後漢書東夷伝
ふと、正午を大幅に過ぎていることに気付く。
ちょっとした気分転換を兼ねて、近所のコンビニに行きアイスを調達。家に戻ると再び自室に籠もり、アイスを舐めつつ、先日から気になっていた後漢書東夷伝、宋書倭国伝、隋書倭国伝、それに旧唐書新唐書を流し読みする。
後漢書東夷伝は、「後漢」と銘打ってはいるが五世紀成立の歴史書である。つまり魏志倭人伝より三〇〇年ばかし後に、それこそ魏志倭人伝等に大きく依存しつつ書かれている。
読んでみて感じたんだけど、信頼度はどうもアヤシい。著者范曄の勘違い、誤解が混じっていたりする。例えば「狗邪韓国(半島南岸)を去ること七千余里」って書いている一方で、
――おおむね会稽、東冶の東。朱崖、儋耳に近い。
って書いてるの。魏志倭人伝記載の「東治」を、もっと南の「東冶」と勘違いした上で、「朱崖、儋耳」(南シナ海上の海南島)に近い……なんて書いてるわけよ。
女王国は狗邪韓国から(わずか)七千余里東南と書いたくせに、それよりず~っと南方だと思ってるっぽい。つまり頭の中にまともな地図を描けていなくて、全く頓珍漢な位置を想像している。
あ、しかし、
――狗邪韓国から(わずか)七千余里。
って記述自体は、宮崎説にとってポジティブ要因かも。
だってさぁ、魏志倭人伝の記述からすると、狗邪韓国までで既に七千里を費やしているから、女王国までの残距離は五千余里ってことになるでしょ!? だから北部九州説が有力だったわけ。
しかし後漢書東夷伝を編纂するにあたり、著者范曄がもし何らかの資料を根拠に「七千余里」と書いているのであれば、それはまさに宮崎を示しているんじゃないかな。
それと、いろいろ参考になりそうな情報を漁っているうちに、興味深い記述を見つけてしまったよ。
古代の大陸王朝にとって世界とは、王朝首都を中心に、
「東西南北それぞれ万二千里」
という認識だったらしいの。どうやらそういう世界観だった、と。……
つまり、(女王国まで)一万二千里というのは具体的距離ではなく、
「世界の一番辺境に位置する」
という漠然としたイメージを示しているに過ぎない……のかもしれない。だとすれば、約九二〇km一万二千里余という具体的数字に、殊更拘る必要はないのかも。
それと、魏志倭人伝から後漢書東夷伝までの約三〇〇年の間に、やはり漢字に関するナレッジも失われてるっぽいね。
「其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)」
と書かれている。
――その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、「邪摩惟」音のなまりである)
と、わざわざ注釈を付けてるのよ。つまりその三〇〇年の間に「壹」が「壱」に変化し、かつ「とぅ」と読んでいた記憶が失われてしまったのかも。
いや、「壹」「臺」共に「とぅ」と読んでいたのに、それも失われ、かつ「臺」が「台」に変化。なので台と同音ってことで「堆」と記載したのに、後年さらにそれが誤って「惟」と筆写された可能性もあるよね。色々混乱しまくってる感じがする。
あ、筆写の范曄は南朝宋の人らしいから、魏朝とは漢字のナレッジが異なるため混乱している可能性もあるのか。……
まあ、いいや。その辺は敬太郎君の担当だから(笑)
あたしはそれらの考察をちょちょっと文章にまとめ、掲示板に書き込んだ。