第5話・眠りの果てに
私はランの車でアパートに送ってもらい、ゴミだらけの部屋に帰って来た。とにかく快適に寝たかった私は、久々にベッドの上を片付けた。一度片付けをはじめるといらないものが目に付き始め、結局ローテーブルの上にあったゴミと床に散らかっていた衣類の片付けだけやってしまった。
それだけで部屋全体が過ごしやすい空間になり、私は満を持してベッドにダイブする。さっき匂いを嗅いだアロマが未だに効いているせいか、全身から緊張感が消えて芯からリラックスしているのがわかる。
私はポケットからアロマを取り出し、フタを空けて先ほど片付けたローテーブルに置いた。これだけでは部屋に匂いが充満しないだろう。だが、明日に向かって眠りに付くには十分な安心感を得ることができた。
ーねぇ、あなたはどうして自殺するまでそんなひどい環境にいたのかしら?
夢の中、私はランに質問された内容がよみがえってくる。私はただお金を稼ぐためだけに、今の会社に就職していた。特にやりたいこともなかったし、大学には奨学金を使って通っていたこともあったから、とにかく働いて返す必要があった。
実家に帰っても田舎なので仕事もなく、自分が田舎で生きている未来像なんて描けなかった。私には、進学先で就職するほか生き残る術がわからなかった。
ーねぇ、あなたはどうやってこの世界で生き残りたいの? 本気で考えたことある?
自分で生き方とかお金を稼ぐことって、考えたことがあったのだろうか。そもそも、私にはどうしてお金が会社に流れてきているのかよくわからないし、自分の会社で事務作業をすることで、どうしてあの給料が発生しているのかさえ考えたことがなかった。
ただ、これってみんな考えて働いたり、仕事を選んだりしているのだろうか。私たちは保険料や税金でごっそりお金がとられるだけでなく、デフレの影響でお金がまったく貯まらない。こんな状況になれば、賢い人はみんな給料の換算やギチギチの人生計画表を作って、生き残る術を見出しているのだろうか。
ーじゃあ、私の仕事に付き合ってもらいましょうか。
ランの台詞が蘇ると共に、私のまぶたは自然を開いていた。閉めっぱなしにしていたカーテンの間から青白い光がこぼれているのを見ると、すでに朝がやっているのがわかった。睡眠薬に頼らずアロマの力を借りた効果だろうか、自然と身体がベッドから離れてカーテンを開けていた。
私はベランダを開けて思い切り息を吸い込んでみる。すると、アロマの残り香が鼻の周りを覆ったのかせき込んでしまい、私は朝から一人で笑ってしまった。
「……よし」
ベランダから出た私は、昨日ランと作成した退職届をカバンから取り出す。その内容を確認してから封筒に入れ直し、私はすぐに身支度を済ませて会社へ向かった。
* * *
「お前、何っているのかわかってるのか!」
開口一番、上司の言葉は予想通りのものだった。そして、朝誰よりも早くやってくることも。私は退職届を上司のデスクの上に置いただけったのだが、それだけで青筋を立てて朝からまくし立ててくる。
しかし、私は以前のような恐怖を感じていなかった。今までなら頭を万力でキリキリと締められるような感覚になっていたが、今は何も感じなかった。今の上司は、デモ隊に紛れて叫んでいる人間の1人にしか見えなかった。
「あの、いいですか」
「なんだ?」
「私、まだ何も言っていません。ただ退職届を出しただけです」
「だから、いまそのことをー」
「私の意思は変わりません。それよりも、聞かないんですね?」
「はぁ、何をだ!」
「私が辞める理由です」
「バカか、お前! なんでお前の辞める理由なんて聞かないといけないんだ。一度入った会社なんだ、骨を埋める気持ちでやるのが普通だろ。それを簡単に辞めるだなんて、最近の若いやつは意味がわからん!」
「あのですね、私昨日。自殺しそうになったんです」
やっと上司は口を動かすのを辞めた。しかし、すぐにブリキ玩具のロボットみたいにキャーキャーと持論の展開をリピートし始めた。
そうか、私が仕事のことや給料のことを考える暇がなかった訳ではないのだ。そもそも、会社を動かす人間の一人が、部下のことなんて何も考えていなかったのだ。部下の管理をしないということは「会社」を構成するパーツを管理していないことも同じで、上司も会社のことなんて何も考えていなかったんだ。
そんな人間の下でいくら働いては、どれだけ会社が普通でも報われるはずもなければ、生きることを実感なんてできるはずもないのだ。
「すみません!」
私の一声が誰もいないオフィスに響き渡る。まるではじめて怒鳴られた子供のように、上司はきょとんとした目をしている。
「あなたがそうおっしゃるならば、上に掛け合うまでです。それに、私が精神的に参っていることがわからないとおっしゃるのであれば、今日精神科にいって診断書をもらってきますので」
それだけ言って私は身体を翻し、その場を去ろうとした。上司の「おまえ」が聞こえそうになったその瞬間にターンし、指さしながら宣言した。
「あっ、それ受領されなくても内容証明郵便で本部に送りますから。あと、私ぜんぜん有給もらってないので、そちらもこの機会に消化させていただく予定ですので」
それだけ言い残し、私は上司を会社に残して立ち去った。