第4話・深夜のファミレスと退職届
「すぐに退職届を書いて」
ラン、と女は名乗った。私はそのまま解散するものかと思ったが、ランに手を引かれるまま近くに止めてある車に押し込められた。その後はランの運転でコンビニへ寄り、私の家でハンコを回収し、そのままファミレスへ来ていた。そして、私はランの指導の元で退職届を書かされているわけだ。
「あの、これ明日でもいいんじゃ」
「あなた、そんなこと言ってたらまた電車に飛び込むことになるわよ」
ランの目は一切笑っておらず、私はこの退職届を書くまで釈放されないだろう。こうして今、ペンを持って退職届を書こうとしている自分は、ボーとしたまま踏切に侵入して死のうとしていた。
そして、自殺を止めたランに逆上して殺そうとした。今までの自分からは切り離されていた「死」という言葉が頭の周りを踊り、私のことを挑発しながら振り回しているようだった。
「余計なことは書かなくていいわ。ただ仕事を辞める旨と、日付と名前。それとあなたに役職や所属部署があればそれを書いておいて。それ以外のことを書くと、後々面倒だから」
「……ねぇ、ラン」
「なに?」
「あなた、妙にこんなこと詳しいけれど。もしかして、法律関係者やあやしい団体の人とか?」
「そんなわけないでしょ。本職や他人の欲満たして金儲けしようとする奴が、わざわざこんなタダ働きしないっつの」
ランは注文していたポテトにたっぷりとマヨネーズを付けてから食べる。すでに口元は油でテカテカになっており、乾燥気味に見える肌とは対象的だった。どちらかといえば切れ目のキレイ系の女性なのに、化粧していないこともあって、私には飾り気のない獣そのものに見える。
「ほら、手止まってるけど。書けた?」
私はペンを置いた後に家から持ってきたハンコを付き、書いた退職届をランに見せる。その内容を隅々まで確認してから、ランは私に言い放った。
「よし、これで大丈夫ね」
まるでこのゲームの結末がわかっているように、ランは笑みを見せる。そもそも、なぜ彼女は私にこのような「賭け」を持ち掛けてきたのだろうか。しかも、私は一度彼女を殺そうとしている。そんな人間となんて一秒も一緒にいたくないと思うのに、なぜ彼女は私と一緒にいることを選択しているのだろうか。
「どうしたの、難しい顔して?」
「いや、その。さっきまでのことを思い返してて。なんか、半年分ぐらいの濃い時間を過ごしているみたいで」
「幸せなことじゃない。一分ぐらいの一年よりも」
「そんな幸せでもないじゃん。私、死のうとしたし。それに、あなたのことも」
「ふふ……。別にそれはいいのよ。私は殺されていないし、それにね」
「それに?」
「あなたは自分が選択する死は誰かに妨害される権利は無いと言った。あの言葉がウソで無ければ、もしあなたが賭けに負けたとしても、私の仕事もこなせると思うの。要はね、私はあなたの言葉に賭けてみたいだけよ」
ランの目は踏切のところであったような、野獣のそれとは違っていた。その目には決意や覚悟といった感情がほとばしり、誰にもゆるがせない強さのようなものを感じた。
「別にね、あなたが賭けに負けて私の仕事を手伝ってもらった後、ずっとその仕事をしてもらうつもりはないわ。ただ、私としても一回挑戦してもらいたいの。それだけだから」
「そ、そう……」
「安心なさい。今あなたがいる会社のように、別にあなたに執着するつもりはないわ」
「で、でも!」
私は店内に響き渡るぐらい大きな声が出ていた。バツが悪くなった私は座り直し、面と向かってランに聞いてみた。
「もし、この退職届を私が出さなかったらどうするの?」
「そのときは……。そのときね」
「へ?」
「これはあくまで『賭け』なの。私があなたに強要できるのは、こうして退職届を書かせるところまで。何なら私が退職届を内容証明で届けてもいいんだけれど、これじゃ私があなたの仕事を無理に辞めさせたことになるし」
この紙を出せば、私は仕事を辞めることができる。お金を稼ぐためだけに就職したあの会社を、自殺まで追い込んだ上司のいる会社を辞められる。ちゃっちゃっと書いた退職届を見ていると、「なぜ私は自殺未遂をするまで、こんな簡単なことをやらなかったのだろうか」と、自問自答している自分がいた。
ランは立ち上がってから私の横に座り、小瓶を手渡してきた。
「アロマのプチグレインよ。これがあればよく眠れるわ」
私はその場で封を開けて匂いを嗅いでみた。その匂いが鼻腔を付くだけで、身体の奥からもみほぐされたような気分になった。
「さ、今日はもう寝なさい。送るわ」




