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「水行千里」をどう解釈するか

 そうそう。

 あたしが思うに、伊都国は福岡県糸島だ……って定説にも、色々難があるわけよ。

 数日前に智ちゃんが、根拠らしい根拠が見当たらないって書いてたけどさ、それだけじゃないよね。


 まず、糸島こそが伊都国であれば、なぜ壱岐からダイレクトに糸島へ向かわなかったのか。先に末盧国に上陸し、わざわざ陸路を選択し糸島へ向かったのか。

 それって全く説明がつかないじゃん。――


 大荷物を抱えた、おそらく数百から千人規模の御一行様だよ。馬車も牛車もない、荷駄車もない時代なんだから、壱岐から糸島へ舟で直行するに決まってんじゃん。

 舟を留められる港だって、糸島なら一つや二つはありそうだよね。壱岐からの距離だって、壱岐唐津間の半分以下だよ。むしろ唐津湾に上陸して陸路で糸島に向かったら、魏朝の一行が怒り出すんじゃないかな。

「アイヤ~。壱岐島、見えてるアルよ。何で、舟で直接糸島へ向かわないアルか!?」

 ってさ。


 あ、魏志倭人伝をよく読むと、伊都国には「津(港)」があったって書いてあるじゃん!! やっぱ唐津に上陸してから陸路糸島へ向かうってのは、あり得ない。


 それとさぁ、伊都国ってのは、邪馬台国がわざわざ要人「一大率」を派遣した重要拠点だったわけでしょ?

 しかし糸島を、重要拠点と定めるだろうか。その理由はなんだろう。……

 あたしは暫く地図と睨めっこしてたんだけど、そこが見えて来ない。そもそも糸島みたいな「海の玄関口」を重要拠点に定めるなんて、アホ臭いじゃん。後の大宰府政庁だって、博多湾から直線で一五kmも内陸部の、要衝に設置したわけでしょ。


 伊都国は海際にあった。それは間違いない。なので糸島も候補に含まれるだろうけど、しかしあたし的には「ここじゃない感」ビンビンなわけよ。後の元寇の例を挙げるまでもなく、ひとたび外敵が攻めてきたら、一発でアウトじゃん。そう思わない?

 それに糸島って九州北岸だから、その後の投馬国や邪馬台国への「南へ水行○日」って記述に矛盾が生じる。それもまた「ここじゃない感」の理由。


(やっぱ卑弥呼様の言う通りだよねえ……)

 地図を眺めつつ、

「末盧国は唐津湾、そして伊都国は佐賀だ」

 という思いを強くするのである。


 佐賀は海の玄関口から奥まったところにあり、かつ海際で交通の便も良い。二世紀後半からむしろ勢力衰退した痕跡がある博多湾沿岸(糸島含む)より、吉野ケ里遺跡等も見つかっている佐賀平野の方に軍配が上がるだろうし。

 伊都国が佐賀であれば、魏朝御一行様が壱岐から向かう先は、やはり唐津湾だよね。……


(卑弥呼様の言う通り、末盧国は佐賀県唐津湾付近ってことで間違いなさそうだよなあ)

 問題は「水行千里」をどう解釈するか、という点だけではないか。


 当時の航海の現実を想像するならば、

「午前中に出港し、日没前に目的地に辿り着ける距離を一律『千里』と見做す」

 という説には一理ある。そう考えると、唐津湾だと千里には若干距離が足りない点にも説明がつく。


 唐津湾からだと、壱岐島が見えるらしい。後世の、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際もこの航路を採用した、という。往路夏場、復路冬場を狙い海を渡るとして、対馬→壱岐→唐津湾→佐賀平野というルートはまさに、ベストチョイスではないか。――

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