やっぱ宗像ではないよね
そこまで一気に調べたところで、猛烈な眠気を催した。
まあ、そりゃそうだよね。朝から随分と動き回ったし、重いエアコンを運び取り付けのアシストをしたし、お酒もしこたま飲んだし……沢山興奮したし(笑)、眠くなる筈だわ。
PCの電源を落として寝よう……と思ったその時、智ちゃんの、
「拝啓、向暑の候、皆様におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます」
というカキコに気付いた。
なんじゃそりゃ、と本文を読むと、
「今、あたしが調べている古墳編年の問題に関して、やっぱどうしても西都原古墳群に行きたいのよね。明後日金曜日、西都原まで足を伸ばさない!? ガソリン代超過分はあたしが負担するから。よろしくご検討願います、かしこ」
という要望が、バカ丁寧な筆致で書き込まれていた。
「俺はどげんでん、良かど~。いずれ行かなならんち思ちょったかイ、賛成やっど」
という雄治のレスと、
「智美お嬢様。小生、貧民故バイトがございます。明日、先様に日程変更の交渉をしてみますので、お返事はしばしお待ち下され」
という敬太郎君のレスが付いていた。あたしも、
「うむ、苦しゅうない。良きに計らえ」
とレスを付け、PCをシャットダウンするとベッドに転がり、パン○丸出しで爆睡した。
翌、木曜日。――
大した講義もないので自主休講とした。とにかく魏志倭人伝の謎解きに専念したい。あたしは部屋着のTシャツとホットパンツに着替えると、洗面を済ませて菓子パンとコーヒーを確保し、自室に戻る。
邪馬台国への行程問題に関する情報を、ひたすらネットで漁る。どうやら最近は、あたしと同じ様に、
「伊都国比定地って、福岡糸島ちゃうやろ。末盧国からの方角がちゃうやんか」
と気付く人が、少なからず存在するらしい。
彼らが新たに主張するのが、
「そもそも末廬国も佐賀県松浦ではなく、福岡県宗像付近である。んでもって伊都国は、宗像の東南に位置する福岡県京都郡である。いや田川郡糸田である」
といった説である。一昨日視聴した番組動画でも、福岡県京都郡説を提唱していた。
なるほど、と頷けないでもない。
末盧国が定説通り佐賀県松浦の唐津湾付近だとすれば、壱岐→唐津湾間が五〇km強しかなく、千里(約七七km)という魏志倭人伝の記述を考慮すると少々短いのである。
これが宗像説であれば、壱岐からの距離が七〇km強ということで、まさに千里である。記述にぴったし合う。
(でもねぇ……。やっぱ宗像ではないよね)
魏志倭人伝記載の「一大国」が壱岐島であることは、その記述からしてほぼ間違いない。対馬→壱岐→末盧国というルートはほぼ確定と思われる。
しかし縄文以来、対馬→沖ノ島→宗像という航海ルートが存在するらしい。
つまり、もし宗像こそが末盧国であれば、そちらのルートを選択した筈である。壱岐を経由する必要がない。言い換えるなら、魏志倭人伝記載の対馬→壱岐→末盧国ルートは、宗像を経由していないという極めて有力な証拠ではないか。――