学者達は自国の古代史にケチを付けまくっちょる
雄治の解釈には、非常に説得力があると思うのよね。
でもさ、それって何も、雄治がとんでもない洞察力を持っていて捻り出した歴史観……ではないよね。宮崎の歴史を眺めていれば、自然に生じるモノだと感じるんだけど。
「その、日向勢力を束ねたンが、卑弥呼邪馬台国じゃらせんどかい。俺の想像では、卑弥呼が第一〇代崇神天皇と力を合わせっせ、倭国大乱を制したっじゃろな。崇神天皇は四方に派兵して国家体制を整えた……ち書かれちょる」
「その崇神天皇と卑弥呼様って、時代的には一致するの?」
「魏志倭人伝によると、当時の日本は二倍年暦っちゅうのを使っちょったらしい。春と秋の二回、一年とカウントする。つまり今の一年が、当時の二年や。古代天皇の系譜をその二倍年暦で計算し直すと、第一〇代崇神天皇と卑弥呼は同世代っちゅうことになる」
「そっか……。その辺はちゃんと辻褄が合うんだね」
「じゃっど。しかも次の第一一代垂仁天皇は、名前が『イクメイリビコサチノミコト』やぞ。こイが魏志倭人伝に書かれちょる、卑弥呼の弟じゃらせんどかい……っち思ちょる」
ほう、スゴい。――
イクメなんだ……。邪馬台国長官と書かれている、「伊支馬」っぽいじゃん。
あ、そうそう。古代の大陸人って、外国人の長い名前は省略して記述するらしいよ。菩薩様の正しい名前は、サンスクリット語で「ボーディ・サットヴァ」だと聞いたことがある。魏朝の人々が「イクメイリビコサチノミコト」を「伊支馬」と略記した可能性は、充分有り得そう。
あ、だから生目神社に垂仁天皇の謂れが残ってるのかもね。――
「卑弥呼が日御子ン代表として立ち、そン指示で同じく日御子ミマキイリビコ(崇神天皇)が畿内を奪回しっせ、大和朝廷を再興したっちゃろなあ。で、そン次に卑弥呼ン弟のイクメイリビコ(垂仁天皇)があとを継ぎ、『すめらみこと』となった」
なるほど。
「そン次の第一二代景行天皇は、大々的に九州征伐を行っちょって、大分にも宮崎にも長期滞在しちょる。メインは熊襲征伐や。で、一旦は制圧したっちゃけど再度反抗したらしくて、今度は息子のヤマトタケルに熊襲征伐を命じちょる」
「へ~~~~。それって卑弥呼様が亡くなった後に、本家ぃやぅまとぅが苦境に陥ったのかもね。あ、魏志倭人伝にも『狗奴国が反抗して困ってる』って書いてあったっけ。だから畿内大和朝廷が本家救済に向かったのかも」
「そうやな」
面白い。
全てが、上手く繋がるじゃん。――
じゃあどうして、学者先生方はそういう推測をしないの!?
「そうやなあ……」
雄治は再び、大きな溜息をつく。
「学者は一一代垂仁天皇を、最近まで『実在せん』っち言うちょったんや。今はちと論調が変わっちょるごたるけど。一二代景行天皇も『実在せん』ち言うちょる。理由は『称号がタラシヒコだから』やげなど。同名のタラシヒコが何人もおるから、一二代タラシヒコ景行天皇は架空やろ……っち論法や」
「何それ!? それっておかしくない?」
「ああ。下らん話やろ!? 徳川家康の幼名は竹千代で、三代将軍家光も竹千代や。『だから三代家光は架空の人物』なんちゅうリクツが通用するかよ(笑) そげな信じられんごつバカげたリクツで、学者達は自国の古代史にケチを付けまくっちょる。ちなみに息子のヤマトタケルも、ファンタジー扱いしちょる」
久々に、義憤スイッチが入ったっぽい。雄治が鼻息荒く憤慨している。