「城柵」なんてレベルじゃないよね
要するに、今あたし達の目の前に建ち並ぶ復元物は、全くもって学者先生方の想像に過ぎないのである。正確には言えば「復元」ではない。
何故なら実際の構造物は早々に腐って消滅し、全く出土していないもん。なので柱穴の位置や大きさ、それに土器等に書かれた線画から、ウワモノを「想像」しつつ建てただけ。参考物がショボい線画だから、そのままショボい建築物を建てているのよ。
「魏志倭人伝には、『宮室、楼観、城柵を厳かに設け……』って書かれてるよね」
「じゃっど~」
「魏朝の高官達は、それを見て倭人をハイレベルな民族だと認めたんだよね。で、周辺国の中で唯一、けもの偏ではなく人偏付きの扱いだったし、それこそ雄治先生の御高説によれば『邪馬台国と魏朝は対等外交』らしいし……」
「うん。そン通りやと思う」
あたしは環壕を指差す。
「あれって、城郭都市の環壕にしちゃ多分ショボ過ぎるよね。あんなの、簡単に敵から攻められるじゃん。せいぜい野生動物が飛び込んで来るのを防げる程度じゃない!?」
「うん」
「それに柵だって、『城柵』なんてレベルじゃないよね。ただの柵じゃん(笑)」
「さすが紗耶香やなあ。良く解っちょる。あれは本当に、ただの柵や」
「『宮室』『楼観』も無いよね。ただの物見櫓と倉庫だよ(笑) 魏朝御一行様があれを見たとして、『宮室、楼観、城柵を厳かに設け……』とは書かないよねえ」
雄治はうんうんと頷く。
「つまり二つの事が考えられるよな。一つは、たまたま見つかったこン吉野ヶ里遺跡は、魏朝の高官達が見た都市とは関係ねえ、ただのショボい集落やった可能性」
「あ、なるほど」
「もう一つは、復元された建物は、実際はもっとゴージャスやった可能性」
そうだよね。卑弥呼様の話から想像するに、伊都国……というか邪馬台国の拠点たる「肥の津」は、もっと海岸端っぽいよね。海岸端に港湾機能があって、国内外のヒトやモノの行き来を管理していたっぽい。
であれば、魏朝御一行様が見た都市は、ここ吉野ケ里遺跡ではない。現代になってたまたまここが見つかったのと、学者先生方の想像以上に規模が大きかったため、
――邪馬台国時代の都市集落に違いない。
と勘違いしているだけかもしれない。
いや、それ以前にこの遺跡だって、学者先生方が当時の建築技術を過小評価し過ぎ、ショボい復元物(!?)で埋め尽くしている可能性は依然として残る。いずれにせよ、吉野ケ里遺跡公園を見て当時の都市の景観をイメージするのは、大きな間違いだろうね。――
ふたりは展示室に入ってみた。
(大規模遺跡の割に、展示物は意外と少ない)
と感じた。これと言ってめぼしい展示物も見当たらなかった。
「文字らしいモンの書かれた土器が出土しちょる、っち情報を見かけたっちゃけど……どれじゃろか?」
雄治がそう言うので、ふたりして探してみたが、よく判らなかった。