を離れてもっと遠くにまでいくことが出来る。ユミコの目的はそちらだった。東京は確かに、実家のある故郷からはかなり距離がある。家族だって、おいそれとはユミコの生活には干渉してはこれない。
ただしそれでも、不可能なことではなかった。その気になれば、ユミコのいるところまでやってくることが出来る。隠れてやり過ごそうにも、この国にいる限りは両親たちの監視の目からは逃れられない。
だから、海の外にまで出ていく必要があった。実家の玄関、故郷の町、そしてこの日本。何もかもを飛び越えて、ユミコの所在を誰にも知られない場所にまで辿り着けたら良い。
現実逃避――と言われるほど無茶な話ではないはずだった。現に英会話のスコアだって充分に高得点だし、翻訳のアルバイトだってそこそこに評価してもらっている。後は卒業するまでに何回かワーキングホリデーを利用して海外に赴いて、下地を整えておく。
ユミコの中では、それが将来に関する最善の青写真となっていた。
今の天井は、真っ白い壁紙で覆われている。ちょっとホコリが付いていたのを払うと、ぴかぴかで新築同様だった。ベッドも照明も、好みのものと入れ替えてくれて構わないと言われていたが、これはこれで満足がいっていた。
それに仮に他のものと入れ替えたのなら、今のこれは処分してしまうのだそうだ。そういった『持っている人』の感性には、ユミコはちょっとついていけそうになかった。使えるものには、せめてそのお役目を全うするまでは活躍してほしかった。
ベッドから起き上がって、カーテンを開ける。このカーテンはユミコが注文したものだ。分厚い遮光カーテンは、重過ぎてあまり好きになれなかった。一応今後使うかもしれないと断って、畳んで収納の中に放り込んである。貧乏性もここに極まれり、だった。
外の世界は、灰色の雲に覆われていた。天気予報では、降水確率は六十パーセント。しとしとと冷たい雨粒が窓を濡らす。足元に広がる町並みは、ぼんやりとした靄に煙っていた。
ここは都心にあるタワーマンションの四十階だ。下界にいる人間の姿なんか、ちっとも見て取れない。揺らめく傘の群れでも眺められれば、それはそれで楽しそうなのに。こういう場所での生活は、ユミコが想像していたよりも微妙につまらなかった。
引っ越してきた当初は、窓の外を見るだけで眩暈がしてきそうだった。ユミコは特段、高所恐怖症のきらいがあるということはない。単純に、慣れの問題だ。前のアパートの部屋が一階だったので、そのギャップが殊更に強調されている。
それにしても、どうしてこういう高層マンションというのはありとあらゆる外壁を全面ガラス張りにしようとするのか。そこまでして外の世界の人たちを見下ろしたいという、支配者的な欲求を持つ住民ばかりでもあるまいに。
少なくとも、ユミコにはそういう趣味はなかった。だから寝室に使わせてもらっているこの部屋は、壁に対する窓の比率が一番小さかった。いや、これでも充分過ぎるくらいに大きいのだが。
あくびを噛み殺すと、ユミコは部屋の中に向き直った。スマートフォンが、書き物机の上でちかちかと通知のライトを明滅させている。メッセージの相手は、数少ない友人の北上ヨリだった。今日の午前は休講。それはラッキーだ。教えてくれたことに簡潔にお礼の返信を送って、ユミコはふぅと息を吐いた。
幸いにも、食材の買い置きにはまだまだ余裕があった。たまにはこういう日があっても良い。綱渡りで宙ぶらりんの毎日にも、すっかり慣れてしまった。おかしな話だ。ヨリもいい加減、あれこれと突っ込みを入れるのは疲れたのだろうか、
そう考えたところで、待ちかねたようにヨリからの通知が飛び込んできた。
『部屋の中にいて大丈夫なの?』
うん、心配してくれているのは判っている。平気だと応答を返しても、なかなか解放してくれそうにはない。ただもし万が一ここで何かが起こってしまったとして――それは結局のところ、ユミコの自業自得でしかあり得なかった。
いつまでも無駄な問答を繰り返していても仕方がないので、普段通りに適当なタイミングで切り上げることにした。どうせヨリとはすぐに、大学で顔を合わせる。その時どんな報告をするのか、ユミコの方が楽しみなくらいだった。
さて、時間的にももたもたとはしていられなかった。寝間着代わりにしているグレーのスウェットを、ユミコは脱いだ後できちんと片付けておいた。だらしないよりは、多分きっちりとしている方が望まれている。明確にそう言われたことはないが、部屋が綺麗なのを見てちょっとばかり嬉しそうにはしていた。無理にお好みの姿でいてやる必要はなくても、良好な関係ぐらいは構築しておいた方が損はないだろう。
大きな姿見の前に立つと、下着姿のユミコがいた。スタイルについてはノーコメントで、少し痩せ気味だ。ここで暮らすようになって、実はちょっとだけ体重は増加した。良いものを食べさせてもらっているお陰か。だとすれば、このままの生活の方がユミコの身体には健康的で望ましいものであると言えるのではなかろうか。その意見、ヨリならば秒殺で却下だ。
