第3話・人生を賭ける
「結局は、あなたも安易に自殺を選ぶつまらない人ってことかしら」
いつの間にか女は私のアゴを持ち、彼女の吐息が掛かる距離にまで近づいていた。
「人間なんてどれだけ取り繕っていても、生き死にが掛かれば地が出るから面白いんだけど」
ふぅ、と雪女のような冷たい息を吹きかけてくる。その息だけで私の命はいとも簡単に摘み取られそうになる。
「ごめんなさい。立ち入らないつもりだったのに。あなたの叫んだ内容や私にやろうとした行動に引っかかるものがあったから。つい私も大人げない態度を取ってしまったわ」
その場を立ち去ろうとする女の手を、私はギュッと握っていた。女は振り返り、興味なさそうに見つめてくる。
「あんた、何勝手なことばかり言って立ち去ろうとしてるのよ」
「勝手なことを言い出しのはあなたよ。もっと言えば、勝手に自殺して私を不快にしようとしていたんだから、あれぐらい言わせてもらわないと困るわ」
「ふざけるな!」
私は女の手を利用して何とか立ち上がる。
「私だってね、好きで今の職場にいるわけじゃないのよ。それでも働いてお金稼がないと、生きていけないのは誰だって同じでしょ!」
「その結果、自殺なんてされても困るのよ」
「だからって、あんたが私の『死』を妨害する権利はないでしょ!あんたが安眠を妨害されたくないように、私だって、私が求める『明日』を得る権利をあんたに奪われる筋合いはないんだから!」
「私が求める『明日』、か……」
女は私がこぼした台詞を反芻する。確かに、論理は破たんしている。でも、人それぞれが求める「次の日」を誰が否定できるのだろうか。朝日は同じでも、誰もが等しくその朝日を浴びるとは限らないのだ。その光は人によっては、ドラキュラのように死へ誘う絶望の場合だってあるのだ。
「……そう、なかなかおもしろいことを考えているのね」
女はまるでおもちゃを見つけた子供のように笑みを浮かべる。その不気味な笑顔に、私は頷くのが精いっぱいだった。
「じゃあ、私の仕事に付き合ってもらいましょうか」
「はい?」
「いいでしょ、どうせ死ぬんだったらその仕事も続ける気が無かったんでしょうし。明日から私と一緒に活動してもらうわ」
「ちょっと! そんな、明日からって……。仕事を辞めるのだって色々と手続きがあるのに」
「私が証人になってあげるわ。『この人は昨日自殺しようだったから、すぐにでも会社を辞めさせるべきだ』ってね」
「あんた、さっきから滅茶苦茶よ。言ってることが」
「死ぬほど働かせる会社のほうが滅茶苦茶じゃない。何を言ってるのよ」
私はこの女の前で、いったい何度息を詰まらせただろうか。この女は私が考えているような常識で物事を考えていない。ただ、独自の哲学で生きようとしている。出会ったばかりだが、それだけは何となく伝わってくる。
「私との賭けだと思って、この話に乗ってみなさい」
「でも……」
「もしかして、お金のこと? そうね、どうせならば明日あなたが仕事を辞めれるかどうか、賭けてみましょうか」
「賭けるって、何を?」
「あなたは自分の人生、というところかしら。もし、すぐに仕事を辞めることができれば、あなたには私の仕事に付き合ってもらう。もし、仕事をすぐに辞めることができなければ、そうね……。
平凡だけどお金を賭けましょうか。あなたがしばらく働かなくても暮らせるぐらい」女はポケットから何かを取り出した。はじめは財布かと思っていたが、よくみるとそれは札束だった。一つ一つはそこまで厚くはないが、白い帯でまとめられた札束がバラバラと地面に落ちていく。
「あら。その反応を見ると、札束を見るのははじめてかしら?」
「……あんた、もしかして危ない仕事やっているんじゃ」
「大丈夫よ。別に盗みなんてしていないから」
「いや、ていうかそもそも。私は賭けなんて……」
「どうせ命、いらないんでしょ? 拾った命で賭けをしてみると思って乗ってみなさい」
女は私の有無を聞かないまま歩き始める。すでに疲れ果てていた私は、まるで首輪をつながれたように女に付いていく他なかった。