黒いだけの長い髪、いまいちくびれの足りない貧相な体つき。肌だけはすっきりと白かった。とはいえ、これも齢を取れば嫌でもよぼよぼのしわしわになる。母親の様相を思い浮かべてみれば、ユミコの将来には絶望しか残されていなかった。
まあ、だからこそなのか。ユミコに女性としての旬があるのなら、それはもう今でしかなかった。自分でも、年頃の女性の及第点は越えているだろうと自惚れている。試しに媚のあるポーズを取ってみて、その鼻っ柱も軽くへし折られた。うん、若さだけはある。いや、若さしかない。……何もないよりはずっとマシだ。
気持ちを切り替えて、ユミコは新しい服に着替えることにした。洋服ぐらいはちゃんとしたものを買っておかないと、立場的におかしいとも感じられる。偉い人がみすぼらしい恰好をしていては恥ずかしい、というのと同じことだ。人は自らの身分に相応しい服装でいるように、常日頃から心がけておく必要がある。
今日は淡い黄色のニットに、ふんわりとした桜色のスカートを合わせてみた。外の天気が雨模様だからこそ、明るい色合いを揃えていく方向だ。パッと見はやや幼い印象を与えるかもしれないが、華やかでなかなかユミコに似合っている。それともフォーマルな方がお好みだろうか。または真逆に、ケバくてド派手な方がそそるのか。
以前訊いてみた時の回答は、「どちらでも」だった。恐らくは本気でそう思っているであろうから、余計に性質が悪い。ユミコは、ユミコのままで良い。ただここで、ありのままでいてくれればそれで満足してしまう。
ご主人様がユミコを囲っているのは、きっとそんな理由でしかない。ユミコはあれこれ悩むのをやめて、さっさと寝室を出ていった。鏡の中の自分が、うっすらと楽しそうな表情を浮かべていたのが可笑しかった。
がちゃり、と玄関のドアが開いた。マンションのこの部屋の鍵を持っているのは、ユミコともう一人のみだ。スリッパを履いて、いそいそとお出迎えに向かう。靴箱の前に立っていたのは、高そうな紺色のスーツを身にまとった中肉中背の中年男性だった。
「おかえりなさいませ、テルアキさん」
中肉中背中年。頭の中で繰り返して、ユミコは思わず噴き出しそうになった。『中』が多い。確かにテルアキは、何かにつけて中庸というイメージがぴったりだった。
太っているでもないし、ガリガリという感じもしない。白髪交じりの頭は若くはないが、かといって年寄りには見えなかった。肌は意外と奇麗で、それでも残念ながらよくよく観察してみれば茶色い染みがぽつぽつと浮いている。服装はいつもと変わらない。高級そうなダブルのスーツだ。若者にはちょっと難しい、ダンディな着こなし。やっぱり、テルアキには『中』がお似合いだった。
テルアキはユミコの方を向くと、無精髭の残る顔に怪訝な表情を浮かべてみせた。それはそうだろう。いつもなら、ユミコは午前の講義に出かけて留守にしている時間帯なのだから。ビニール傘の先端から滴り落ちる雨水が、茶色い革靴を濡らしている。そこまで驚かなくても良いだろうに。ユミコはテルアキの手から傘を受け取った。
「午前中は休講なんです。雨だから、ちょっと助かっちゃいました」
「ああ、そうなのか。じゃあ、うるさくしないようにしているよ」
このマンションで、テルアキが騒がしくしていた試しなど一度もなかった。ここを訪れてきたら、決まって真っ直ぐに仕事部屋に入って籠ってしまう。ユミコも孤独には慣れている方だが、この状況はあまりにも行き過ぎではなかろうか。
そもそもユミコは、テルアキに「飼われて」いる身であるというのに。それこそ立つ瀬がない。
「今日のお昼は、ここでご一緒しませんか? せっかくなので」
こういう機会自体が珍しかった。テルアキはユミコの方からアプローチしていかないと、毎日いるのかいないのかすら判然としなかった。ユミコがここで暮らし始めてひと月は経とうとしているのに、それはそれで寂しいことだ。
「俺は構わないんだが、ユミコさんはどうなんだ?」
「全然問題ありませんよ。自分の立場くらいわきまえていますから」
そう言ってから、ちょっと意地悪だったかなとユミコは反省した。テルアキの優しさに、すっかり甘えてしまっている。本来であれば、ユミコにはこんな生意気な発言など許されるはずもなかった。
ご機嫌を損ねてしまえば、あっという間に追い出されて、はいさようなら、だ。ヨリはそれで満足かもしれないが、ユミコの場合は生活がかかっている。ここにある全てを、おいそれとは失ってしまう訳にはいかなかった。
「じゃあ、もらうよ。一緒に食事をするのは、久しぶりだね」
テルアキの返答は、どこか嬉しそうに弾んでいた。ユミコは準備しておいたタオルを広げると、テルアキの身体をさっと拭いた。少しだけ掌に力を入れて、その感触を確かめる。覚悟は――いつだって持っている。でもテルアキがいつも通りなら、今日もまた穏やかなままに終わるのだろう。
スリッパを出して、どうぞと招き入れた。テルアキに対しては、どんなに甲斐甲斐しく世話を焼いたところで足りることはない。
マンションのこの部屋は、テルアキの名義となっている。ユミコは今年の三月から、テルアキの好意でここに住まわせてもらっていた。